鍛冶俊樹の軍事ジャーナル
(2024年8月6日号)
*台湾と朝鮮半島の地政学1
豊臣秀吉は、戦前の日本では一番人気のある英雄だったが、戦後はそうでもない。なぜ戦前と戦後で評価が変わったのかと言えば、朝鮮出兵への評価が変わったからだ。
戦前、朝鮮半島は日本領であったから、秀吉の朝鮮出兵は失敗に終わったとはいえ、先駆的な事業として評価された。戦後は日本領でなくなったので先駆的事業の意味は失われ、「愚挙」となった。
だが日本が去った後の朝鮮半島は南北に分断され軍事的対立が先鋭化し、安定した状況であるとは言いがたい。日本が統治していた時代の方がはるかに平和で安定していたのである。
これと類似した状況にあるのが台湾である。やはり戦前、日本が統治していた時代、平和で安定していたが、日本が去ったあと、平和と安定は失われた。
日本は明治時代に台湾と朝鮮半島を併合し、大日本帝国を築いた。しかし台湾と朝鮮半島を攻略しようと初めて考えたのは豊臣秀吉だ。
当時フィリピンはスペインの植民地であったが、秀吉が1594年、フィリピンの総督ルイス・ペレス・ダスマリナスに送った書簡には「余は朝鮮の城砦を占領し、その使者を待つために多くの我が軍を朝鮮に派遣せり。」「しかして支那(中国)に渡りたる後はルソンは容易に我が到達し得る範囲内にあり。願わくは互いに永久に親善の関係を保たん。カステイラ王(スペイン王)に書を送り、余が旨を知らしむべし。」
1597年に日本で処刑されたスペイン司祭は、死の直前にフィリピンの副総督アントニオ・デ・モルガに手紙で、秀吉は「琉球及び台湾島を奪わんと企てつつあり、しかしてここよりカガヤン(フィリピン最北端)に兵を差し向け、もし神が彼の進撃を抑止せねば、やがてマニラに殺到すべし。」と書き送っている。
これらを見ると秀吉は朝鮮半島から中国大陸、そして台湾に至り、そこからフィリピンを攻略する意図を抱いていたことが明らかであろう。
フィリピンは、19世紀末に米国の植民地となり、第2次世界大戦では日米の戦場となった。独立後は日米との緊密な関係を保っている。
現在において、日本、韓国、台湾、フィリピンは同盟関係を形成しつつあるが、この地政学的連関を世界史上初めて認識したのが秀吉だったのである。
(続く)
(2024年8月6日号)
*台湾と朝鮮半島の地政学1
豊臣秀吉は、戦前の日本では一番人気のある英雄だったが、戦後はそうでもない。なぜ戦前と戦後で評価が変わったのかと言えば、朝鮮出兵への評価が変わったからだ。
戦前、朝鮮半島は日本領であったから、秀吉の朝鮮出兵は失敗に終わったとはいえ、先駆的な事業として評価された。戦後は日本領でなくなったので先駆的事業の意味は失われ、「愚挙」となった。
だが日本が去った後の朝鮮半島は南北に分断され軍事的対立が先鋭化し、安定した状況であるとは言いがたい。日本が統治していた時代の方がはるかに平和で安定していたのである。
これと類似した状況にあるのが台湾である。やはり戦前、日本が統治していた時代、平和で安定していたが、日本が去ったあと、平和と安定は失われた。
日本は明治時代に台湾と朝鮮半島を併合し、大日本帝国を築いた。しかし台湾と朝鮮半島を攻略しようと初めて考えたのは豊臣秀吉だ。
当時フィリピンはスペインの植民地であったが、秀吉が1594年、フィリピンの総督ルイス・ペレス・ダスマリナスに送った書簡には「余は朝鮮の城砦を占領し、その使者を待つために多くの我が軍を朝鮮に派遣せり。」「しかして支那(中国)に渡りたる後はルソンは容易に我が到達し得る範囲内にあり。願わくは互いに永久に親善の関係を保たん。カステイラ王(スペイン王)に書を送り、余が旨を知らしむべし。」
1597年に日本で処刑されたスペイン司祭は、死の直前にフィリピンの副総督アントニオ・デ・モルガに手紙で、秀吉は「琉球及び台湾島を奪わんと企てつつあり、しかしてここよりカガヤン(フィリピン最北端)に兵を差し向け、もし神が彼の進撃を抑止せねば、やがてマニラに殺到すべし。」と書き送っている。
これらを見ると秀吉は朝鮮半島から中国大陸、そして台湾に至り、そこからフィリピンを攻略する意図を抱いていたことが明らかであろう。
フィリピンは、19世紀末に米国の植民地となり、第2次世界大戦では日米の戦場となった。独立後は日米との緊密な関係を保っている。
現在において、日本、韓国、台湾、フィリピンは同盟関係を形成しつつあるが、この地政学的連関を世界史上初めて認識したのが秀吉だったのである。
(続く)
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