こんな言葉、不穏当なのはよく分かってるけど。
増える硫化水素自殺 ネット情報 若者あおる 周囲も危険/後遺症の恐れ(抜粋)
2008年3月27日
「家庭用洗剤などから硫化水素を発生させる自殺」
がまた起きた。
27日、神戸市でアルバイトの男性が図った自殺は
「家族も巻き込む惨事」
に発展。
インターネット上では
「練炭自殺に代わる新しい自殺方法」
と紹介され
昨年1年間に少なくとも6人
今年に入ってからはこれまでに
「9人」
が命を落としている。
<自殺>
①男性は浴室の扉に「開けるな」と張り紙をしており
②過去のケースを模倣した可能性が高い
(医療関係者)
「家族や消防隊員、警察官までも危険にさらす。一命を取り留めても後遺症が出る恐れがある危険な手段だ」
ネット上では
硫化水素を使った自殺の方法を紹介する内容が
複数の掲示板に書き込まれ
「目張りや注意書きも行い、遺書を残すべきだ」
と殺人事件と間違えられないためのアドバイスまで書かれている。
<自殺ケース2>
「有毒ガスが発生中。硫化水素。警察を呼べ」。
①実際にこんな注意書きを張った上での自殺が
②今年2月末、大阪市内であった
③注意書きは民家の男子大学院生(24)の部屋に張られていた
④警察や消防が出動、「半径約50メートルを交通規制」する騒ぎになった
⑤今回も「有毒ガス発生開けるな」と張り紙があったが
⑥家族を巻き込む結果になった
<過去の巻き添え事例>
●3月 岡山市:高校2年男子生徒(17)が自殺
→母親も死亡
●昨年7月 神奈川県:大学生=当時(21)=が自殺
(遺書に「家族への不満はない」と記していた)
→母親=同(49)=と兄=同(23)=が死亡、妹(18)が重体
●2月 東京都:男性(27)アパートでの自殺未遂
→近所の女性と乳児2人・駆け付けた警察官が病院搬送
<消防庁>
一昨年の硫化水素にからむ事故・自殺の認知件数は4件で
下水管内での作業中などの事故がほとんどだった。
ネット掲示板に自殺方法として書き込まれ
増えだしたのは昨年からとみられる。
<原料>
①原料とされる洗剤は届け出が必要な毒劇物ではなく
②あくまでただの日用品
③ネット上の書き込みすべてを削除するのは難しく
④抑止に向けて打つ手がないのが現状
<洗剤の製造元>
「困惑している。従来から『混ぜるな危険』と表示しているが、『これと混ぜるな』と書くと逆に自殺の手法を宣伝することになりかねない」
<大阪大学医学部法医学教室 的場梁次教授>
「濃度が高ければ1分もせずに死亡するが、それは近くにいる人も同じ。どの程度のガスが発生するか素人には予測がつかず、他人を巻き込む可能性が非常に高い」
『混ぜるな危険』は
「ガス発生事故」だけを注意してればよかったんだけどなあ。
もっとも
「安易に毒ガス」が作れちゃうのは確か。
記事には
「「目張りや注意書きも行い、遺書を残すべきだ」と殺人事件と間違えられないためのアドバイスまで書かれている」
とあるけど
殺人に使われるんじゃないか
という懸念はあった。
これも「意図的ではないが殺人事件」だ。
ところで
「一番迷惑のかかる自殺の仕方」
ってなんだろう。
いろいろな考え方があるだろうけど
その一つは
「列車飛び込み」だ。
直接は
「ダイヤの混乱」や
「後処理の大変さ」がある。
しかし
気付かれにくいところに
「費用の負担」
問題がある。
どうやら
「自殺により蒙った被害額(事故処理だけでなく、営業補償的なものまで)」
を家族に請求するらしいんだよね。
天涯孤独の身ならいいけど
そうでなければ
家族に
「非常に大きな経済的負担」
をかけることになる。
しかし
今回のようなものは
さらにひどい。
死のうとしていない人間まで
「巻き添えで殺す」んだから。
「あしたの喜多善男」
っていうドラマがありました。
いかにも善人な男だが
「不運の連続」で
恩人であり、唯一の親友でもある男性の命日
11日後に死のうとしている。
彼を取り巻く様々な人々に翻弄され
どこに行き着くのか?
