* 平家物語(百二十句本) の世界 *

千人を超える登場人物の殆どが実在の人とされ、歴史上”武士”が初めて表舞台に登場する
平安末期の一大叙事詩です。

第九十五句 『 横 笛 』

2011-11-22 15:49:42 | 日本の歴史

                  嵯峨の“往生院”(現在の滝口寺)

<本文の一部>

 さるほどに、小松の三位の中将維盛は、わが身は屋島にありながら、心は都へかよは
れけり。故郷にのこしおき給ふ北の方、幼き人々ことを、明けても、暮れても、思はれけ
れば、「あるにかひなきわが身かな」と、いとどもの憂くおぼえて、寿永三年三月十五日
のあかつき、しのびつつ屋島の舘をまぎれ出で給ふ。

 乳人(めのと)の与三兵衛重景、石童丸といふ童、下郎には「舟もよく心得たる者なれ
ばとて、竹里といふ舎人(とねり)、これら三人ばかり召し具して、阿波の国、由紀の浦
より海士(あま)小舟に乗り給ひ、鳴戸の沖を漕ぎ渡り、「ここは越前の三位の北の方、
絶えざる思ひに身を投げし所なり」と思ひければ、念仏百返ばかり申しつつ、紀伊の路
へおもむき給ひけり。

 和歌、吹上の浜、衣通姫(そとほりひめ)の神とあらわれおはします玉津島の明神、
日前権現の御前の沖を過ぎ、紀伊の国黒井の湊にこそ着き給へ。

 「これより浦づたひ、山づたひに都に行きて、恋しき者どもをいま一度見もし、身えば
や」と思はれけれども、本三位の中将重衡の、生捕にせられて、京、鎌倉ひきしろはれ
て、恥をさらし給ふだにも心憂きに、この身さへ捕はれて、憂き名をながし、父のかばね
に血をあやさんもさすがにて、千たび心はすすめども、心に心をからかひて、ひきかへ
高野の御山へのぼり給ひけり。

            (注) (  )内は本文では無く、注釈記入です。

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<あらすじ>

維盛、屋島を脱出し高野山を目指す

   四国の屋島にあった維盛は、都に残してきた“北の方”や幼き者たちにひと目逢い
   と願い、三人の伴の者だけを連れて密かに(平家の)屋島の館を抜け出る。
    紀州の黒井の湊(現在の和歌山市内)に着き、浦伝い山伝いに都へ向かいたいと
   思ったものの、平重衡のように生け捕りにされ都や鎌倉に引き回されて恥をさらす
   恐れも考えられて、悩んだ挙句に“高野山”を目指すのであった。

斉藤時頼の“悲恋”物語> 

   高野山には以前から見知った僧が居て、平家物語ではこゝでこの僧の出家以前
   の“悲恋”の物語を描く。
    “斉藤滝口時頼”(さいとうたきぐちときより)は、父子として重盛・維盛の乳人子
  (ものとご)として仕えたが、十三歳にして“滝口”に任ぜられ、十五歳の頃より建礼
  門院の雑仕(下級女官)である“横笛”に深く想いを寄せる。
  (滝口:宮中の最も奥を警固する武士で、特に武勇の者で美男子が選ばれた。)
  

   しかし、父・茂頼(もちより)から“横笛”との交際を禁じられてしまうのであった。

   時頼は、「人の命はせいぜい七~八十年、盛りはわずかに二十年位、短い命の
   中で気の染まぬ者を妻として何になろう!。しかし恋しい者を妻とすれば父の意
   に背く」と、煩悶し悩みぬいた末に遂に仏の道に入るしか無いと、十九歳で出家
   してしまった。(嵯峨の往生院)

    このことを伝え聞いた“横笛”は、ある日のこと内裏を出て、嵯峨の奥へ“時頼
   を探しに当ても無くさまよい歩いた。すると住み荒れた庵室の中から時頼らしき
   経文を唱える声を聞き、案内を乞うが時頼は“逢いたい”が、それでは仏道修行
   が覚束ない・・・と、人を出して「時頼という人はここには居ない、家を間違えたの
   でしょう・・・」と、遂に逢わずに“横笛”を返してしまうのであった。

    そして滝口入道(時頼)は、“横笛”が又探しに来るかも知れないと、嵯峨を出
   て高野山に上り“清浄心院”に入り、修行に専念する。

    その後、“横笛”が出家したとの噂を聞いた時頼は、高野から一首の歌を贈る。

     剃るまでは  うらみしかども あずさ弓  まことの道に 入るぞうれしき  (時頼)
   
     (髪を剃り出家するまでは憂き世を恨んでいた私だが、あなたも尼となって
               真実を求める仏道に入ったと聞き、うれしく思っている・・・)

    “横笛”からの返歌

     剃るとても なにかうらみん あずさ弓 ひきとむべき 心ならねば  (横笛)

     (髪を剃ってあなたが出家しても、どうしてお恨みしましょうか、とても引き止め
               られる、あなたのお気持ちではないのですから・・・

    奈良の法華寺にあった横笛は、間もなく亡くなったと伝える。滝口入道(時頼)
    はこのことを伝え聞き、いよいよ修行に打ち込んでいたが、やがて父の勘当
    
も許されたと云う。

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第九十四句『重衡東下り』

2011-10-10 10:13:21 | 日本の歴史

            鎌倉に護送される“重衡”(逢坂の辺か・・)  囚人として“板輿”に乗せられ・・・・

<本文の一部>

  鎌倉の前(さき)の右兵衛佐(うひょうえのすけ)頼朝、しきりに申されければ、
三位(さんみ)の中将重衡(しげひら)をば、同じき三月十三日、関東へこそ下さ
れけれ。梶原平三景時(かじわらへいぞうかげとき)、土肥(とい)の次郎が手よ
り受けとって、具したてまつりてぞ下りける。

