「西本願寺」の南に大きなお寺が有ります。このお寺は「西本願寺」の一部のように見えますが、れっきとした独立のお寺です。
「真言宗興正派」の本山で「円頓山」と号します。
このお寺の創建は、正中元年(1324年)「了源」(りょうげん)が山科に一寺を建立し、それを大谷廟堂の「覚如」が興正寺と名づけた事に始まります。
その後、山科から辻谷に移り、寺名を「仏光寺」と改めました。「仏光寺」http://blog.goo.ne.jp/itodoya/d/20120702の起源を考えると、建暦2年(1212年)流罪地の越後から京に戻った「親鸞」は山科に一寺を建て、第84代「順徳天皇」から「興隆正法寺」の号を賜り、勅願所となりました。後に省略して「興正寺」としたという事です。
「仏光寺」の第十四世「経豪」(きょうごう)は、「仏光寺」が「天台宗妙法院」と近い関係を嫌い、本願寺の「蓮如上人」に帰依して、同じ思いの僧らとともに「仏光寺」を出て、旧地の山科にお寺を建立し「興正寺」を継ぎました。
その後現在の「興正寺」は、天文法華の乱で大坂に移りますが、天正19年(1591年)「本願寺」の移転にあわせて、この地に移りました。
本願寺の東西分派以降も「西本願寺」に属しました。
しかし、宗論の違いで袂を分かつ事になり、明治9年(1876年)に「真言宗興正派」のお寺として独立しました。
※天文法華の乱:天文5年(1536年)細川晴元は一向宗を利用して、政敵を打倒します。しかし、一向宗が独自の動きを始めると法華宗徒を使い一向宗を牽制します。すると力を持った法華を快く思わない「延暦寺」が法華を攻撃します。泥沼の宗教戦争になってゆきました。
下京区堀川通七条上ル花園町70
(たわごと) 愚痴
今日は、地元の夏祭り。テントを五つもはる事になりました。私は今年役員にあたっています。早朝からテントはり。初めての経験です。皆、年寄りばかり、充分に気を付けていました。パイプを通してロック。相方に、声をかけ少し待つようにと、しかしパイプはドスンとはまり私の右手の人差し指が挟まり、指の先5mmほどとの肉が切断。爪もガタガタ。すぐに病院へ。肝心の右手の人差し指は2ヶ月ほど自由はききません。後で聞くと相方は耳が不自由との事。そんな事私知りませんがな。大きな声で30cm位の近くで声をかけて注意していたのに。
当分、人差し指は使えません。キーボードの打ちにくい事。災難の夏祭り。 今夜は、痛くて眠れないかも。当分はキーボードは「雨だれ打ち」ダダの愚痴です。