* 平家物語(百二十句本) の世界 *

千人を超える登場人物の殆どが実在の人とされ、歴史上”武士”が初めて表舞台に登場する
平安末期の一大叙事詩です。

第八十一句「宇治川」

2010-07-23 09:17:34 | 日本の歴史

  左上に、先陣の名乗りを挙げる“佐々木高綱”。
              中央下の川岸に辿り着く“畠山重忠

<本文の一部>
 寿永三年正月一日、院の御所は大膳大夫業忠が宿所、六条西洞院な
りければ、御所の体しかるべからざる所にて、礼儀おこなふべきにて
あらねば、拝礼なかりければ、殿下の拝礼もおこなはず。

 平家は讃岐の国屋島の磯に送り迎へて、年のはじめなれども、元日
、元三の儀こそよろしからね。先帝ましませば、主上と仰ぎたてまつ
れども、四方の拝もなし。小朝拝もすたれぬ。氷のためしも奉らず。

 節会もおこなはれず。鰚も奏せず。吉野の国栖も参らず。「世の乱
れたりとはいひしかども、さすが都にてはかくばかりはなかりしもの
を」と、あはれなり・・・・・・

 正月十七日、院の御所より木曽左馬頭義仲を召して、「平家追罰の
ために、西国へ発向すべき」よし、仰せ下さる。木曽かしこまって承
り、、あかりいづ。やがてその日、「西国への門出す」と聞こえしほ
どに、「東国よりすでに討手数万騎のぼる」と聞こえしかば、木曽西
国へは向かはずして、宇治、瀬田両方へ兵どもを分けてつかはす。

 木曽、はじめは五万余騎と聞こえしが、みな北国へ落ち下りて、わ
づかにのこりたる兵ども、「叔父の十郎蔵人行家が河内の国長野の城
に籠りたるを討たん」とて、樋口の次郎兼光、六百余騎にて今朝河内
へ下りぬ。

 のこる勢、今井の四郎兼平、七百余騎にて瀬田へ向かふ。仁科、高
梨、山田の次郎、五百余騎にて宇治橋へ向かふ。信太の三郎先生義教
三百余騎にて一口(いもあらひ)をぞふせぎける。

 東国より攻めのぼる大手の大将蒲の御曹司範頼、搦手の大将軍は九
郎御曹司義経、むねとの大名三十余人、「都合その勢五万余騎」とぞ
聞こえし。・・・・・・・

     (注) カッコ()内は、本文ではなく“注釈”。

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<あらすじ>

(1) 寿永三年(1184)正月は、都の後白河院の御所も近臣の平業忠の邸
  宅にあり、御所の体裁も整わず、新年の儀式も全く行えぬまゝに
  うち過ぎ、安徳帝を頂く平家も讃岐の屋島で新年を迎え、諸々の
  儀式行事も無く、都での思いにふけるばかりであった。

(2) 後白河院は、木曽義仲を召し“平家追罰”を命じるが、東国の軍
  勢数万騎が都に向かっていることを聞いた義仲は、西国の平家へ
  軍を向けず、宇治や瀬田に軍勢を回して防戦の構えをとる。

(3) 佐々木高綱と梶原景季(景時の嫡男)が、名馬の“生唼”“摺墨”
  を頼朝からそれぞれ賜り、有名な「宇治川の先陣争い」の詳細
  が語られる場面があり、高綱が先陣を果たす。
  (いけづき)(するすみ)

(4) 頼朝の軍勢の大手(大将軍:源範頼)と、搦め手(大将軍:源義経)
  のそれぞれの武者揃えで、大名、小名たちの多数の名を連ねる。

(5) 宇治川における合戦の木曽軍と、頼朝軍の戦いの様子が詳しく
  語られ、やがて木曽軍は散々に駆け散らされて、木幡山の山中
  や伏見方面に落ちて行くのであった。(木曽義仲軍の敗北)  

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