 西国より生捕(いけど)られて、故郷へ帰るだにかなしきに、いつのまにかまた
東路(あづまぢ)はるかにおもむき給ひけん。心のうちこそあはれなれ。

 粟田口(あわたぐち)をうち過ぎて、四の宮河原(しのみやがわら)にもなりけれ
ば、むかし延喜(えんぎ)の第四(だいし)の王子蝉丸(せみまる)の、関の嵐に心
をすまし、琵琶(びわ)を弾(だん)じ給ひしに、、博雅(はくが)の三位(さんみ)、
夜もすがら、雨の降る夜も、降らぬ夜も、三年(みとせ)があひだ、琵琶の秘曲を
伝えけん、藁屋(わらや)の床(とこ)の旧跡(きゅうせき)も、思ひやられてあはれ
なり。

 逢坂山(おうさかやま)をうち超えて、瀬田の長橋駒もとどろと踏みならし、雲雀
(ひばり)のぼれる野路の里、志賀の浦波春かけて、霞(かすみ)にくもる鏡山(か
がみやま)、比良の高根を北にして、伊吹が岳も近づきぬ・・・・・・・・・・・

       (注) ( )内は、本文ではなく“注釈記入”です。

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<あらすじ>

(1) 都の後白河院に、頼朝は再三“重衡の引き渡し”を要求し、遂に梶原景時
   
が警固して都から鎌倉へ下る重衡の一行。

     道中の池田の宿(現静岡県磐田市)で遊女・熊野(ゆや)との歌のやり
   とりがある。(かつて宗盛の寵愛を受けた歌の名手である。)

   そして、小夜の中山清見が関足柄山を越えてやがて鎌倉に入る。

(2) 重衡に対面した頼朝は、「南都炎上については故入道殿(平清盛)の
   命令か、それともそなたの一存か?」と尋ねる。

    重衡は、「清盛の考えでも、重衡の意図するところでも無く、軍勢での不慮
   のできごとで止むを得なかったこと。源平は互いに朝廷を守護した昔から、
   平家の栄えたこと。今は平家の運が傾き囚(とら)われの身になった、この上
   は早々に首を刎ねて欲しい・・・」と述べて、あとは黙して一言も語らなかった
   と言う。

(3) 狩野介(かののすけ)宗茂(むねもち)に預けられた重衡宗茂は湯殿を
   作り、頼朝の差し向けた女房が世話をして入浴し身を浄めるのであった。

    重衡の“出家”の願いを、女房から聞いた頼朝は、朝敵となった身で出家
   はまかりならぬ!と許さなかった。

(4) 世話をした女房が“可憐”であると・・・重衡が言ったと聞いた頼朝は、かの
   女房を着飾らせて重衡のもとへ遣わし、音曲を用意して宗茂(むねもち)も
   酒肴を勧めしきりにもてなすのであった。
   
     あまり興味のなさそうな重衡の様子に、女房は今様(はやりうた)を吟詠
   し、見事に歌い終えるのを聞いた重衡は初めて盃を傾け、そして自ら琵琶を
   弾きはじめるのであった。

(5) 実はこの時、頼朝重衡琵琶の撥音、今様等の口ずさみの見事さを
   何と夜を徹して隣で立ち聞きをしていたのであった。
 そしてその優美で優れ
   たる人となりに感嘆したと、後に人に語ったと言うことである。

(6) そして、後に重衡が南都の僧たちに引き渡されて、“斬首”されたことを聞い
   た千手の前は、ただちに尼となり重衡の菩提を弔ったと伝えられる。

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         源義朝(1123~1160)   平宗盛(1147~1185)    平重衡(1157~1185)

   池田の宿の長“藤原重徳”が、紀州の熊野権現に詣でて授かった子ゆえ
   “熊野(ゆや)”と名付けたと・・・・・伝えられる。

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第九十三句「重衡受戒」

2011-09-14 13:46:18 | 日本の歴史

      (画面・霞の下部分)  重衡女房宛ての手紙の文面を改める警護の武士たち。
      (画面・霞の上部分)  重衡からの手紙を読んで、泣き伏す内裏女房

<本文の一部>

 三位の中将(重衡)、土肥の次郎を召して、「出家の心ざしあるをば、いかがすべ
き」とのたまへば、土肥の次郎この様を御曹司(源義経)に申す。御曹司、院へ奏
聞せられけり。

 「あるべうもなし。頼朝に見せてのちこそ法師にもなさめ」とて、ゆるされもなかり
ければ、力および給はず。「わが在世のとき見参したる聖に、後生のことを申し合
はせんと思ふはいかに」とのたまへば、土肥の次郎、「御聖はたれにて候ふやら
ん」。「黒谷の法然房」とぞのたまひける。「さらば」とて、法然上人を請じたてまつ
る。

 三位の中将出で向かひたてまつり、申されけるは、「さても、南都を滅ぼし候こ
と、世にはみな『重衡一人が所業』と申し候ふなれば、上人もさこそおぼしめされ
候ふらん。まったく重衡下知たることなし。

