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設立当初から「赤い巨塔」の学術会議  櫻井よしこ

2020-11-07 09:53:22 | 日記
 わたなべ りやうじらう のメイル・マガジン
               頂門の一針 5587号

設立当初から「赤い巨塔」の学術会議  櫻井よしこ

日本学術会議は一体どんな組織なのか。歴史を辿ると設立当初から、日本 を占領統治した連合国軍総司令部(GHQ)及び日本共産党と、深い関係 にあったことが見えてくる。

10月23日、シンクタンク「国家基本問題研究所」で東京大学名誉教授、唐 木英明氏の話を聞いた。唐木氏は2000年に学術会議の会員となり、08 年~11年の3年間、同会副会長を務めた。

氏によると、1946年6月、GHQ科学技術部は東大の茅誠司氏らに科学渉 外連絡会を設立し、日本のあるべき科学研究体制を研究するよう勧めた。 5か月後、GHQ科学技術部は科学者の新体制作りを指示した。唐木氏の 説明だ。

「占領軍は日本の原子力研究を禁止したのに加えて、理研、阪大、京大の サイクロトロン(加速器)を破壊したりしました。この極めて荒っぽい政 策は米国内でも批判されました」

ひたすら日本の底力を破壊しようとする蛮行を見て、GHQの側に科学を 理解する人材を加えるべきだという認識が生まれ、48年に物理学者のH・ C・ケリー氏が招聘された。ケリー氏の指示で誕生したのが日本学術会議 だったという。

それでも当初の学術会議はGHQ内部で暗躍したニューディーラー(その 多くはアメリカ共産党員だった)の考えを受けて、世界的に例のない過激 な政策を掲げた。

再び唐木氏の説明だ。

「たとえば、最高科学者会議を設けて、彼らが科学および教育に関するあ らゆる政策、研究費の予算配分を決定し、国会決議を得たうえで政府にそ の執行を命令し、監督する権限を持つ。最高科学者会議のメンバーは科学 者が直接選挙で選ぶなどという過激な案でした」

科学者による絶対支配体制を提唱したわけだが、当時、科学者の多くはア メリカを帝国主義の国と見做し、彼らの資本主義が日本に浸透することに 反感を持っていた。

共産主義者の後ろ盾

日本学術会議は1949年1月に発足したが、前年12月に学術会議の会員210名 を選挙で選んだ。唐木氏は『通史 日本の科学技術』の第1巻『占領期 1946─1952』(学陽書房 中山茂・他編)を引用し、ざっと以下のように 説明した。

210名の定員に944名の候補者が立った。共産党候補者は61人、内26人が当 選。加えて40名ほどの同調者も当選した。共産党の影響下にあった民主主 義科学者協会(民科)の候補者は、総会員数の1割(21名)以上を占めて いた。

民科系候補者の正確な当選者数は定かではないが、共産党及び同系統の学 者たちは学術会議の3分の1に迫る66名ほどの勢力を形成したことになる。 彼らは頭もよく、論も立つ人々であったろう。その一群が絶対的権力者で あったGHQ内の共産主義者の後ろ盾を得ていたのだ。どれ程強力な影響 力を持っていたことか。そうした中で50年、「戦争を目的とする科学の研 究には絶対従わない決意の表明」という声明が出された。

他方、政府は新しいエネルギー源を目指して55年に原子力関連の研究に乗 り出した。学術会議会長の茅誠司氏、国立大学協会会長の矢内原忠雄氏ら は反対し、原子力委員会設置法に「原子力利用に関する経費には、大学の 研究経費は含まない」との付帯決議をつけさせ、わが国の原子力研究の道 を狭めた。

現在に至るまで学術会議は国防研究も禁じているが、原子力研究の制限 も、学問の自由への挑戦であることに変わりはない。

政府は対抗して56年に原子力委員会をつくり、同時に科学技術庁も設置し た。その上で原子力委員会を科技庁の所管とした。

「政府は左翼系科学者の影響下にある学術会議への対抗策として、学術行 政の支配権を取り戻すために科技庁を創ったのです」と唐木氏。

学術会議がもっていた科学技術に対する司令塔としての役割及び研究助成 を全て、科技庁に移した。続いて59年には科学技術会議が設置され、学術 会議の中心議題も全てこちらに移された。67年には文部省が学術審議会を 設置、科学技術だけではなく、人文・社会科学についても全ての学術審議 が移された。80年代には各省庁が審議会を設置し始め、学術会議はするこ とがなくなってしまった。

長年学術会議の会員を務め副会長も務めた唐木氏は、69年から77年にかけ て日本学術会議は自己点検をし、改善すべきところは改善しようとしたと 語る。が、結論からいえば彼らは政府との全面的対決を選んでしまったのだ。

82年、中山太郎総務長官が学術会議の改革を提議したが、学術会議側は 突っぱねた。その後、政府、学術会議の双方が有識者会議を次々に開いて 対抗する非常に厳しい対立の時代が続いた。この間の詳細は割愛せざるを 得ないが、国民の視点から言えば、学術会議は自らの利益のために活動す る一方で、国民全体、或いは国に対する貢献は考えなくなったとしか見え ない。

自民党の油断

90年代から00年代にかけての行政改革では学術会議も対象になり、彼らは 05年に改革を打ち出した。1社会全体に関わる問題について専門性を持っ た科学者が集まって総合的・俯瞰的な視点から提言する、2欧米主要国の アカデミーの在り方に学び、10年以内、つまり15年には、より適切な設置 形態を検討する、などである。

菅義偉総理の言う「総合的・俯瞰的視点」の意味が分からないなどと学術 会議側は言うが、それは自分達が言い出した表現であろう。

多少反省し軌道修正に向かったかに見えた学術会議は、しかし、09年に民 主党政権が誕生すると、またもや改革の歩みを緩めた。民主党は学術会議 に非常に好意的で、諮問もせず、ただ学者の皆さん頑張ってという姿勢で 学術会議にとってはラクな期間だったという。

そして見直しをする15年が来たとき、驚くことに自民党政権下の有識者会 議が学術会議の現状維持を諒としたのだ。有識者会議には多くの学術会議 関係者が入っていて、ほとんどお手盛り会議だったとの批判はあるが、自 民党の油断である。

民主党政権は原子力規制委員会と規律の緩んだ学術会議という悪しき遺産 を残した。いずれも、自民党は根本から変えるチャンスがあったのに何も しなかったのは事実である。

学術会議側は、菅首相が6人を任命しなかったのは学問の自由の侵害だと 言う。とんでもない間違いだと唐木氏は強調する。学問の自由とは研究の 自由、発表の自由、教育の自由を指す。だが学術会議は研究機関ではない ため研究も教育もしない。発表するのは学術会議の中での検討事項だけ で、学問の自由と学術会議は全く無関係だ。ここまでくれば学術会議は民 営化するのが一番だ。
『週刊新潮』 2020年11月5日号
日本ルネッサンス 第924回

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