遅れた平維盛兄弟たちが、先行する平宗盛一行本体に追い付
いた場面。(左の手前、黒毛馬の宗盛。相対する維盛)
<本文の一部>
平家都を落ちゆくに、六波羅、池殿、小松殿、西八条に火をかけたれ
ば、黒煙天に満ちて、日の光も見えざりけり。
あるいは聖主臨幸の地なり、鳳闕空しくいしずゑをのこし、鑾輿ただ
あとをとどむ。あるいは后妃遊宴のみぎりなり、椒房の嵐の音かなしむ
掖庭の露の色うれふ。藻扃黼帳の基なり、弋林釣渚の館、槐棘の座、
鵷鸞のすまひ、多日の経営を辞して、片時の灰燼となれり。いはんや
郎従の蓬蓽においてをや。いはんや雑人の屋舎においておや。
余炎のおよぶところ、在々所々数十町なり。「強呉たちまちに滅びて,,
姑曽田委蘇台の露荊棘に移れり。暴秦衰へて虎狼なし、咸陽宮の煙
睥睨を隠しけんも、かくや」とおぼえてあはれなる・・・・・・・
池の大納言頼盛は、池殿に火をかけ、落ちられけるが、なにとか
思はれけん、手勢三百余騎引きあうて、赤旗みな切り捨て、鳥羽の
北の門より都へ引きぞ返されける。越中の前司盛俊これを見て、大
臣殿に申しけるは、「池殿のとどまらせ給ふに、侍どもあまたつきた
てまつってとどまり候。大納言殿まではおそれに候。侍どもに矢一つ
射かけ候はばや」と申せば、大臣殿、「そのこと、さなくともありなん。
年来の重恩を忘れて、このありさまを見果てぬ奴ばら、とこう言うに及
ばず」とぞのたまひける。
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<あらすじ>
<都落ちの、池の大納言頼盛のてんまつ>
(1) 都を落ちゆく平家は、一門の屋敷を始め町に火をかけて焼く。
(2) 池大納言・頼盛は、屋敷に火を放った後、手勢の三百余騎と共に
赤旗(平家の旗)をみな切り捨て、途中から都へ引き返してしまう。
同じく都を落ちて行く宗盛の軍勢の中の越中の次郎盛嗣が、これ
を見咎めて、宗盛に「かの侍共に矢でも射かけてやりましょうか」と
申し上げるが、宗盛は「平家の苦境を見捨てる奴、捨て置け」と留
めるのであった。
(3) 頼盛は、八条女院(鳥羽帝皇女)の常盤谷の山荘に入り、「もしもの
時はお助け願いたい」と女院にすがるのであったが、「世が世であ
れば何とでもなろうものを、今の身の上では・・・」と口ごもる。
頼朝は、常日頃から頼盛に好意を寄せていて、「ご貴殿をおろ
そかには思っていません、かつて私の命を助けてくれた貴方の
亡き母御・池の尼殿の生き写しのように思っています。
八幡大菩薩もご照覧あれ・・・・」と、度々誓書を送って申し伝え
ていたと言い、平家追討の軍勢が都に攻め上るごとに、「決して
池殿(頼盛)の侍に弓を引いてはならん」と云っていたくらいであ
ったと言う。
<維盛など、重盛の子息たちの動向>
(1) 妻子との別れに、思わ時を過ごした維盛たちは、ようやく帝を守る
宗盛の軍勢に追いつき、待ちかねた宗盛は、ほっとして合流する。
(2) 落ち行く一門の武将や僧侶たちの、名前を連ねる記述がある。
この他、検非違使、衛府、諸司など主だった者たちを含む総勢は
七千余騎とか・・・。
(3) 小松の三位・維盛を除き、他の者は妻子を伴っての都落ちであった
が、陸路を馬で行く者、海路を船で行く者、思い思いに落ちて行くの
であった。
<旧都・福原での宗盛>
(1) 宗盛は、旧都・福原に着き一夜を明かすが、主だった侍たち三百余
人を集めて、「そなた達は、先祖代々伝わってきた家来たちであり、
縁の浅い客分の者とは違う。平家の年来の恩をわきまえて、どこま
でも帝のお伴をするべきだ・・」と諭す。並み居る侍たちは「どこまで
もお伴します」と応えるのであった。
経盛:
ふるさとを 焼け野の原とかへりみて 末もけぶりの 波路をぞゆく
忠度:
はかなしや 主は雲井にわかるれば あとはけぶりと 立ちのぼるかな
経正:
行幸(みゆき)する 末も都とおもへども なほなぐさまぬ 波のうへかな
この他、平家随一の忠臣として知られる“平貞能”は、都へとって返す
が、誰一人都へ戻る武将とて無く、傷心のまま平家一門と別れて、東
国へ下る宇都宮朝綱を頼る話がある。
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