 悪党おほく籠り候ひしかば、いかなる者のしわざにてか候ひけん。放火の時節、
風はげしく吹いて、おほくの伽藍を滅ぼしたてまつる。『すゑの露、もとの雫とな
ることにて候ふなれば、重衡一人が罪にて、無間の底にしずみ、出離の期あら
じ』とこそ存知候ひつるに、みな人の『生身の如来』とあふぎたてまつる上人に、
ふたたび見参に入り候へば、『今は無始の罪障も、ことごとく消滅し候ひぬ』と
こそ存じ候へ。・・・・・・・・・・・・・・・・

    (注) ( )内は注釈記入のものです。
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<あらすじ>

(1)   平家の三位の中将・重衡は、警護の源氏の土肥の次郎・実平から源義経
  
を介して“出家”の望みを申し出でたが、後白河院はこれを許さなかった。
        
  ならばと、法然上人に相談したい旨を申し出でて、土肥の次郎はすぐさまに
  法然上人を招くのであった。

(2)  重衡は、南都焼失のことの次第を詳しく話し、“”を乞うたところ法然上人
  は、髪の少しを剃った上で“”を授けたのであった。
  その夜の一夜は、互いに語り明かし、重衡は父(清盛)の秘蔵の宋の名硯を差
  しだし、これを「重衡」と思い冥福を祈って欲しいと奉る。

(3)  八条の女院(鳥羽院皇女・瞕子)に仕える木工右馬允・政時が、重衡に逢い
  たいと申し出でて、土肥次郎はこれを許す。(政時は、重衡にも仕えていた)

  やがて重衡政時は一夜を語り明かし、重衡は当時交情を続けていた女房
  に、いま一度逢いたいと“手紙”を書いて政時に託し、政時はこの手紙を内裏
  の女房に届ける。

   なみだ川  憂き名をながす身なれども  いま一たびの逢ふ瀬ともがな(重衡)

        女房は返事をしたため、政時が預かり重衡に届ける。

   君ゆえに われも憂き名をながすとも そこの水屑とともになりなん (女房)

  重衡は、返事の文を見て思いが募り、土肥の次郎にこの旨を伝えると、情け
  ある実平はこれを許したのであった。

   早速使いをたて、女房はとるものも取りあえず使いの車に乗り重衡の許へ
  かけつけるのであった。

   重衡は、「警護の武士が見ているので車から降りてはなりません」と言い、
  自らは車の“すだれ”を頭にか被り車の中へは入らないという配慮を見せる。

   そして、手に手を取り袖を顔に押し当てて語るうちに夜も更けて、警護の
  武士に促され、やがて女房は内裏へと帰って行ったという。

   この後は、逢うことは許されず“”のやりとりを続けたと伝えられる。

  女房は後日、重衡が斬られたことを聞くと、すぐに出家しその後世安楽
  祈ったという、まことに哀れ深い
話である。 

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第九十二句「屋島院宣」

2011-08-15 14:44:09 | 日本の歴史

         

         わが子“重衡”の助命を願い、“宗盛”に泣きくどく“二位の尼(平時子)”

<本文の一部>

 同じく十四日、本三位の中将重衡、六条を東へわたされ給ふ。「入道にも、二位殿
にも、おぼえの子にておはしければ、一門の人々にも、もてなされ、院、内へ参り給
へば、当家も他家も、所をおきてうやまひぞかし。これは、ただ奈良を滅ぼし給へる
伽藍の罰にてこそ
」とぞ人申しける。

 六条を東の河原までわたされてのち、故中の御門中納言家成の卿の造られたる
堀川の御堂へ入れたてまつる。

 土肥の次郎実平は、木蘭地の直垂に、緋縅の鎧着て、三位の中将同車したてま
つる。兵ども六十余人具して守護しけり。

 院より御使あり。蔵人の右衛門権佐定長、赤衣に剣、笏を帯して向かふ。三位中
将は紺村濃の直垂に、折烏帽子ひきたてられたり。昔は何とも思はざりし定長を、
今は冥土にて冥官に向かへる心にて、おそろしげにぞ思はれける。

 定長申しける、「勅諚には、所詮、『三種の神器をだにも都へ入れたてまつらせ給は
ば、西国へつかはさるべき』と候。このおもむき申させ給へ」と申しければ、三位の中将
「今は、かかる身となりて候へば、一門面を合はすべしともおぼえず候。女性にて候へ
ば、二位の尼なんどや、『いま一度見ん』とも思はんずらん。そのほかあはれをかくべき
者、あるべしともおぼえず候。さはありながら、院宣だに下されば、申してこそ見候はめ」
とのたまへば、定長この様を奏聞す。法皇、やがて院宣をぞ下されける。・・・・・・・

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<あらすじ>

(1) 寿永三年(1184)二月十四日、捕らわれの身の“平重衡”は、堀川の御堂に入り、
   土肥実平とその兵が屋敷の周りを固める。

    後白河院からのお使いがあり、「平家の手に在る“三種の神器”を無事に都へ
   返せば、“重衡”の身柄を平家に戻そう」との申し出でがある。

    “重衡”は、「難しいお話ではあるが、院宣があれば平家一門に伝えて見ましょ
   う」と返事をする。

(2) かくして後白河院の院宣が発せられて、平家の側では二位の尼(清盛)が、
   平家にある「神器」をお返しして、是非とも重衡を取り戻して欲しい・・・・と、宗盛
   に泣きくどくものゝ、一門に人々の反対が多く、宗盛は、「一門の総帥として、その
   願いを叶えるわけには参りませぬ」と、拒み、そして後白河院勅諚を拒否したの
   であった。

(3) 三位の中将(重衡)は、これを聞き、「そうであろう・・・・・」と、今更ながら無念の思い
   にしずむ心持であった。





 

