2代目に向かってしきりに自分のラティハン体験を語る人達がいます。
2代目に話すぐらいですから、その人達にとってはそれはもう飛び切りの体験でありますね。
それでその人達はいったい何を求めて話しているのでしょうか?
自慢話ですか?
いいや、2代目の体験に比べれば自慢などはできないでしょう。
さて、そうするといったい何の為でしょう?
どうやらそれは「体験はしてみたものの意味が分からないので説明して欲しい」と。
あるいは「この体験は本物なのかどうかわからない」から「2代目からのお墨付きが欲しい」、、、と。
それはまるで「師に自分の悟り体験の認可を求めるお弟子さん」の様でありますね。
さて、「ラティハンというものは理解のレベルまで到達するもの」とはバパのコトバであります。
さあそうするとこれらの人たちは「感覚のレベルには到達した」ものの、少なくともまだ「理解のレベルまで達してはいない」ということが分かってしまうのでありました。
さらに言いますれば、「バパが求めたラティハンの成果」はそうした「神秘的体験を排除するもの」ではありませんが、それよりも「外から目で見て分かる結果」が必要でありました。
そうでなければその体験は単に「体験した者の主観的体験」になってしまうからでありますね。
そうして、そのような「主観的神秘体験を追い求める」ならば、それは「超能力を求めること」とほぼ同等のことになってしまうのでありました。
以下ご参考までに、、、
シルバーコード<--リンク
【一歩間違うとあの世行き!?】幽体離脱の危険性まとめ<--リンク
Out-of-body experience<--リンク
2章:スピリチュアリズムの黎明期(江戸末期~明治期)②<--リンク
芸能人女性の落とし方(19)~ももクロ・高城れにと幽体離脱デート~<--リンク
幽体離脱やリモート・ビューイングをマスターしたら月の裏側や太陽系、銀河系の中...<--リンク
PS
「ラティハンによる個人の成長と2つの成果」についてのバパの説明
1、ラティハンによる個人の成長のステージあるいはレベル
当然ながらそれぞれのレベルで個人が経験する体験は異なったものになる。
(1)、運動・浄化(身体、肉体のレベル<--運動神経系)
↓
(2)、感覚・準備(5感、その他の感覚レベル<--感覚神経系)
↓
(3)、 理解 (頭脳レベル<--中枢神経系)
↓
(4)、真の個性・意識(通常の意識レベルを超える<--kejiwaanの領域)
(4)に達したものは時が至ればロハ二rohaniに至る、とは二代目の説明であります。(On The subud Wayより)
そこに到達したものは死後は輪廻転生の輪から離脱し、ふさわしい所に住む事になる、とそのように言われております。(ジャワにイスラムを広めたとされる、9walisの様な聖人レベル)
とはいえ、全てのレベルでラティハンの浄化の作用は働く模様。
そうでなければ成長などは起こり得ない、、、という印象です。
追記(2018年10月)
ラティハンの浄化は荒い部分から始まり細かい、繊細な部分に順次移行する、と言うのが一般的な原則の様です。
それで体が自分の意志でもないのに勝手に動く、というレベル(運動神経系のレベル)から始まった動き、浄化の体験はその後感覚レベルの体験、浄化に移行します。(浄化が感覚神経系に及ぶ)
ちなみにラティハン後に味覚が鋭敏になる事は、当方の個人的な経験になります。
次はいよいよこの頭の浄化になります。(中枢神経系の浄化)
今までよく理解できなかった事が「あ、そうか」と言うような事が起こりますか。
しかしながら、バパの様に「人類の知識が流れ込む」というような事は起こりそうもありません。
その人の生活に必要な事が分かる、たとえば人の考えが良く分かる様になる、などが起こりそうです。
頭の浄化というのは、生まれてからこの方積み重ねてきた「世の中の影響の浄化」でもあります。
それが浄化されると「浮世離れして、役に立たない人間になる?」。
いやいや、そんな事はなさそうです。
そこには一定のバランスがあり、世の中の事を考える頭と、それを超える事を考えられる頭とが並行して存在するようになる、と言うのがバパの説明になります。
それが4番目の状態の様です。
その状態では生まれる前と死後の状態がわかる、と言うのがバパの説明になります。
2-1、一番目の成果(世的成果)
平素ラティハン・クジワァンに従い、その感覚と皆さんの中にもたらされた、何にでも注意深くあることです。
受けた成果は、皆さんの中にはっきりと現われ、ご自分でそれがわかるはずです。(71.8.23)
