* 平家物語(百二十句本) の世界 *

千人を超える登場人物の殆どが実在の人とされ、歴史上”武士”が初めて表舞台に登場する
平安末期の一大叙事詩です。

第五十九句「城の太郎頓死」

2007-07-15 15:38:28 | 日本の歴史

             木曾義仲軍の追討のため、出立しようとする”太郎資長”、空の雲間
                から”怪しの声”が聞こえてきて、不吉の予感がする場面。

  <本文の一部>

  さるほどに、越後の国の住人、城の太郎資長、当国の守に任ずる重恩のかたじけ
 なさに、木曾(源義仲)追討のために、その勢三万余騎、(治承五年・1181)六月十五
 日門出して、あくる十六日の卯の刻(午前六時頃)にうちたたんとしける夜半ばかりに
 にはかに大風吹き、大雨降り、なるかみ(雷)おびたたしく鳴って、空はれてのち、雲
 居に大きなる声のしはがれ(神霊や妖怪の意)たるをもつて、「南閻浮提第一の金銅
 十六丈の廬遮那仏(東大寺の大仏)、焼きほろぼしたてまつる平家の方人する城の
 太郎、これにあり、召し取れや」と三声さけびてぞとほりける。

  資長をさきとして、これを聞く者みな身の毛もよだちけり。郎等ども、「これほど
 おそろしき天の告げ候ふには、ただ、ことわりをまげ、とどまらせ給へ」と申しけれど
 も、「弓矢取る者、それによるべからず」とて、あくる卯の刻に城を出でて、十余町を
 行きたりけるに、「黒雲一むら立ち来たって、資長がうへにおほふ」と見えければ、
 うち臥すこと三時(六時間ほど)ばかりして、つひに死ににけり。このよし飛脚をたて
 て都へ申しければ、平家の人々大きにさわがれけり。

  同じく七月十四日改元ありて、「養和」と号す。筑後守貞能(平家の重臣)、筑前、
 肥前両国を賜って、鎮西(九州)の謀叛たひらげんために、西国へ発向す。
  その日また非常の大赦おこなはる・・・・・・・・・・・

          (注)カッコ内は本文ではなく、注釈記入です。  
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   <あらまし>

 <城の太郎資長が急死すること

  (1) 越後の国守・城の太郎資長は、平家の恩義に報いるために、木曾義仲軍を
     追討するべく三万余騎で治承五年(1181)六月十五日、出立しようと準備。

  (2) しかし、出立の直前になって突然、強風と雷雨はげしく吹き渡ったあと、空の
     雲間から不思議な声がして「南都の大仏を焼き滅ぼした平家に味方する
     ”城の太郎”がここに居る、討ち取れ!」と、三度叫んで消えたと云う。

  (3) これを聞いた武将・軍兵たちは一様にぞっとして、太郎資長に「道理をまげて
     も、出立を思いとどまるよう」に、進言したが、資長は「武士たる者そのような
     天の声に従うわけにはいかぬ」と、早朝に進発した。

  (4)  ところが、ものの十町ほど進んだところで、急に黒雲が太郎資長の上に覆い
     かぶさり、資長は倒れて数時間後にはんでしまったのである。

 <”養和”と改元、大赦、国難の法会続く

  (1) 治承五年(1181)七月十四日、改元し”養和”と号す。
     この日、筑後守・平貞能は、九州の反乱を鎮圧するため進発する。

  (2) 同じ日に、”大赦”が行われ、去る治承三年(1179)に流された前関白・基房
     や前太政大臣・師長などが配流先の鎮西や尾張から都へ戻り、相次いで
     それぞれ法住寺御所に参上した。  (第三十句「関白流罪」を参照)

  (3) 八月から九月にかけて各所で法会が行われる。太政官においては国難のあ
     るときに修める法会を行い、また勅使は伊勢参宮の途中で発病して没し
     謀叛の調伏の法会を比叡山で行うも、修法の主僧・覚算法印は、彼岸所で
     眠ったまま息絶えてしまった。

  (4) 更に、大元帥の修法を承った実厳阿闍梨は、修法結願の目録に平家調伏
     を記した。本来ならば死罪か流罪になるべきものを、あわただしさに紛れて
     何の処置も無かった。
     (源氏の世になって頼朝に賞されて、実厳は、”大僧正”に昇ったという。)

 <中宮・平徳子は、院号を受ける

  (1) 十二月二十四日、中宮(平徳子)は”建礼門院”の院号をお受けになった。
     天皇が幼少で、母后の院号はこれが初めてのことという。

 <平家追討の噂に騒然となる

  (1) 養和二年(1182)四月十四日、日吉での法華経転読に、結縁(仏道に縁
     を結ぶこと)のために後白河院も御幸なる。

  (2) 誰が言いだしたのか、「法皇が比叡山の大衆に仰せて、平家追討なさるだ
     ろう・・・」と噂が立ち、このため、平家一門はみな六波羅へ集結し、平重衡
     三千余騎で日吉から法皇を迎え取り、都へお帰えししたのであった。

       平家追討の噂は、誰が流したのか、騒然とした世のさまを
       物語っているようである。

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   7月15日午前、大きな地震が起きました!「新潟中越沖地震」です。

 ”震度6強”という大きな揺れに、柏崎を中心にたくさんの家屋が全壊した
 ようです。
 
 これから、多数の方々が避難生活を余儀なくされ、辛い日々を送らなけれ
 ばならず、その心労をお察しすると心が痛みます。

  この伊豆半島でも、1978年(昭和53年)1月14日の昼時、稲取を中心とす
 る直下型地震が起きて、たくさんの方が亡くなる惨事となり、当時その”現場”
 を見て呆然とした記憶が鮮明によみがえります。
  この時も”震度6強”でした。(伊豆大島近海地震)

  地震発生のその時、地面は波打ち、地表?は埃っぽく白く濁り、温泉など
 の井戸は途中で切れてずれ、地下に埋設の水道管や温泉パイプなどはあ
 ちこちで破断し、手のつけようも無いありさまでした。

  この後も、何度か大きな”群発地震”があり、1989年(平成元年)7月13日に
 は、伊東市沖わずか3キロという目と鼻の先で”海底噴火”がありました。
  このときは、まさに”百雷の落ちる”という表現がぴったりの、生まれて初め
 ての恐ろしい音を耳にしました。音は天上と地下から同時に聞こえたのです。

  災害は忘れた頃にやってくる・・・といいます。理屈では判るのですが、現
 実の心構えや備えは何とも心細いありさまで、反省だけはしています。

                             2007年(平成19年)7月