 


第九十一句『平家一門首渡さるる事』

2011-07-17 09:49:26 | 日本の歴史

  熊手に引っ掛けられて浜に引き上げられる“平師盛”、この後浜で首を刎ねられ最期を遂げる。
                       (師盛は、維盛の弟で生年は十七歳とされる。)

<本文の一部>

 寿永三年二月十二日、去んぬる七日、一の谷にて討たれたる平家の首ども、京
へ入る。平家に縁をむすぼふれたる人々、「わが方さまに何事をか聞かんずらん。
いかなる目をか見んずらん」とて、嘆く人おほかりけり。

 その中に大覚寺に隠れゐ給へる小松の三位の中将の北の方は、「西国へ討手
の向かふ」と聞くたびに、「今度のいくさに中将のいかなる目にかあひ給はんずら
ん」としず心なく思はれけるところに、「平家は、一の谷にて残りずくなく滅び、三位
の中将といふ公卿一人生捕られて、のぼり給へる」と聞きしかば、北の方、「この人
に離れじものを」とぞ嘆かれける。

 ある女房の来って申しけるは、「三位の中将と申すは、本三位の中将の御ことに
てわたらせ給ふ」と申しければ、「さては首どもの中にぞあるらん」とて、なほ心やす
くも思ひ給はず。・・・・・・・・・・・・・・・

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
<あらすじ>
(1) 「一の谷」の合戦で討たれた平家の主だった人々のが、寿永三年(1184)
   二月十二日都に運ばれてくる。朝廷では公卿たちを集めて協議の結果、一
   旦は" 都大路を引き回さない" と決まった。しかし、義経がこれに強硬に抗議
   して、この決定は覆り、結局は「引き回しの上“獄門”にかける」ことになり、多く
   の都人が群がったと云う。

(2) 大覚寺に隠れていた維盛北の方や若君(六代)、姫君たちは、維盛の首
   が“獄門”にかけられたものゝ中に“有る”のではないかと、気もそぞろであっ
   たが、合戦には“病い”の為に加わっていないことが判り、ひとまず安心した
   ような、又、“病気”のことが気がかりにもなる。

(3) 屋島に在る維盛は、都にいる北の方に手紙を届けさせる。一日も早く自分
   の所に迎えて共に死にたいと思うが、貴女には気の毒なのでそうもなりませ
   ん。この手紙を私の形見だと思って欲しいと、歌一首を添えた。

    いずくとも しらぬあふせのもしほ草 かきおくあとを 形見とも見よ

   北の方は悲しみにくれるが、急ぎ文を書き(若君姫君の手紙も添えて)
   屋島の維盛に届けさせるのであった。

       維盛は、北の方からの返事を読み、益々妻子への恋慕の情
      が強まり、とにかく先ずは都へ上って ひと目妻子に逢ってから
      自害しようと心に決めるのであった。

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<別件ひとりごと>
  先月(7月)3日、ちょっと変わった名前の「君が代起立条例」と云う
 珍しい条例が大阪府議会で成立しました。
 入学式や卒業式というフォーマルな場で国旗が掲げられ「君が代」が歌
 われ全員が起立している中で、一部の先生方だけが起立しないという、
 異様な風景が度々あり、自治体では初めてのルールを作ったそうです。

  そもそも、法律で決めることが良いのか悪いのか判りませんが、これ
 もひと悶着あって、今から二十年ほど前に国旗は「日章旗」、国家は「君
 が代」とする“国旗・国歌法”というものができました。平成3年のこ
 とです。

  普段は自分の国の歴史なんて意識することはありませんよね。
 意識しなくても生活に困りませんし・・・、でも何とは無しに知らない
 ことの後ろめたさみたいなものを感じることって有るんじゃないでしょ
 うか?

  昔、私の小学校の頃、紀元節天長節にはお祝いの式典が講堂であり
 難しいお話は頭の上をパスして、式が終わると箱入りの甘~い「お菓子」
 が全員に配られるのをひたすら待ちました。(~_~;)
 その頃は当然ながら「甘いもの」は手に入らないので、それが楽しみで列
 に並んだものでした。

  ところで「紀元節」って、明治の初めころに作られたたそうで、初代天
 皇の「神武天皇」の即位式の日だそうですが、これは有り得ません。
 第二次世界大戦の敗戦後すぐに廃止されましたが・・・・。

  日本の天皇家の“万世一系”というお話、これも戦後すぐに何人かの
 学者が「三王朝交替説」等などが発表された位、いろいろな説があります

  又、初代とされる「神武天皇」から今の天皇さんまで百二十五代。
 その中で、初代の「神武」、第十代の「崇神」、第十五代の「応神」の三人の
 方だけが、その謚号に「」という字が使われています。これがどのよう
 な意味を持つのか、いろいろな論議はありますが、お話していると長く
 なりますのでパスします。

  日本と云う国の名前“国号”のいわれが、日本の国史のどこにも
 記されていません。国の公式な記録の国史にです。

  ところが、よその国、古代朝鮮にあった三つの国のうちの一つ新羅
 云う国の国史“新羅本紀”にはちゃんと書かれているのです。西暦の
 六百七十年に当たる条項にこう書かれています。

  『倭国更めて日本と号す、日出ずるところに近し、以て名を為す

 とあります。変だと思うでしょう?何故でしょう・・・六百七十年は、
 第38代天智天皇の亡くなられた前の年で、更に六百七十二年には古代の
 畿内最大の戦闘と言われた「壬申の乱」が起きています。