そして実際のところ、バパが今やっておりますように、グルーブからグループヘとあちこち旅行をしている目的、願望はと申しますと、ラティハンを何年も、おそらくは10年以上も続けてこられて、ラティハンクジワアンの成果、利益、効用やら恩恵の証拠を生活の中で得た方がお出でになるかどうか、見たり聞いたりしたいということなのです。(77.7.16)
このことから分ることは、私達の 外的な生活においてラティハンの成果が現われるためには、私達が日常生活を通じて、この種の動 きを経験することができる必要があることです。
その結果、私達は働く時、歩く時、話す時、書く時、何をする時でも、私達の内部にある力によって動かされつゝあるかのように思われます。
これは或る時期の間にすぐに習得できるようなものではありません。
しかし事実は、皆さんがこのことを感じ始める時、ラテイハンの成果を感じ始めるでしょう。(77.11.12)
本当に、兄弟姉妹の皆さん、皆さんがラティハンの成果を経験すれば━━━バパが成果と言いますのは皆さんが確実に見ることのできる結果のことです━━━ その結果は皆さんだけでなく他の人々の目にも見えるものとなるでしょう。(77.12.6)
2-2、二番目の成果(kejiwaan 霊的成果)
ラティハンクジワアンに依って得られる成果の数々に付いて云えば、それは此の世界には本当は不必要なのであり、それは皆さんの生命にとって此の世を離れた後に必要なのであります。(72.4.22)
↓
アブラハムの宗教では入信と宗教が教える行為の実践、神への礼拝によって信者さんは天国に行くことができる、とされている様です。
さてそれは基本的には信仰対象となっている「神」によって「良いかな」とされたものが「(死後に)天国に至る」のであります。
それではラティハンではどうでしょうか?
ラティハンは手段、方法であって、それによって我々の内部感覚内に積もったあやまり、あるいはカルマを浄化することによって天国に至るのであります。
そうしてそのような浄化の過程、あるいはその結果というものは自覚的に認識可能なものの様であります。
さてそういうわけで、死後に神の審判を待つ必要はなく、生前において死後の行く先が分かるとバパは言っているのでありました。
追伸
以上のような事はバパは強調されませんでした。
バパが暮らしたジャワはインドネシアではほとんどの協会の会員はイスラムでした。
そのような中で「単にイスラムであるだけでは天国に(あるいは緑園に)いけませんよ」と声高に言う事は相当の反発を覚悟する必要がありました。
そうして、そのような事はバパは望まれませんでした。
したがって「分かるものだけに分かる」様にしか話されませんでした。
しかし、本質はごまかす事はできません。
そういう意味では、アブラハムの宗教が宣言している内容と、バパの主張は実は鋭く対峙しているものなのであります。
さて、以上のことから分かりますように、バパは「神秘的な体験がラティハンの成果だ」と言われた事はないと認識しております。
このような状況は以前から少々気にはなっていたのですが、現状は神秘的な体験にスポットライトをあてすぎている印象があります。
そうしてこれは2代目の影響でしょうか、その傾向がだんだん強くなってきている様であります。
それで、けっして神秘的体験そのものを否定するものではありませんが、古人も言っております。
何事も「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」であると。
PS
必要な体験は神秘的なものまで含めて我々が自由にもとめられるものではありませんね。
それは「我々の成長に合わせて、必要に合わせて出現するもの」であります。
他方で、「ラティハンの内容に注意深くあり、そうして、日常生活にも注意深くあることは我々に求められていること」であります。<--リンク
そういう訳で「求められないものを求める」よりは、「できることをやる」、というのがまあ道理にかなっていると思われるのであります。
PS
この世でのラティハンの到達点はどこであるのか?
この問いに対する答えは「真の人間的なレベルであるロハニである。」となりましょう。
このロハニレベルに至りますれば、「真の人間の生命力(ロハ二)が下の4つのロホを導き調整する働きをします。(57・7・21 CSP)」のトークの様になります。
下の4つとは人間の生命力以下の4つの生命力であり、この4つの生命力は4つのナフスを動かすものでもあります。
つまり、ナフス、あるいは欲望、動機、意欲というものが自ずから道に従う状態になるのであります。
これがロハニに至る為の必要な状況であり、そうしてまたその結果でありましょう。
さて、そうなった人はいったいどうなるのでありましょうか?
