ふと、宮沢賢治の『ほんたうのさいはひ』という言葉が頭に浮かんだ。
唐突なのですが、会社の同僚の子供のクラスでいじめがあったという話を聞いたのだけど、その話に違和感を感じるからなのです。
体育中に服を盗まれ、他にも机の中にぬれぞうきんが入っていたり、その子の掲示物だけはがされていたり。
典型的ないじめに思えるのですが、最初、盗難事件として扱い、服が見つからなかった為、警察に盗難届を出すという話になって・・・
実際に警察に通報した訳ではないと思います。喧嘩が起きても、先生方は警察に通報すると言って、言い方は悪いですが脅して事情を聴くということが以前にもあったそうなので。
その話を聞いていて、『絆』が崩壊しているのかなぁ? と感じています。
先生と生徒、先生と親、親同士にも・・・
話し合いをすることができない雰囲気があるような気がします。
本当は子供を育むために皆が協力して、親だけに、先生だけに負担がかからないように、お互いがちょっとずつ助け合って、相手の立場を考えてあげれば、実はもっと楽になるんでしょうけど。
何か言えば、全てを押し付けられる。
何か言えば、自分の立場だけでなく子供の立場も悪くなる。
たぶん、どんな組織にも少なからずこのような感じがあるように思います。
そして、国の中枢に目をやれば、力と数さえあれば何でもできる。
昨日までダメだったことも、簡単に覆り、反対を唱えれば個人攻撃をする。子供にまっすぐな大人になりなさいと到底言えない現状です。
ただ、この国の中枢の在り様は、私たちを映す鏡だと思います。
私たち自身が、個人の利益ばかり(不利益を被らないことばかり)を考えて行動している、その結果が反映されているだけに過ぎない。
それで、冒頭に至る訳です。
解釈にはいろいろとあるとは思うのですが、やはり皆が幸せになって初めて、自分の真の幸せが訪れるということではないかと思うのです。
個人の幸せばかりを追求しても、その為に社会は疲弊したり、犯罪が増えたりしたら、安心して暮らせたり、多少人生につまづいても再びやり直せたりという、安心感も得られない。
賢治が思った『ほんたうのさいはひ』とは、もっと大きなものかもしれませんが、少なくとも私には、『情けは人の為ならず』というのとニアリーイコールかな。
去年、我が家のDNAを継ぐ子が誕生して、漠然と考えていた未来への責任に重みがでた気がしています。
自分に対する戒めも含め、世の中全体が幸せになる方、穏やかになる方へ歩みを進める努力をしなけばならないですね。