  これらの事に限りませんが、この不思議なことを誰も何も言わない
 のが日本の歴史なのです。宮内庁は勿論、偉~い先生方もです。

  初めにお話しした、「君が代起立条例」成立のひと騒ぎも含めて、所詮
 はこの国の「国の始まり」の本当のところを教えなかった「咎め」の一つだ
 ろうと私は思います。皆さんはどうお感じになりますか。

  「戦前、戦中、戦後」を生きてきた一人としては、自分の生まれ育っ
 た国の「生い立ち」を、若い社会人の人たちや子どもたちに是非知って欲
 しいと願っています。

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第九十句「小宰相身投ぐる事」(こざいしょうみなぐること)

2011-05-16 09:11:21 | 日本の歴史

   海へ身を投げた“小宰相”を引き上げ、嘆き悲しむ平家の人々

<本文の一部>

 平家はいくさ敗れければ、先帝をはじめたてまつり、人々船にと
り乗って、海にぞ浮かび給ひける。あるいは芦屋の沖に漕ぎ出で
て波にただよふ船もあり、あるいは淡路の瀬戸を押し渡り、島がく
れゆく船もあり。いまだ一の谷の沖にただよふ船もあり。

 浦々、島々おほければ、たがひに生き死にを知りがたし。平家、
国をなびかすことも十四か国、勢のしたがふことも十万余騎、都へ
近づくことも、思へばわずかに一日の道なり。

 今度「さりとも」と思はれつる一の谷をも落されて、心細うぞなり給ふ。
海に沈み死するは知らず、陸にかかりたる首の数、「二千余人」
とぞ記されたる。一の谷の小笹原、緑の色もひきかへて、薄紅にぞ
なりにける。

 このたびの合戦に討たれ給ふ人々、越前の三位通盛、但馬守
経正、薩摩守忠度、武蔵守知章、備中守師盛、淡路守清房、
若狭守経俊、尾張守清定、蔵人大夫業盛、大夫敦盛、以上十人
のしるし、都へ入る。越前の前司盛俊が首も都へ入る。

 本三位の中将重衡は、生捕にせられて、わたされ給へり。
母二位殿、これを聞き給ひて、「弓矢取りの討死することは、つね
のならひなり。重衡は、今度生捕りにせられて、いかばかりのこと
を思ふらん」とて泣き給へば、北の方大納言の典侍も、「さまを変
へん」とのたまひけるを、「内の乳母にてまします、さればとて、」
いかでか君をば捨てまゐらせ給ふべき」とて、二位殿制し給ひけれ
ば、力におよばず、明かし暮らし給ふなり。・・・・・・・・・

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

<あらすじ>

(1) 「一の谷」の合戦に敗れた平家は、安徳帝をはじめ、皆船に乗
  り移り、瀬戸内に浮かび沖に漂う有様となった。
       討たれた主な武将達は・・・・・・・・

  越前の三位通盛、但馬守経正、薩摩守忠度、武蔵守知章
  備中守師盛、淡路守清房、若狭守経俊、尾張守清定、蔵人
  大夫業盛、大夫敦盛、そして越中の前司盛俊ら・・・・・・
    これらの人々首が都に入った。

(2) 本三位の中将・平重衡は、捕えられて都大路を引き回され、
  北の方の大納言の典侍(すけ)(上級の女官)は、出家しようとす
  るが、(安徳帝)の乳母(めのと)という立場から、平時子(清盛
  夫人)に留められて泣き伏すのであった。

(3) 越前の三位通盛の配下の郡田時員(ときかず)は、通盛の最後
  の様子を北の方(藤刑部卿憲方の娘)に伝え、北の方はそれを
  聞き嘆き悲しむ。

(4) 二月十三日(寿永三(1184))の夜半のこと、乳母女房の心配を
  「いくら悲しくても、死ぬことはしません・・・」とウソを言って安心さ
  せて共に寝み、寝静まった頃を見計らって静かに起き上がり、
  絃(ふなばた)に出て天を仰ぎ、やがて手を合わせ念仏を唱え
  「亡き夫もろとも、一つの蓮の台(うてな)の上に迎え取らせ給え」
  と念じ、「南無」の声と共に“入水”を遂げたのであった。

(5) 夜半のことゝて、皆寝入っていて気付かなかったが、梶取りの
  一人が入水の様子を見つけて、大声を上げたゝめ、たくさんの
  人が水の中に潜り長い時間をかけて、ようやく引き上げたたが、
  時遅くすでに事切れていたのであった。
    今の平家は、落ち行く当てもなく止むを得ず、夫の通盛
  残した“”を絹の織物の上から着せて、再び海の中へと沈め
  たのである。

(6)  残された乳母女房は、たいそう悲しみ北の方を追って海に
  入り“殉死”しようとしたが、皆に止められて泣きながら自らの髪
  をおろし、中納言律師忠快(通盛の弟)により“戒”を授けられる
  のであった。

    句末に、上西門院(鳥羽院皇女・統子)に仕えていた小宰相
   と、通盛の“なれそめ”のエピソードが記されている。


 

 


第八十九句「一の谷」

2011-04-20 11:22:02 | 日本の歴史

   霞雲の上段:潔い最後の“平敦盛”の最後に涙する“源義経
           下段:討ち取った若武者の“敦盛”の悲運に泣く“熊谷直実

(本文の一部)

  一の谷の西の手をば、左馬頭行盛、薩摩守忠度、三万余騎にてふせがれけるが、
「山の手敗れぬ」と聞こえしかば、いとさわがで落ち給ふ。猪俣党に岡部の六野太忠澄
薩摩の前司におし並べて組んで落つ。