何のことは無い、外面的には今までと同じ仕事をして、同じ暮らしを続けるのでありましょう。
しかしながら、その内面の状況は変化しており、そうしてその変化に対応するように外面の生活状況もまた変化すると思われます。
そうしてそれは、前もって用意されている贈り物を受け取る事が出来たことの表れとなるでしょう。<--リンク
そういうわけで、水の上を歩いたり、幽体離脱をしたり、、、などの神秘的な現象を積極的に求めるという事はしない方がよろしいかと思われます。
PS
以下、ご参考までに。
3月5日March 5, 1963 - Bapak
『・・・・・
Bapakがちょうど耳にしたメンバー、彼の名前はハドソン、に起こったように、彼はラティハンで彼自身が昼の明るさより明るい光に囲まれたのを見ました。
実際には、それは死の時の生命の雰囲気であり、この世界を超えた生命の雰囲気です。
だから、ハドソン氏が今死んでいたとすれば、彼はそのような状態になります。
つまり彼は暗闇の中にはいません。
それはバパが魂の目と呼んでいるもので、何の制限もなく知ることができる目です。
せいぜい1000マイルほどしか見ることができない物理的な目とは異なり、[魂の目にとっては](距離に)制限はありません。
彼が見たことは、ちょうど始めにある様なものと言うことができ、あたかも子供が遊んでいる様な、内容も意味もない、そのようなものですが、それにもかかわらずそれはラティハンの中では、予期せぬ素晴らしい状態を受け取ることができるという一つの例、あるいは証明の様なものです。
したがって、そのように見えるあなたのラティハンは、あなたの内部感覚を満足させることができる多くの内容や真実で満ちています。
・・・・・』
さて「自分自身を包む昼の様な光を見た」などというのは、まるでバパが最初にラティハンを受けた時の様子に似ており、とびきりの神秘的な体験の様にみえます。
しかしながらハドソン氏の話題はそれで終わりの様であり、そのような神秘的な体験をされたハドソン氏はその後、協会の中で指導的な立場に立って、多くの後輩を育てた、というような話は一向に聞かれません。
従いまして「神秘的な体験」そのものを否定するものではありませんが、それは求めて得られるものではなく、加えて「その神秘的な体験が何をもたらしたのか?」という事は慎重に評価・吟味する必要のある事の様であります。
PS
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2代目に話すぐらいですから、その人達にとってはそれはもう飛び切りの体験でありますね。
それでその人達はいったい何を求めて話しているのでしょうか?
自慢話ですか?
いいや、2代目の体験に比べれば自慢などはできないでしょう。
さて、そうするといったい何の為でしょう?
どうやらそれは「体験はしてみたものの意味が分からないので説明して欲しい」と。
あるいは「この体験は本物なのかどうかわからない」から「2代目からのお墨付きが欲しい」、、、と。
それはまるで「師に自分の悟り体験の認可を求めるお弟子さん」の様でありますね。
さて、「ラティハンというものは理解のレベルまで到達するもの」とはバパのコトバであります。
さあそうするとこれらの人たちは「感覚のレベルには到達した」ものの、少なくともまだ「理解のレベルまで達してはいない」ということが分かってしまうのでありました。
さらに言いますれば、「バパが求めたラティハンの成果」はそうした「神秘的体験を排除するもの」ではありませんが、それよりも「外から目で見て分かる結果」が必要でありました。
そうでなければその体験は単に「体験した者の主観的体験」になってしまうからでありますね。
そうして、そのような「主観的神秘体験を追い求める」ならば、それは「超能力を求めること」とほぼ同等のことになってしまうのでありました。
以下ご参考までに、、、
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2章:スピリチュアリズムの黎明期(江戸末期~明治期)②<--リンク
芸能人女性の落とし方(19)~ももクロ・高城れにと幽体離脱デート~<--リンク
幽体離脱やリモート・ビューイングをマスターしたら月の裏側や太陽系、銀河系の中...<--リンク
PS
「ラティハンによる個人の成長と2つの成果」についてのバパの説明
