敵兵(源氏方)の首を運び込む“平教経”軍の軍兵たち。
淡路島の福良の津に攻めよせた“平教経”軍は、源氏方を討ち破り、賀茂の冠者は討ち死に、淡路の
冠者は手傷を負い捕らわれた。
<本文の一部>
さるほどに、平家は正月中旬のころ、讃岐の屋島より摂津の国難波潟へぞ伝はり給ふ。
東は生田の森を大手の木戸口とさだめ、西は一の谷を城郭とぞかまへける。そのうち、
福原、兵庫、板宿、須磨にこもる勢、ひた兜八万余騎・・・・・・・・・・
一の谷は口は狭くて奥広く、北は山、南は海、岸高うして屏風をたてたるがごとし。北の
山ぎはより南の磯にいたるまで、大石をかさね、上に大木を切って逆茂木にひきたり・・・
阿波、讃岐の在庁らども、源氏に心ざしありけるが、「昨日まで平家にしたがうたる者
が、今日参りたらば、よも用ひられじ。平家に矢一つ射かけて、それを面にして参らん」と、
小船百艘にとり乗って、門脇の平の中納言、平宰相教盛の子息、備前の国下津井におは
しけるを、討ちたてまつらん」とて、下津井に押し寄せたり。
能登の前司これを聞き、「昨日まではわれらが馬の草飼うたるやつばらが、今日ちぎりを
変ずるこそあんなれ。その儀ならば、一人ものこらずうち殺せ」とて、五百余騎にて駆け給
へば、これらは、「人目ばかりに、矢ひとつ射かけ、引きしりぞかん」と思ひけるところに、
能登殿に攻められて、「われ先に」と船に乗り、都のかたに逃げのぼるが、淡路の福良に
着きにけり・・
正月廿八日、都には、院の御所より、蒲の冠者範頼、九郎義経二人を召され、「わが朝
には神代よりつたはれる三つの宝あり。神璽、宝剣、内侍所これなり。ことゆえなく都へ返
し入れたてまつれ」と仰せくだされければ、両人かしこまって承り、まかり出づ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
<あらすじ>
(1) 寿永三年(1184)正月中頃に、平家は(四国の)屋島から(兵庫の)“一の谷”へと陣を
移した。総勢八万余騎と・・・・・・
(2) 阿波(徳島)や讃岐(香川)の地元役人らは、源氏に味方をしたいと思っていたが、手
土産代わりに功績を挙げようと、下津井の港に陣を敷く“平教経”に弓を引こうとした
が、逆に攻められ蹴散らされて淡路の福良の港に逃げ込んだ。
(3) 淡路の城を構えていた源氏の二人の大将(賀茂の冠者・末秀と、淡路の冠者・為清)
を攻撃した“平教経”軍二千余騎は、丸一日を戦い尽くした末に、賀茂の冠者は討
死、淡路の冠者は手傷を負って自害して果てた。そしてこれらの郎等百人余りの首
を刎ね、福原へ持参し名簿を差し出した。
(4) 伊予の国(愛媛)の河野の四郎は、安芸の国(広島)の沼田の次郎と合流し沼田の城
に立て籠った(二千余騎)が、それを知った“平教経”軍三千余騎はすぐさまそれを
追い、沼田城を攻め沼田の次郎は降参し捕われ、河野の四郎は何とか逃げ延び
て四国へと渡ったのであった。
(5) 又、淡路の阿万六郎忠景も源氏に心を寄せていたが、大船二艘で都へ上るが、
“平教経”軍は小船二十余艘を率いてこれを攻撃し、阿万の忠景は敗れて和泉国
吹飯浦(大阪)に逃げた。
(6) 紀伊の国(和歌山)の園部兵衛忠泰は、和泉の吹飯浦に逃れた阿万六郎と合流し
たが、これも“平教経”軍に攻められ、阿万六郎と園部忠泰は、家来に“防ぎ矢”さ
せて都へ向かって逃げ、そして郎等たち五十余人は平家に首を取られ、“教経”は
福原へ帰還したと云う。
(7) 豊後(大分)の臼杵維高と緒方維義、伊予(愛媛)の河野通信の三人は合流し、三千
余騎で備前(岡山)の今来の城まで攻め上った・・・・、これを知った“教経”は、一万
余騎でこれを攻めた為、合流した三人は敗れて、それぞれの国へ逃げ帰ったと伝
えられている。
平宗盛ら平家一門の人々は、“教経”の度重なる合戦での功名を