 天性、忠度は大力のはやわざにてましましければ、岡部の六野太を、馬の上にて二刀
落ちつくところにて一刀、三刀までこそ刺し給へ。されども鎧よければ裏かかず。上にな
り、下になり、ころび合ふところに、岡部が郎等出で来たって、薩摩守の右のかひなをう
ち落す。

 薩摩の前司「今はかう」とや思はれけん、「しばしのけ。十念となへて斬られん」とて、
左の手にて六野太を弓杖ばかりつきのけて、西に向かひ、高声に念仏となへ給ひて、
「光明遍照、十方世界、念仏衆生、摂取不捨」とのたまひも果てざるに、六野太うしろ
より首を討つ。

 六野太、首を取りたれども、誰とも知らず。「これは平家の一門にてぞおはすらん。
名のらせて打つべかりつるものを」と思ひて見けるに、高紐にひとつの文をつけられたり。
これを解いて見れば、「旅宿の花」といふ題にて、一首の歌をぞ書かれたる。

     行き暮れて  木の下かげを 宿とせば  花やこよひの  あるじならまし

と書いて、「薩摩守忠度」と書かれたるにぞ知りてんげる。そのとき、「武蔵の国の住人
岡部の六野太、薩摩守忠度をば、かうこそ討ちたてまつれ」と名のりければ、「いとほし
や。平家の一門の中には、歌道にも武芸にも達者にてましましつるものを。さては、
はや討たれ給ひけるにこそ」とて、敵も味方も涙をながし、袖をしぼらぬはなし。

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(あらすじ)

(1) 「一の谷」防戦の後、落ち行く薩摩守忠度は、源氏の猪俣党の岡部六野太忠澄
  と戦い、岡部を太刀で深手を負わせるが、駆け付けた岡部の郎等に右腕を斬り落と
  され、岡部に首を落とされ討たれてしまう。

(2)  本三位の中将・平重衡も、僅かに主従二騎となって落ち行くが、源氏の児玉党・
  庄の四郎高家の遠矢に馬を射られ、“最早これまで”と自害しようと馬を下りたところ
  を“生け捕り”にされてしまった。

(3)  平重盛の子、備前の前司・師盛は小船に乗っていたが、新中納言・平知盛の侍
  清右衛門に助けを求められ、自分の小舟に乗せようとしたが、鎧を着て大太刀かつ
  いだ大男の清右衛門が飛び乗ろうとしたため船はひっくり返り、そこを源氏の侍たち
  に皆討ち取られてしまったのである。(師盛、十七歳の最後であった。)

(4)  清盛の弟、修理大夫経盛の嫡男・但馬の前司・経正は、源氏の川越重房に討たれ
  その弟の経俊と、清盛七男の清房、清盛猶子の清定の三騎は、散々に戦い共に討
  死した。

(5)  門脇中納言・教盛の末子、蔵人大夫・業盛(十七歳)は大力であったが、土屋四郎
  五郎の兄弟に、遂に討たれてしまった。

(6)  新中納言・平知盛は、嫡男武蔵の前司・知章と侍の監物太郎頼方の三騎で落ち行
  く途中、源氏の児玉党の手勢にかかり、知章と監物太郎頼方は討ち取られ、知盛
  逃げのびる・・・・・・・・・・

(7)  熊谷次郎直実は、沖の船に向かう若武者を呼び返し、組み合い首を取るが若武者
  が大夫(平)敦盛(十七歳)と知り、自分の息子(小次郎十六歳)のことに思いが重なり、
  不憫に思い首級と衣装、武具などと(名笛・小枝も添えて)書状と共に、その父・修理大
  夫・経盛のもとへ届けさせたのであった。(第八十九句一の谷の圧巻である。)

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第八十八句「鵯越」(ひえどりごえ)

2011-02-21 09:59:21 | 日本の歴史

 逃げまどう平家軍勢!船に乗ろうと取りすがる身分の低い雑兵たちは、船端で
薙ぎ払われ斬り落とされる無残!

<本文の一部>
 源氏、大手ばかりにては勝負あるべしとも見えざりければ、七日の卯の刻に、九郎義
経、三千余騎にて一の谷のうしろ、鵯越にうちあがって、「ここを落とさん」とし給ふに、
この勢にや驚きたりけん、大鹿二つ、一の谷の城のうちへぞ落ちたりける。
   「こはいかに。里近からん鹿だにも、われらにおそれて山深くこそ入るべきに、ただ
    いま鹿の落ちようこそあやしけれ」
とて騒ぐところに、伊予の国の住人、高市の武者清教、「何にてもあれ、敵の方より出で
来んものをあますべき様なし」とて、馬にうち乗り、弓手にあひつけて、先なる大鹿のまん
中射てぞとどめける。・・・・・・

・・・・・九郎義経、鞍置馬を二匹追い落されたりければ、一匹は足うち折りてころび落つ。
一匹は相違なく平家の城のうしろへ落ちつき、越中の前司が屋形の前に、身ぶるひして
ぞ立ったりける。鞍置馬二匹まで落ちたりければ、「あはや、敵の向かふは」とて騒動す。

 ・・・・・・をりふし風はげしく吹いて、黒けぶり押しかけたり。兵ども煙にむせて、射落し
引き落さねども、うまより落ちふためき、あまりにあわてて、「まえの海へ向いてぞ馳せ
入りける。

 助け舟多かりけれども、物具したる者どもが、船一艘に、四五百人、五六百人、「われ
先に」とこみ乗らんに、なじかはよかるべき。なぎさより五六町押し出だすに、一人も助
からず。大船三艘しずみにけり。

