画面左上は、肥満で動けない嫡男の小太郎・宗康を残して落ち行く
瀬尾の太郎兼康の一行。
「命惜しさに、一人息子を捨てたと言われるのは恥ずかしい」と、
息せき切って小太郎のところへ戻ったところ(画面の左下)。
画面右は、瀬尾兼康を追ってきた五十騎ばかりの木曽源氏の軍勢。
<本文の一部>
平家は備中の国水島の軍に勝ってこそ、会稽の恥をばきよめけれ。
木曽これを聞き、一万余騎にて馳せ下る。
ここに平家の侍に聞こふる強者、備中の国の住人瀬尾の太郎兼康と
いふ者あり。去んぬる五月に砺波山にて生捕にせられたりしを、「聞
こふる剛の者なれば」とて、木曽惜しんで切られず。加賀の国の住人
倉光三郎成澄にあづけられたりけるが、瀬尾、あづかりの倉光に申し
けるは、「木曽殿、山陽道へ御下りとうけたまはり候。兼康が知行の
所、備中の瀬尾と申す所は、馬の草飼よき所にて候。申して、御辺賜
はらせ給へかし。
去んぬる五月よりかひなき命を助けられたてまつり候へば、げに、
いくさ候はば、まっさき駆けて命を奉らうずるにて候」と申せば、倉
光の三郎この様を木曽左馬頭殿に申す。木曽殿これを聞き、「きやつ
は剛の者と聞くが惜しければ、生けおきたるなり。具して下りて案内
者させよ」とぞのたまひける。・・・・・・・
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<あらすじ>
<瀬尾兼康・宗康の親子が討ち取られる>
(1) 寿永二年(1183)五月、般若野の戦いで“木曽勢の今井四郎”は
平家(平盛俊)を破ったが、この時“砺波山”で捕らわれた平家の
強者・瀬尾太郎兼康という者、聞こえた豪の者とてこれを惜し
んで、木曽義仲は斬首せず配下の倉光三郎成澄に預けた。
(2) 瀬尾兼康は、木曽義仲に忠節を尽くすと思わせて、山陽道を下
る途中、備前の国(本文では備中の国となっているが)三石の宿で
酒を勧めて、旅の疲れもあって前後不覚に酔いつぶれた倉光一行
を全て刺し殺してしまう。
これを知った義仲は、恩を仇で返されたと激怒して今井四郎
に命じて「追っかけて切れ!と」。
(3) 今井四郎は、三千余騎にて瀬尾親子を追いかけて、遂に兼康と
嫡男の宗康を討ち取り、鷺の森で“さらし首”にかけた。
<義仲が、行家に讒言される>
(1) 義仲は、備中の国から屋島(平家軍)へ渡るばかりに準備中に、
都の留守役からの飛脚で「源の十郎行家が、“義仲”のことを
悪しざまに、有ること無いこと陥れるような中傷讒言を“後白河
院”に伝えているので、一刻も早く都へ戻るように・・」と報せ
てきた。
義仲は、急遽“戦さ”を中断して都へ駆けつける。義仲が都
へ入ったことを知って驚いた 行家 は、急いで都を立ち退き
播磨の国へ下っていった。
<行家は、平家軍に戦いを挑み敗れて落ちて行く>
(1) 一方、平家は 平知盛 の二万余騎が千艘の船に分乗して播磨の
“室山”に陣を敷いた。
これを知った 行家は 木曽義仲との仲直りの手土産にと、二千
余騎を率いて室山の平家軍に攻撃をかけ、一日戦闘を続けるも
のの多勢に無勢、散々に討ち取られて引き退き、落ちて行くの
であった。
結局、行家 は播磨を 平家 に押さえられ、都 は 義仲 をは
ばかって、河内へ逃れたと云う。