* 平家物語(百二十句本) の世界 *

千人を超える登場人物の殆どが実在の人とされ、歴史上”武士”が初めて表舞台に登場する
平安末期の一大叙事詩です。

第七十二句「宇佐詣で」

2009-10-25 09:12:49 | 日本の歴史

    宇佐八幡宮へ参詣する安徳帝の一行(第八十一代)

<本文の一部>

 むかし文徳天皇は、天安二年八月二十三日にかくれさせ
給ふ。御子の宮たちあまた位に望みをかけておはしけるが
さまざまの御祈りどもありけり。

 一の宮惟喬の親王をば「大原の王子」とも申しき。
王者の才量をも心にかけさせ給ふ・・・・。

 二の宮惟仁の親王は、そのころの執柄忠仁公(藤原良房)の御むすめ染殿の后の御腹なり。・・

 一の宮惟喬の親王の御祈りは、柿本の紀僧正真済とて
東寺一の長吏、弘法大師の御弟子なり。
 
 惟仁の親王の御祈りの師には、外祖忠仁公の御持僧、
比叡山の恵亮和尚ぞうけたまはられける。

 いずれもおとらぬ高僧たちなり。・・・・

 帝かくれさせ給ひければ、公卿僉議のありさま、「臣
等がおもんばかりをもって選んで位につけたてまつらん
こと、用捨私あるに似たり。万人唇をかへすことを知ら ず。競馬、相撲の折をおって運を知り、雌雄によって宝
祚(皇位)を授けたてまつるべし」と議定をはんぬ・・。

 平家は筑前の国三笠の郡大宰府に都をたてて、「内裏
つくらるべき」と公卿僉議ありしかども、いまだ都もさ
だまらず、主上、当時は岩戸の少卿大蔵の種直が宿所に
ぞましましける。

 人々の家々は、野の中、田の中なれば、「かの木の丸
殿もかくやありけん」と、なかなか優なるかたもありけ
り。

 まづ宇佐の宮へ行幸なる。大宮司公通が宿所、皇居に
なる。社頭は月卿雲客の居所になる。廻廊は五位、六位
の官人、庭上には四国鎮西の兵ども、甲冑を帯して雲霞
のごとく並みゐたり。・・・・・・・

     かっこ内は、本文ではなく“注釈”記入です。
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<あらすじ>

(1) 第55代・文徳天皇崩御(お亡くなりになる)のあと、第一皇
   子の親王や第二皇子の惟仁親王などの御子たちの
   皇位継承の権力闘争があり、公卿らが相談の結果、競い
   馬や相撲の優劣で決める事になった。(帝位を決めるのに、
   競いごとに賭けるなど信じられることでは無いが・・・・)
 
    それぞれの側の馬を競わせたが、優劣つき難く、再び皇
   子たち推薦の大力の者が相撲をとり、惟仁親王の側が勝
   ち位についた。
   (史実は、惟仁親王は“第四皇子”とされる。)

(2) 寿永二年(1183)九月二日、後白河法皇は第82代・後鳥羽
   
帝の即位の報せの勅使を伊勢神宮に立てる。
    (勅使は、信 西五男脩範)

     出家後の上皇が、伊勢神宮へ勅使を立てるのは初めて
    の事で、神宮は、僧尼を忌むところから、わざわざこのこと
   わり書きを添えたとされている。 

(3) 一方、平家は大宰府に都を立てるが、内裏は山の中とて、
   まるでひなびた丸木御殿の風情であったと云う。
    宇佐八幡宮へ詣で、大宮司・公通の宿所を皇居にして、
   七日の参籠ののち大宰府へ戻られた。

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