源氏側に嫡男を生け捕られている阿波の民部成能は、
ついに平家を裏切って源氏に味方し、平家の船に討ちかかる・・・
<本文の一部>
同じく二十四日の卯の刻に、源平鬨をつくる。うえは梵天にも聞
こえ、下は海龍神までもおどろきぬらんとぞおぼえたる。門司、赤
間、壇の浦は、みなぎりて落つる潮なれば、源氏の船は潮に引かれ
て心ならず引き落さる。
平家の船は潮に追うてぞ来たりける。沖は潮の早ければ、なぎさ
について、梶原、敵の船の行きちがふを熊手うちかけて、乗りうつり、
乗りうつり、散々に戦ふ。分捕あまたしたりければ、その日の
功名の一にぞつきたりける・・・・・・・・
・・・・・平家は千余艘の船を三手に分かつ。先陣は、山鹿の兵頭
次秀遠五百余艘二陣は、松浦党三百余艘にて参り給ふ。先陣にすす
みたる山鹿の兵頭次秀遠がはかりごととおぼえて、精兵を五百人そ
ろへて、五百艘の船の舳に立て、射させけるに、鎧も、盾も射通さる。
源氏の船射しらまされて漕ぎしりぞく。
平家はこれを見、「御方すでに勝ちぬ」とて、攻め鼓を打って、
よろこびの鬨をつくる。
陸にも源氏の軍兵七千余騎ひかえて戦ひけり。そのうちに相模の
国の住人、三浦の和田の小太郎義盛、船には乗らで、これも馬に乗り、
ひかへて戦ひけるが、三町がうちの者は射はづさず。三町余が沖に
浮かび
たる新中納言の船を射越して、白箆の大矢を一つ波の上
にぞ射浮かべたる。
和田の小太郎、扇をあげて、「その矢こなたへかへし賜ばん」と
ぞ招きける。
新中納言、この矢を召し寄せて見給へば、白箆(しらの)に鵠の羽に
て矧いだる矢の、十三束三伏(じゅうさんぞくみつぶせ)ありけるが、
沓巻のうへ一束おきて、「三浦の和田の小太郎義盛」と漆をもって
書きたりけり・・・・・・・・
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<あらすじ>
(1) 元暦二年(1185)三月二十四日の午前六時ごろ、源氏平氏共
に鬨(とき)の声を上げて、激しい潮流の中で平家側では新中納
言知盛の檄が飛ぶ!
(2) 平の知盛は、大臣殿(おほいどの)(宗盛)に、『今日は侍の士
気が大へん盛んですが、ひとり阿波の民部成能(しげよし)だけ
が“変心”したのか闘志が見えません。彼の首を刎(は)ねたい
ものです』と進言するが、宗盛はそのことを信じられず、『証
拠も無いのに首は斬れない』と、許さなかった。
(3)千余艘の船を三手に分けた平家勢は、先陣に“強弓精兵”の者
を配して連射に次ぐ連射で、これにより源氏方は射すくめられ
船団を後退させた。これを見た平家勢は勝ち誇って勝鬨の陣太
鼓を打ち鳴らした。
しかし源氏の中には陸地にいて馬に乗り、海中の平家の船の
兵を射落とす者あり。平家側もこれに呼応して射返し、源平共
に強弓の猛者たちが激しく戦うさまを描写する。
(4) 源平乱れあい数時間の後、この間に阿波の民部成能は、平家
側にありながら、嫡男の田内左衛門(でんないざえもん)を源氏
に生け捕られている為、親子の情愛耐え難く遂に平家を裏切り
源氏方に寝返ったのであった。
これを見た四国や九州の兵たちは、平家に利あらずと忽ちに
一斉に源氏方に寝返り、平家勢の多数の将兵が射倒され斬り伏
せられて船底にばたばたと倒れたのであった。
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