1、ラティハンによる個人の成長のステージあるいはレベル
当然ながらそれぞれのレベルで個人が経験する体験は異なったものになる。
(1)、運動・浄化(身体、肉体のレベル<--運動神経系)
↓
(2)、感覚・準備(5感、その他の感覚レベル<--感覚神経系)
↓
(3)、 理解 (頭脳レベル<--中枢神経系)
↓
(4)、真の個性・意識(通常の意識レベルを超える<--kejiwaanの領域)
(4)に達したものは時が至ればロハ二rohaniに至る、とは二代目の説明であります。(On The subud Wayより)
そこに到達したものは死後は輪廻転生の輪から離脱し、ふさわしい所に住む事になる、とそのように言われております。(ジャワにイスラムを広めたとされる、9walisの様な聖人レベル)
とはいえ、全てのレベルでラティハンの浄化の作用は働く模様。
そうでなければ成長などは起こり得ない、、、という印象です。
追記(2018年10月)
ラティハンの浄化は荒い部分から始まり細かい、繊細な部分に順次移行する、と言うのが一般的な原則の様です。
それで体が自分の意志でもないのに勝手に動く、というレベル(運動神経系のレベル)から始まった動き、浄化の体験はその後感覚レベルの体験、浄化に移行します。(浄化が感覚神経系に及ぶ)
ちなみにラティハン後に味覚が鋭敏になる事は、当方の個人的な経験になります。
次はいよいよこの頭の浄化になります。(中枢神経系の浄化)
今までよく理解できなかった事が「あ、そうか」と言うような事が起こりますか。
しかしながら、バパの様に「人類の知識が流れ込む」というような事は起こりそうもありません。
その人の生活に必要な事が分かる、たとえば人の考えが良く分かる様になる、などが起こりそうです。
頭の浄化というのは、生まれてからこの方積み重ねてきた「世の中の影響の浄化」でもあります。
それが浄化されると「浮世離れして、役に立たない人間になる?」。
いやいや、そんな事はなさそうです。
そこには一定のバランスがあり、世の中の事を考える頭と、それを超える事を考えられる頭とが並行して存在するようになる、と言うのがバパの説明になります。
それが4番目の状態の様です。
その状態では生まれる前と死後の状態がわかる、と言うのがバパの説明になります。
2-1、一番目の成果(世的成果)
平素ラティハン・クジワァンに従い、その感覚と皆さんの中にもたらされた、何にでも注意深くあることです。
受けた成果は、皆さんの中にはっきりと現われ、ご自分でそれがわかるはずです。(71.8.23)
そして実際のところ、バパが今やっておりますように、グルーブからグループヘとあちこち旅行をしている目的、願望はと申しますと、ラティハンを何年も、おそらくは10年以上も続けてこられて、ラティハンクジワアンの成果、利益、効用やら恩恵の証拠を生活の中で得た方がお出でになるかどうか、見たり聞いたりしたいということなのです。(77.7.16)
このことから分ることは、私達の 外的な生活においてラティハンの成果が現われるためには、私達が日常生活を通じて、この種の動 きを経験することができる必要があることです。
その結果、私達は働く時、歩く時、話す時、書く時、何をする時でも、私達の内部にある力によって動かされつゝあるかのように思われます。
これは或る時期の間にすぐに習得できるようなものではありません。
しかし事実は、皆さんがこのことを感じ始める時、ラテイハンの成果を感じ始めるでしょう。(77.11.12)
本当に、兄弟姉妹の皆さん、皆さんがラティハンの成果を経験すれば━━━バパが成果と言いますのは皆さんが確実に見ることのできる結果のことです━━━ その結果は皆さんだけでなく他の人々の目にも見えるものとなるでしょう。(77.12.6)
2-2、二番目の成果(kejiwaan 霊的成果)
ラティハンクジワアンに依って得られる成果の数々に付いて云えば、それは此の世界には本当は不必要なのであり、それは皆さんの生命にとって此の世を離れた後に必要なのであります。(72.4.22)
↓
アブラハムの宗教では入信と宗教が教える行為の実践、神への礼拝によって信者さんは天国に行くことができる、とされている様です。
さてそれは基本的には信仰対象となっている「神」によって「良いかな」とされたものが「(死後に)天国に至る」のであります。
それではラティハンではどうでしょうか?
