木曾義仲軍の追討のため、出立しようとする”城の太郎資長”、空の雲間
から”怪しの声”が聞こえてきて、不吉の予感がする場面。
<本文の一部>
さるほどに、越後の国の住人、城の太郎資長、当国の守に任ずる重恩のかたじけ
なさに、木曾(源義仲)追討のために、その勢三万余騎、(治承五年・1181)六月十五
日門出して、あくる十六日の卯の刻(午前六時頃)にうちたたんとしける夜半ばかりに
にはかに大風吹き、大雨降り、なるかみ(雷)おびたたしく鳴って、空はれてのち、雲
居に大きなる声のしはがれ(神霊や妖怪の意)たるをもつて、「南閻浮提第一の金銅
十六丈の廬遮那仏(東大寺の大仏)、焼きほろぼしたてまつる平家の方人する城の
太郎、これにあり、召し取れや」と三声さけびてぞとほりける。
資長をさきとして、これを聞く者みな身の毛もよだちけり。郎等ども、「これほど
おそろしき天の告げ候ふには、ただ、ことわりをまげ、とどまらせ給へ」と申しけれど
も、「弓矢取る者、それによるべからず」とて、あくる卯の刻に城を出でて、十余町を
行きたりけるに、「黒雲一むら立ち来たって、資長がうへにおほふ」と見えければ、
うち臥すこと三時(六時間ほど)ばかりして、つひに死ににけり。このよし飛脚をたて
て都へ申しければ、平家の人々大きにさわがれけり。
同じく七月十四日改元ありて、「養和」と号す。筑後守貞能(平家の重臣)、筑前、
肥前両国を賜って、鎮西(九州)の謀叛たひらげんために、西国へ発向す。
その日また非常の大赦おこなはる・・・・・・・・・・・
(注)カッコ内は本文ではなく、注釈記入です。
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<あらまし>
<城の太郎資長が急死すること>
(1) 越後の国守・城の太郎資長は、平家の恩義に報いるために、木曾義仲軍を
追討するべく三万余騎で治承五年(1181)六月十五日、出立しようと準備。
(2) しかし、出立の直前になって突然、強風と雷雨はげしく吹き渡ったあと、空の
雲間から不思議な声がして「南都の大仏を焼き滅ぼした平家に味方する
”城の太郎”がここに居る、討ち取れ!」と、三度叫んで消えたと云う。
(3) これを聞いた武将・軍兵たちは一様にぞっとして、太郎資長に「道理をまげて
も、出立を思いとどまるよう」に、進言したが、資長は「武士たる者、そのような
天の声に従うわけにはいかぬ」と、早朝に進発した。
(4) ところが、ものの十町ほど進んだところで、急に黒雲が太郎資長の上に覆い
かぶさり、資長は倒れて数時間後には死んでしまったのである。
<”養和”と改元、大赦、国難の法会続く>
(1) 治承五年(1181)七月十四日、改元し”養和”と号す。
この日、筑後守・平貞能は、九州の反乱を鎮圧するため進発する。
(2) 同じ日に、”大赦”が行われ、去る治承三年(1179)に流された前関白・基房
や前太政大臣・師長などが配流先の鎮西や尾張から都へ戻り、相次いで
それぞれ法住寺御所に参上した。 (第三十句「関白流罪」を参照)
(3) 八月から九月にかけて各所で法会が行われる。太政官においては国難のあ
るときに修める法会を行い、また勅使は伊勢参宮の途中で発病して没し。
謀叛の調伏の法会を比叡山で行うも、修法の主僧・覚算法印は、彼岸所で
眠ったまま息絶えてしまった。
(4) 更に、大元帥の修法を承った実厳阿闍梨は、修法結願の目録に平家調伏
を記した。本来ならば死罪か流罪になるべきものを、あわただしさに紛れて
何の処置も無かった。
(源氏の世になって頼朝に賞されて、実厳は、”大僧正”に昇ったという。)
<中宮・平徳子は、院号を受ける>
(1) 十二月二十四日、中宮(平徳子)は”建礼門院”の院号をお受けになった。
天皇が幼少で、母后の院号はこれが初めてのことという。
<平家追討の噂に騒然となる>
(1) 養和二年(1182)四月十四日、日吉の社での法華経転読に、結縁(仏道に縁
を結ぶこと)のために後白河院も御幸なる。
(2) 誰が言いだしたのか、「法皇が比叡山の大衆に仰せて、平家を追討なさるだ
ろう・・・」と噂が立ち、このため、平家一門はみな六波羅へ集結し、平重衡は
三千余騎で日吉の社から法皇を迎え取り、都へお帰えししたのであった。
平家追討の噂は、誰が流したのか、騒然とした世のさまを
物語っているようである。
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7月15日午前、大きな地震が起きました!「新潟中越沖地震」です。
”震度6強”という大きな揺れに、柏崎を中心にたくさんの家屋が全壊した
ようです。
これから、多数の方々が避難生活を余儀なくされ、辛い日々を送らなけれ
ばならず、その心労をお察しすると心が痛みます。
この伊豆半島でも、1978年(昭和53年)1月14日の昼時、稲取を中心とす
る直下型地震が起きて、たくさんの方が亡くなる惨事となり、当時その”現場”
を見て呆然とした記憶が鮮明によみがえります。
この時も”震度6強”でした。(伊豆大島近海地震)
地震発生のその時、地面は波打ち、地表?は埃っぽく白く濁り、温泉など
の井戸は途中で切れてずれ、地下に埋設の水道管や温泉パイプなどはあ
ちこちで破断し、手のつけようも無いありさまでした。
この後も、何度か大きな”群発地震”があり、1989年(平成元年)7月13日に
は、伊東市沖わずか3キロという目と鼻の先で”海底噴火”がありました。
このときは、まさに”百雷の落ちる”という表現がぴったりの、生まれて初め
ての恐ろしい音を耳にしました。音は天上と地下から同時に聞こえたのです。
災害は忘れた頃にやってくる・・・といいます。理屈では判るのですが、現
実の心構えや備えは何とも心細いありさまで、反省だけはしています。
2007年(平成19年)7月