  そののちは、「しかるべき人々をば乗すとも、雑人どもをば乗すべからず」とて、さる
べき人をば引き乗せ、雑人どもをば、太刀、長刀にて船を薙がせけり。かかることとは
知りながら、敵に合うては死なずして、「乗せじ」とする船に取りつき、つかみつき、腕う
ち切られ、あるいは肘うち落されて、なぎさに倒れ伏してをめきさけぶ声おびたたし。

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<あらすじ>
(1)源氏の九郎義経は、一の谷の後ろの“鵯越”を三千余騎で下り降りて鬨の声を
   上げるが、これが山々に“こだま”して数万の騎馬の攻め寄せるかの如くに轟
   いたのであった。

(2)信濃源氏村上三郎判官代基国が、平家の屋形に火をかけると、折からの激し
   い風に黒煙を吹き上げ、このため平家の兵たちは煙にむせびて馬から落ち、前
   の海に向かって必死に逃げ出した。

(3)武装した兵たちが、一艘に数百人も乗り込もうとしたために、大きな船まで沈んで
   しまったため、身分の高い者は乗せても、雑兵たちは乗せてはならぬ!と船に取
   りつく兵の腕や肘を薙ぎ払い、斬り落としたと云う。

(4)能登守・平教経は、一度も合戦に敗れたことは無かったが、今度ばかりは“勝てな
   ”と思い、播磨明石へ落ちて行ったのであった。

(5)教経の兄の越前の三位・通盛は、近江の佐々木源三・成綱の手勢に取り籠めら
   れて、討ち死にした。

(6)越中の前司・盛俊は、落ち行く途中で源氏猪俣近平六・則綱に襲われるが、
   逆に組み敷いて首を取ろうとするが、言葉巧みに騙されて、遂には討ち取られて
   しまった。豪勇武者盛俊の最後であった。

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第八十七句「梶原二度の駆」(かじわらにどのかけ)

2011-01-26 10:12:21 | 日本の歴史

馬を射られ、徒歩姿で兜も打ち落されて髪を振り乱し、群がる五人の敵を相手に白刃を振りかざす梶原景季

<本文の一部>

 大手生田の森には蒲の冠者範頼、その勢五万余騎。「卯の刻の矢合わせ」と定めけ
れば、いまだ寄せず。その手に、武蔵の国の住人、河原の太郎、河原の次郎とて兄弟
あり。
 河原太郎、弟の次郎を呼うで申しけるは、「いかに次郎殿。卯の刻の矢合わせと定ま
ったれども、あまりに待つが心もとなうおぼゆるぞ。敵を目の前におきながら、いつを期
すべきぞや。弓矢取る法は、かうはなきものを。高直、鎌倉殿の御前にて、『討死つかま
つらんずる』と申したることがあるぞ。
されば城のうちを見ばやと思ふなり。わ殿生きて、
証人に立て」と言へば、次郎申しけるは、「口惜しきことをのたまふものかな。ただ兄弟
あらんずるものが、『兄を討たせて証拠に立たん』と申さんずるに、・・・・・・・・・・

 ・・・・・・父の平三(景時)、兄の源太(景季)つづいて駆け入る。
新中納言(知盛)これを見給ひて、「梶原は東国に聞こえたる兵ぞ。漏らすな、討ちとれ」
とて、大勢の中におっとり籠め、ひと揉み揉んで攻め給ふ。梶原も命も惜しまず、をめき
さけんで戦いけり。

 五百余騎が五十騎ばかりに駆け散らされて、ざっと引いてぞ出でたりける。その中に
景季は見えず。梶原「景季は」と問へば、郎等ども、「源太殿は敵の中にとり籠められて
はや討たれさせ給ひて候ふにこそ。見えさせ給はず」と申す。

 梶原(景時)「世にあらんと思ふも、子どもを思ふがためなり。源太討たせて、景時世に
ありても何かせん。さらば」と言ひて、とって返す。鐙ふんばりつっ立ちあがり、大音声
をあげて、・・・・・・・・・・・

 ・・・・・・「源太いづくにあるらん」と駆けまはってたづぬれば、源太は馬を射させてかち
だちになり、兜をうち落とされ、大童になって、二丈ばかりの岸をうしろにあて、郎等二人
左右に立て、敵五人にとり籠められ、「ここを最後」と戦ひけり。「景季いまだ討たれざり
けり」と、うれしさに、急ぎ馬より飛んでおり、「景時これにあり。死ぬとも敵にうしろば見す
な」と言ひて、つと寄り五人の敵を三人討ちとり、二人に手負うせて、「弓矢取る身は、駆
くるも引くもをりによるぞ。いざうれ。源太」とて、かい具してこそ出でたりけれ。

 これを「梶原が二度の駆け」とは申すなり。

                      (注) カッコ内は本文ではなく、注釈記入です。

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<あらすじ> 

(1) 大手の軍勢(生田の森)の範頼、その勢五万余騎その中から河原太郎高直
  次郎守直兄弟は『とかく大名は自分で 手を下さずに、家来の手柄によって名誉
  を得る。我々は自分が手を下さなければ名誉を得ることができない。敵を目の前
  にして待機していたのではもどかしい』と、陣中から抜け出して、討ち死に覚悟で
  平家の城中へ潜入し、大音声で名乗りを上げた。

   城中の平家の侍たちは、『あゝ東国の武士ほど恐ろしい者は無い、この大軍勢の
  中へたった二人で駆け入ったところで、どれだけの手出しができると言うのであろう、
  しばらくは放っておけ』と、討ち取る気配も見せなかった。