ラティハンは手段、方法であって、それによって我々の内部感覚内に積もったあやまり、あるいはカルマを浄化することによって天国に至るのであります。
そうしてそのような浄化の過程、あるいはその結果というものは自覚的に認識可能なものの様であります。
さてそういうわけで、死後に神の審判を待つ必要はなく、生前において死後の行く先が分かるとバパは言っているのでありました。
追伸
以上のような事はバパは強調されませんでした。
バパが暮らしたジャワはインドネシアではほとんどの協会の会員はイスラムでした。
そのような中で「単にイスラムであるだけでは天国に(あるいは緑園に)いけませんよ」と声高に言う事は相当の反発を覚悟する必要がありました。
そうして、そのような事はバパは望まれませんでした。
したがって「分かるものだけに分かる」様にしか話されませんでした。
しかし、本質はごまかす事はできません。
そういう意味では、アブラハムの宗教が宣言している内容と、バパの主張は実は鋭く対峙しているものなのであります。
さて、以上のことから分かりますように、バパは「神秘的な体験がラティハンの成果だ」と言われた事はないと認識しております。
このような状況は以前から少々気にはなっていたのですが、現状は神秘的な体験にスポットライトをあてすぎている印象があります。
そうしてこれは2代目の影響でしょうか、その傾向がだんだん強くなってきている様であります。
それで、けっして神秘的体験そのものを否定するものではありませんが、古人も言っております。
何事も「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」であると。
PS
必要な体験は神秘的なものまで含めて我々が自由にもとめられるものではありませんね。
それは「我々の成長に合わせて、必要に合わせて出現するもの」であります。
他方で、「ラティハンの内容に注意深くあり、そうして、日常生活にも注意深くあることは我々に求められていること」であります。<--リンク
そういう訳で「求められないものを求める」よりは、「できることをやる」、というのがまあ道理にかなっていると思われるのであります。
PS
この世でのラティハンの到達点はどこであるのか?
この問いに対する答えは「真の人間的なレベルであるロハニである。」となりましょう。
このロハニレベルに至りますれば、「真の人間の生命力(ロハ二)が下の4つのロホを導き調整する働きをします。(57・7・21 CSP)」のトークの様になります。
下の4つとは人間の生命力以下の4つの生命力であり、この4つの生命力は4つのナフスを動かすものでもあります。
つまり、ナフス、あるいは欲望、動機、意欲というものが自ずから道に従う状態になるのであります。
これがロハニに至る為の必要な状況であり、そうしてまたその結果でありましょう。
さて、そうなった人はいったいどうなるのでありましょうか?
何のことは無い、外面的には今までと同じ仕事をして、同じ暮らしを続けるのでありましょう。
しかしながら、その内面の状況は変化しており、そうしてその変化に対応するように外面の生活状況もまた変化すると思われます。
そうしてそれは、前もって用意されている贈り物を受け取る事が出来たことの表れとなるでしょう。<--リンク
そういうわけで、水の上を歩いたり、幽体離脱をしたり、、、などの神秘的な現象を積極的に求めるという事はしない方がよろしいかと思われます。
PS
以下、ご参考までに。
3月5日March 5, 1963 - Bapak
『・・・・・
Bapakがちょうど耳にしたメンバー、彼の名前はハドソン、に起こったように、彼はラティハンで彼自身が昼の明るさより明るい光に囲まれたのを見ました。
実際には、それは死の時の生命の雰囲気であり、この世界を超えた生命の雰囲気です。
だから、ハドソン氏が今死んでいたとすれば、彼はそのような状態になります。
つまり彼は暗闇の中にはいません。
それはバパが魂の目と呼んでいるもので、何の制限もなく知ることができる目です。
せいぜい1000マイルほどしか見ることができない物理的な目とは異なり、[魂の目にとっては](距離に)制限はありません。
彼が見たことは、ちょうど始めにある様なものと言うことができ、あたかも子供が遊んでいる様な、内容も意味もない、そのようなものですが、それにもかかわらずそれはラティハンの中では、予期せぬ素晴らしい状態を受け取ることができるという一つの例、あるいは証明の様なものです。
したがって、そのように見えるあなたのラティハンは、あなたの内部感覚を満足させることができる多くの内容や真実で満ちています。
・・・・・』
さて「自分自身を包む昼の様な光を見た」などというのは、まるでバパが最初にラティハンを受けた時の様子に似ており、とびきりの神秘的な体験の様にみえます。
しかしながらハドソン氏の話題はそれで終わりの様であり、そのような神秘的な体験をされたハドソン氏はその後、協会の中で指導的な立場に立って、多くの後輩を育てた、というような話は一向に聞かれません。
従いまして「神秘的な体験」そのものを否定するものではありませんが、それは求めて得られるものではなく、加えて「その神秘的な体験が何をもたらしたのか?」という事は慎重に評価・吟味する必要のある事の様であります。
PS
文字サイズはページ右上で変更できます。
ラティハン日記 目次 にはこちらから入れます。<--リンク
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