賞めそやしたと云う。
淡路島の福良の津に攻めよせた“平教経”軍は、源氏方を討ち破り、賀茂の冠者は討ち死に、淡路の
冠者は手傷を負い捕らわれた。
<本文の一部>
さるほどに、平家は正月中旬のころ、讃岐の屋島より摂津の国難波潟へぞ伝はり給ふ。
東は生田の森を大手の木戸口とさだめ、西は一の谷を城郭とぞかまへける。そのうち、
福原、兵庫、板宿、須磨にこもる勢、ひた兜八万余騎・・・・・・・・・・
一の谷は口は狭くて奥広く、北は山、南は海、岸高うして屏風をたてたるがごとし。北の
山ぎはより南の磯にいたるまで、大石をかさね、上に大木を切って逆茂木にひきたり・・・
阿波、讃岐の在庁らども、源氏に心ざしありけるが、「昨日まで平家にしたがうたる者
が、今日参りたらば、よも用ひられじ。平家に矢一つ射かけて、それを面にして参らん」と、
小船百艘にとり乗って、門脇の平の中納言、平宰相教盛の子息、備前の国下津井におは
しけるを、討ちたてまつらん」とて、下津井に押し寄せたり。
能登の前司これを聞き、「昨日まではわれらが馬の草飼うたるやつばらが、今日ちぎりを
変ずるこそあんなれ。その儀ならば、一人ものこらずうち殺せ」とて、五百余騎にて駆け給
へば、これらは、「人目ばかりに、矢ひとつ射かけ、引きしりぞかん」と思ひけるところに、
能登殿に攻められて、「われ先に」と船に乗り、都のかたに逃げのぼるが、淡路の福良に
着きにけり・・
正月廿八日、都には、院の御所より、蒲の冠者範頼、九郎義経二人を召され、「わが朝
には神代よりつたはれる三つの宝あり。神璽、宝剣、内侍所これなり。ことゆえなく都へ返
し入れたてまつれ」と仰せくだされければ、両人かしこまって承り、まかり出づ。
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<あらすじ>
(1) 寿永三年(1184)正月中頃に、平家は(四国の)屋島から(兵庫の)“一の谷”へと陣を
移した。総勢八万余騎と・・・・・・
(2) 阿波(徳島)や讃岐(香川)の地元役人らは、源氏に味方をしたいと思っていたが、手
土産代わりに功績を挙げようと、下津井の港に陣を敷く“平教経”に弓を引こうとした
が、逆に攻められ蹴散らされて淡路の福良の港に逃げ込んだ。
(3) 淡路の城を構えていた源氏の二人の大将(賀茂の冠者・末秀と、淡路の冠者・為清)
を攻撃した“平教経”軍二千余騎は、丸一日を戦い尽くした末に、賀茂の冠者は討
死、淡路の冠者は手傷を負って自害して果てた。そしてこれらの郎等百人余りの首
を刎ね、福原へ持参し名簿を差し出した。
(4) 伊予の国(愛媛)の河野の四郎は、安芸の国(広島)の沼田の次郎と合流し沼田の城
に立て籠った(二千余騎)が、それを知った“平教経”軍三千余騎はすぐさまそれを
追い、沼田城を攻め沼田の次郎は降参し捕われ、河野の四郎は何とか逃げ延び
て四国へと渡ったのであった。
(5) 又、淡路の阿万六郎忠景も源氏に心を寄せていたが、大船二艘で都へ上るが、
“平教経”軍は小船二十余艘を率いてこれを攻撃し、阿万の忠景は敗れて和泉国
吹飯浦(大阪)に逃げた。
(6) 紀伊の国(和歌山)の園部兵衛忠泰は、和泉の吹飯浦に逃れた阿万六郎と合流し
たが、これも“平教経”軍に攻められ、阿万六郎と園部忠泰は、家来に“防ぎ矢”さ
せて都へ向かって逃げ、そして郎等たち五十余人は平家に首を取られ、“教経”は
福原へ帰還したと云う。
(7) 豊後(大分)の臼杵維高と緒方維義、伊予(愛媛)の河野通信の三人は合流し、三千
余騎で備前(岡山)の今来の城まで攻め上った・・・・、これを知った“教経”は、一万
余騎でこれを攻めた為、合流した三人は敗れて、それぞれの国へ逃げ帰ったと伝
えられている。
平宗盛ら平家一門の人々は、“教経”の度重なる合戦での功名を
賞めそやしたと云う。