(2) 駆け入った源氏の河原兄弟 、共に弓の名手で、散々に射かけるので、さすがに
  平家もあしらいきれず、『討ち取ってしまえ!』と、強弓で知られる真鍋四郎五郎
  
の兄弟が矢を放ち、河原太郎は鎧の胸板を背中まで射抜かれてどっと倒れ、走
  り寄った弟の次郎が兄をかついで逆茂木を越えようとしたところで、これも射抜かれ
  二人とも走り寄った平家の下人に首を取られてしまったのである。

   平家の大将・平知盛は、『あっぱれ剛の者!』と、その死を惜しんだと言う。

(3) 源氏の梶原平三景時はこれを聞き、『今こそ潮時!』と、五百騎ばかりで押し寄せ
  たが、景時の二男・平次景高は抜け駆けて潜入し、続いて父・景時と兄・景季も駆
  け入った。

   平家の大将・知盛は、『梶原は聞こえた武者、討ち漏らすな!』と命じる。

  景時も縦横に奮戦するが多勢に無勢、五百騎が五十騎ばかりにまで散々に打ち散
  らされ、敵陣から退いて外へ出た。

(4) 引き上げた軍勢の中に源太景季の姿が見えないことに気付いた景時は、『景季
  討たれて、自分だけ生き永らえて何になる』と、再び取って返し敵陣の中で景季の姿
  を探し求める内、馬を射られて徒歩となり、兜も打ち落されてザンバラ髪となって郎等
  二人と共に、五人の敵に囲まれて白刃をかざしているところを見つけ、景時は馬から
  飛び降りたちまち五人の敵を蹴散らし、自分の馬の背に景季を乗せて一目散に木戸
  の外に退出したのであった。

    これを“梶原の二度の駆け”と云う・・・・・・・・・・・・・・

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第八十六句「熊谷・平山一二の駆」

2010-12-15 09:35:51 | 日本の歴史

  従者の“旗差し”を射殺されて、憤然として平家陣の木戸口の中へ躍りこみ、射抜いた兵士の首を
 斬って出てくる“平山武者所季重”(白いホロの武者)

<本文の一部>

 熊谷の次郎直実は、そのときまでは搦手に侍ひけるが、その夜の夜半ばかりに、嫡子
小次郎を呼うで申しけるは、「いかに小次郎、思へばこの所は、悪所を落さんずるとき、
うちごみのいくさにて、すべて『誰さき』といふことあるまじきぞ。いざや、これより播磨路に
出でて、一の谷の先を駆けん」と言ふ。小次郎、「よく候はん。向かはせ給へ」と申す。

 「まことや、平山もうちごみのいくさを好まぬぞ。見てまゐれ」とて郎等をやりたれば、案
のごとく、平山は、はや、物具して、誰に会うて言ふともなく、「今度のいくさに、人は知ら
ず、季重においては一足も引くまじきものを」と、ひとりごとをぞ言ひける。下人が馬を飼
ふとて、「憎い馬の長食ひかな」とて打ちければ、平山、「さうなせそ。季重、明日は死な
んぞ。その馬のなごりも今夜ばかり」とぞ言ひける。郎等走りかへりて、「かうかう」とぞ言
ひける。
熊谷「さればこそ」とて、うちたちけり。

 熊谷は、褐の直垂に、黒糸縅の鎧着て、紅の母衣かけて、「権田栗毛」といふ馬に乗り、
嫡子の小次郎は沢瀉をひと摺り摺ったる直垂に、伏縄目の鎧着て、黄瓦毛なる馬に乗っ
たりける。旗差は、麴塵の直垂に、小桜を黄にかへしたる鎧着て、「西楼」といふ白月毛な
る馬に乗ったりける。主従三騎うちつれて、一の谷をば弓手に見なし、馬手へあゆませ行
くほどに、年来人もかよはぬ「田井の畑」といふ古みちをとほりて、播磨路の波うちぎはへ
ぞうち出でたる。

 土肥の次郎実平は、「卯の刻の矢合せ」と定めたりければ、いまだ寄せず。七千余騎
にて塩屋尻といふ所にひかへたり。熊谷は、土肥の次郎が大勢にうちまぎれて、そこを
づんどうち通りて一の谷へぞ寄せたりける。

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

<あらすじ>

(1) 一団となって敵陣に突っ込む戦い(“うちごみ”のたたかい)では、「先陣争い」ができな
  い・・・と、熊谷直実と嫡男・小次郎直家は、義経の陣営から抜け出て、古道を通って
  南下し海岸へ先回りをした。
    一の谷の平家陣の木戸口で、熊谷は“大音声”で名乗りを上げるが、平家側はこ
    れを無視して何の反応も示さない。  その中に後ろに続いた平山の武者所季重
    追いついてきた。

(2) 再び熊谷直実は、大音声で“名乗り”をあげ、平家側の名ある武者達に向かって
  「勝負しよう・・・!」と、けしかけた。

   平家側では、越中の次郎兵衛盛嗣上総の五郎兵衛忠光上総の悪七兵衛景清
  
を先頭に二十三騎が、門を開いて駆け出でて熊谷平山ら五騎と激しく戦うが、多勢
  の平家側が追いまくられて城内へ逃げ込み、城門の中から応戦した。

(3) やがて熊谷平山らも城内へ駆け入って、散々に暴れまわる中に、本隊の土肥の次
     郎実平ら七千余騎が押し寄せて、鬨の声を上げたのであった。

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