スシラ ブディ ダルマの中では諸力とナフス(nafsu)の関係について、一般的な形で述べられています。
つまり外界からの刺激を受けて諸力が働き、そのことによって人の中でいろいろな欲望、動機が発生して、それが行動に結びつく、、、と説明されています。
しかしながらスシラ ブディ ダルマでは個々の諸力と個々のナフスの1対1関係については言及されていません。
それについてのバパの言及があるのはスシラ ブディ ダルマを受けてから5年ほど過ぎた後のトーク(7,20,1957)が最初になり、以降複数のトークで語られる事になります。
それらのトークの中でバパは4つの諸力と4つのナフスの対応関係などについて語っているのであります。
したがいまして、以下に記述される内容はスシラ ブディ ダルマには記述されておりませんが、それを補完するものになります。
さて、ナフス(nafs)というコトバはコーランに出てくることから分かる様にもともとはイスラムのものです。
それをイスラム神秘主義者であるスーフィー達が発展させて使ってきました。
そうして、その言葉がスーフィーズムと共にインドネシアに伝わり、そこでまた独自の展開をしました。
それが今、ジャワで使われているナフス(nafsu)という言葉になります。
ジャワでのナフスの意味するところは、人の中に常に存在している欲望、願い、動機、衝動を表すのであります。
そうして、バパもまたそのような使い方を踏襲しています。
さて、通常の生活では大方はナフスによって動いています。
こうしなければいけない、こうしたい、という動機があって次に行動が発生するのであります。
そのような動機、希望、欲望、意思をナフスといいます。
そうして、そのナフスの後ろにあってナフスに力を与えているものとしての生命力、あるいは諸力というものをバパは想定しています。
その生命力(ロホ)は全部で9種類ある、というのがバパの説明でもありますし、ジャワ伝統的イスラムのとらえ方でもあります。
(但しジャワイスラムは「ナフスに力を与えているものがロホである」という立場はとってはいません。
しかしながら、ナフスとロホが人の中にありそれぞれが固有の働きをしている、ということは主張しています。)<--リンク
さて、もともとコーランで記述されているナフスは3つ(アマラ、ルアマ、ムトマイナ)でしたが、ジャワに伝わってスフィアが追加され4つに増えました。
そうして、最初の3つは人が持っている、あまり好ましくはない欲望として記述される事が多い様です。
そして唯一ムトマイナのみは常に「このましい欲望」として記述されています。
さて、物質力によって発生するナフスはamarah(アマラ)であるとバパは言います。
まずはコーランの記載から。
「またわたし自身、無欠とはいえませんが、主が慈悲をかけた以外の(人間の)魂は悪に傾きやすいのです。
本当にわたしの主は寛容にして慈悲深くあられます」(ママ)」
[Q 12: 54](“nafs ammāra” 該当部分)。
スーフィー マスターのナジュムッディーン・クブラー(Najm al-Dīn Kubrā, d. 1220)、彼はナフスを三段階に分け、ルーフとスィッルとを合わせた五段階のラターイフ論を展開するのですがそこでは
「悪を命令する魂(nafs ammāra)」
となります。<--リンク
Wikiよりスーフィーsufi世界での標準の7つのナフス(Nafs)によれば、<--リンク
1. ナフス・アンマーラ an-nafs al-ʾammārah 扇動の魂
そしてワヤン(Wayang)での4ナフスシステムからは、<--リンク
2、赤はアマラ amarah の欲望で怒りにつながる。
ジャワの伝統を述べたGumelaring Jagadの第41節ナフスでは<--リンク
第2はアマラamarah、色は赤です。
肉体は欲望を満たし、怒りやすいです。
あるクバティナン流派での分類では、<--リンク
第二はアマラ amarah すなわち自尊心,
そうして、最後はあるトークでのバパの説明からは、<--リンク
スクマ(sukma、精妙体)の色 対応するナフス(nafsu,passion)
第二は赤 amarah 自己中心主義
そうして、バパは多くのトークでナフス・アマラについて語っています。
以下はそこからの引用になります。
7,20, 1957 - Bapak
amarahの光あるいは放射の性質は、赤色です。
amarahは、盲目的に作用し、何が良いのかを理解していません。
9,29, 1957 - Bapak
amarahは、金持ちになるか、自分のために富を獲得したがる欲求。
8,6, 1959 - Bapak
amarahはエゴイスティック、がめつく、傲慢です。
8,7, 1959 - Bapak
amarahは、自己中心主義です。
3,5, 1963 - Bapak
あなたは、あなたのハートとマインドの中に存在する情熱「ammara」が「常に正しくありたい」とする欲求であるためにそれに従うことができます。
それは勝つためであり、賢さを認めさせる為であり、自分だけの為に生きるのであり、その願いは要するに、他人を凌駕するとともに、他人の力を排除または減少させたいという欲望であります。
あなたはこの情熱の影響を受けているとき、あなたがそれを楽しむからではなく、口論したい、戦いたい、他の人とは違っていたい、一人でいたい、時にはあなた自身の家族から、またはあなたの妻や夫から分離されてまでもそうしたいからなのです。