そんなハナシでしたが
彼が言ったコトバ。
「僕が死ぬっていうコトは僕に最後に残された自由だ。誰に指示されることなく、自分で決めたこと。僕の最後の自由を奪わないでくれ。」
「死ぬな」
という友人に対してのコトバ。
(ほぼ、こんな感じだったと思う)
自由、言い換えれば「権利」だろう。
どんなに追い詰められた人にも最後に残る権利
それが
「死ぬこと」
だと彼は言う。
このコトバの是非は置いといて
「権利」の対義語について
考えてみよう。
それは
「ギム」
だ。
「ギムを果たして、初めて、ケンリを得る」
これが世の慣わし。
ケンリばかりを声高に叫ぶ世相だけど
自殺しようとする人が
自分のケンリばかりを主張して
ギムを果たさないのであれば
それは「身勝手な人」ということになるだろう。
そして
そういう世論の高まりは
「最後のケンリ」
も奪うことになるかもしれない。
では
「ギム」
とはなんだ。
それは
「他の人のケンリを犯さない」
ということだ。
自殺を選ぶこと自体が
ほとんどの場合
「反社会的」だ。
しかし
後先考えず、死んだ挙句に
「人を巻き添えにする」
というのは
それを超越している。
「死ぬも死なぬ」も
最後の判断は
その人の意志に任せる他はない。
しかし
その判断が
他の人間の生死にまで及んだとき
それは「傲慢」という言葉に代わる。
増える硫化水素自殺 ネット情報 若者あおる 周囲も危険/後遺症の恐れ(抜粋)
2008年3月27日
「家庭用洗剤などから硫化水素を発生させる自殺」
がまた起きた。
27日、神戸市でアルバイトの男性が図った自殺は
「家族も巻き込む惨事」
に発展。
インターネット上では
「練炭自殺に代わる新しい自殺方法」
と紹介され
昨年1年間に少なくとも6人
今年に入ってからはこれまでに
「9人」
が命を落としている。
<自殺>
①男性は浴室の扉に「開けるな」と張り紙をしており
②過去のケースを模倣した可能性が高い
(医療関係者)
「家族や消防隊員、警察官までも危険にさらす。一命を取り留めても後遺症が出る恐れがある危険な手段だ」
ネット上では
硫化水素を使った自殺の方法を紹介する内容が
複数の掲示板に書き込まれ
「目張りや注意書きも行い、遺書を残すべきだ」
と殺人事件と間違えられないためのアドバイスまで書かれている。
<自殺ケース2>
「有毒ガスが発生中。硫化水素。警察を呼べ」。
①実際にこんな注意書きを張った上での自殺が
②今年2月末、大阪市内であった
③注意書きは民家の男子大学院生(24)の部屋に張られていた
④警察や消防が出動、「半径約50メートルを交通規制」する騒ぎになった
⑤今回も「有毒ガス発生開けるな」と張り紙があったが
⑥家族を巻き込む結果になった
<過去の巻き添え事例>
●3月 岡山市:高校2年男子生徒(17)が自殺
→母親も死亡
●昨年7月 神奈川県:大学生=当時(21)=が自殺
(遺書に「家族への不満はない」と記していた)
→母親=同(49)=と兄=同(23)=が死亡、妹(18)が重体
●2月 東京都:男性(27)アパートでの自殺未遂
→近所の女性と乳児2人・駆け付けた警察官が病院搬送
<消防庁>
一昨年の硫化水素にからむ事故・自殺の認知件数は4件で
下水管内での作業中などの事故がほとんどだった。
ネット掲示板に自殺方法として書き込まれ
増えだしたのは昨年からとみられる。
<原料>
①原料とされる洗剤は届け出が必要な毒劇物ではなく
②あくまでただの日用品
③ネット上の書き込みすべてを削除するのは難しく
④抑止に向けて打つ手がないのが現状
<洗剤の製造元>
「困惑している。従来から『混ぜるな危険』と表示しているが、『これと混ぜるな』と書くと逆に自殺の手法を宣伝することになりかねない」
<大阪大学医学部法医学教室 的場梁次教授>
「濃度が高ければ1分もせずに死亡するが、それは近くにいる人も同じ。どの程度のガスが発生するか素人には予測がつかず、他人を巻き込む可能性が非常に高い」
『混ぜるな危険』は
「ガス発生事故」だけを注意してればよかったんだけどなあ。
もっとも
「安易に毒ガス」が作れちゃうのは確か。
記事には
「「目張りや注意書きも行い、遺書を残すべきだ」と殺人事件と間違えられないためのアドバイスまで書かれている」
とあるけど
殺人に使われるんじゃないか
という懸念はあった。
これも「意図的ではないが殺人事件」だ。
ところで
「一番迷惑のかかる自殺の仕方」
ってなんだろう。
いろいろな考え方があるだろうけど
その一つは
「列車飛び込み」だ。
直接は
「ダイヤの混乱」や
「後処理の大変さ」がある。
しかし
気付かれにくいところに
「費用の負担」
問題がある。
どうやら
「自殺により蒙った被害額(事故処理だけでなく、営業補償的なものまで)」
を家族に請求するらしいんだよね。
天涯孤独の身ならいいけど
そうでなければ
家族に
「非常に大きな経済的負担」
をかけることになる。
しかし
今回のようなものは
さらにひどい。
死のうとしていない人間まで
「巻き添えで殺す」んだから。
「あしたの喜多善男」
っていうドラマがありました。
いかにも善人な男だが
「不運の連続」で
恩人であり、唯一の親友でもある男性の命日
11日後に死のうとしている。
彼を取り巻く様々な人々に翻弄され
どこに行き着くのか?
そんなハナシでしたが
彼が言ったコトバ。
「僕が死ぬっていうコトは僕に最後に残された自由だ。誰に指示されることなく、自分で決めたこと。僕の最後の自由を奪わないでくれ。」
「死ぬな」
という友人に対してのコトバ。
(ほぼ、こんな感じだったと思う)
自由、言い換えれば「権利」だろう。
どんなに追い詰められた人にも最後に残る権利
それが
「死ぬこと」
だと彼は言う。
このコトバの是非は置いといて
「権利」の対義語について
考えてみよう。
それは
「ギム」
だ。
「ギムを果たして、初めて、ケンリを得る」
これが世の慣わし。
ケンリばかりを声高に叫ぶ世相だけど
自殺しようとする人が
自分のケンリばかりを主張して
ギムを果たさないのであれば
それは「身勝手な人」ということになるだろう。
そして
そういう世論の高まりは
「最後のケンリ」
も奪うことになるかもしれない。
では
「ギム」
とはなんだ。
それは
「他の人のケンリを犯さない」
ということだ。
自殺を選ぶこと自体が
ほとんどの場合
「反社会的」だ。
しかし
後先考えず、死んだ挙句に
「人を巻き添えにする」
というのは
それを超越している。
「死ぬも死なぬ」も
最後の判断は
その人の意志に任せる他はない。
しかし
その判断が
他の人間の生死にまで及んだとき
それは「傲慢」という言葉に代わる。