要するに、実際に利己主義と貪欲という欲望のために、人間が低いレベルに落ちるようになり、そして彼らの内部感覚とハートの中で、非常に簡単に貧困の深淵に落ち込んでしまいます。
9,13,1963 - Bapak
amarahと呼ばれる怒りの欲望があります。
この欲望が人をを操作するとき、それは彼らが口論することになり、意地悪く、自己中心的で争いたがります。
7,8, 1970 - Bapak
ハートとマインドのnafsuの性質は、aluamahとamarahです。
それは貪欲のnafsuと怒りのnafsuです。
8,23, 1971 バパ
したがって、あなたは、あなたの一生の間にamarahを取り除くことはできません。
amarahとは意志や欲望の事です。
強い意志がなければ、欲望がなければ、あなたは、服を買うことができませんでした。
あなたが地球上で行うすべての事は意志や欲望のためです。
11,26, 1972 - Bapak
ナフスは、仕事をしてこの世界で生活費を稼ぐためのエネルギーを提供するので、我々にとっては非常に有用です。
5,27, 1976 - Bapak
このような人々はまだ影響を受け、さらに低次の諸力と怒り(amarah)と貪欲(nafsu angkara)の情熱によって汚されています。
11,20, 1976 - Bapak
しかし、amarahは次々に多くの様々な形の欲望や意志で満たされています。
たとえば、怒りや貪欲、お金持ちになりたい、あるいは有名または賢くなりたい、自分一人のために生きたい、自分の快適さと喜びを願います。
6,18, 1981 - Bapak
最初の二つ(Aluamanah, amarah)は、貪欲や怒りの情熱です。
それは「勝ちたい」という人の情熱で、他人を倒す事を望み、常に上になりたがって、そして他のだれよりも優れていたがります。
5,9, 1985 - Bapak
ナフス amarahは貪欲や怒りの欲望と呼ばれます。
それは、常に人類を苦しめ、非常に楽しみながら慣れた戦いを引き起こして、そして他の人々のニーズに全く感覚を持たず、自分のニーズのためだけに、人々を抑圧し、彼らの自由と独立を奪うことを好みます。
そのナフスは、実際にナフスraiwaniと呼ばれる物質力のナフスです。
このナフスは非常に密接に人の存在に人の心を通じて結び付けられています。
6,17, 1985 - Bapak
私たちは常にナフスamarahの作用によって妨げられ乱されています。
または物質力のナフス。
6,24, 1985 - Bapak
amarahは口論、競合、意見の相違、憎しみ、嫌悪、などなどを発生させる情熱です。
これは、人々をして紛争、嫌悪と不調和の状態にさせます。
amarahは競合を引き起こし、それは物質生命力の存在に由来します。
11,25, 2002 - Ibu
amarahと呼ばれるものは働くための性質であり、これは人間が働かなければならないことを意味しています。
だから、誰かが「仕事をしたくない」と言うのは間違いです。
仕事をすること、仕事を楽しむことは人間の本性の一部なのです。
2,25, 2005 Ibu
そして、情熱amarah、働きたいという我々の欲望です。
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上記バパのトークの部分についての英文からの引用は以下を参照願います。
Chapter 2 Material force and nafsu Amarah<--リンク
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PS
ご参考までに。
Sedulur Papat Limo Pancer(4人兄弟、第5は中心)より引用<--リンク
『アマラamarahの欲望は、自尊心、怒り、感情などを維持するという欲求に関連しています。
この欲望は、人間の体を形成する熱/火の性質によって影響されると言われています。』
PS
もともとコーランの中に記述されているナフスはアンマーラ、ラウアーマ、ムトマインナだと思われます。
そうして、それぞれがイスラムを信仰する者のそれぞれの状態をしていているものと理解しています。
それがスーフィズムになりますと、ナフスと言うのは一人のスーフィーが修行をしていく時に経験していく意識の階段の様に扱われていきます。
それによれば、まずはアンマーラではじまり、ラウアーマを経てムトマインナに至るという順番になっています。
この場合、それぞれのナフスは魂の発展段階(あるいは意識の発展段階)を示すものとして扱われれます。
したがって一人の修行者の中に2つ以上のナフスが同時に存在する事はありません。
このことがジャワで一般に認識されているナフス(nafsu)とスーフィーズムで扱われているナフス(nafs)との間での大きな違いとなっています。
そうしてジャワにおきましては「人は皆4人の兄弟と一緒に生まれてくる。」という言い伝えがあり、その発展形としてスーフィズムのナフスを吸収していったという経緯があります。
その吸収過程で3つしかなかったナフスにスーフィヤがついかされジャワ固有の「4つのナフス」という体系が出来上がったのでありました。
そうであれば、ジャワにおきましては人の中に常に同時に4つのナフスが存在する事になったのであります。
そうしてまたバパも「常に人の中に存在する4つのナフス」という考え方を用いながらラティハンを説明していったものと思われます。
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