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四国88ヶ所 自転車遍路の旅⑮

2006-07-21 23:32:52 | 遍路

  四国88ヶ所自転車遍路の旅も、いよいよ最終章で、本日より8-1 通算で15回目のスタートです。 写真は沢山撮ったのですが、デジカメの感度を上げすぎて(1MB以上)アップロードできません。しばらくは写真なしです。

  第八回(「第八十一番白峯寺」から結願の寺「第八十八番大窪寺」へ。愛車のマウンテンバイクを置いて、“つれあい”と二人で歩き遍路の旅。)

 二〇〇三年の夏は、つかの間で気まぐれであった。長い梅雨が七月一杯から八月の始めまで続いた。八月八日から十日にかけて台風十号が日本列島を縦断し、さらにお盆に入ると秋雨前線の雨が降り出すありさまである。その後もぐずついた天気が続き、お盆が過ぎると時々夏の名残を惜しむかのように、「ヴアーット」暑い日差しがあり、そのときに一斉にそして大急ぎで蝉時雨が鳴り出す。西日本では、九月にはいって初めて「今年一番の暑さ」を連日記録する、そのような夏であった。 私の四国八十八ヵ所遍路の旅は、「つかの間の夏」であった二〇〇三年八月三日から七日にかけて、そして結願にむけて最終回ということもあり、今回は愛車のマウンテンバイクを置いて“つれあい”と二人で歩き遍路をすることとした。
  二千年の夏に自転車遍路を始めた頃は余り要領も得ず、また信仰心やら何かに帰依するというような純粋な動機も持っていなかったのだが、寺々をまわり、いろんなお遍路さんや、その土地の人たちと触れ合っていくなかで、最近では大団円の「四国曼荼羅」のような世界に自分が溶け込んで行くような実感が、じわーっと湧いてきている。最終回では、その実感を“つれあい”と「共有」したくて、また自分自身も歩き遍路をすることによって、その実感の「本質」に少しでも迫りたいという思いで今回の計画を立てた。
  この歩き遍路の旅の直前に、八十歳になる「幸月(こうげつ)さん」という、一人の俳人でもある歩き遍路さんにかかわって、事件があった。幸月さんは、二千日遍路という想像を絶する難行に挑みながら、感性に溢れたすばらしい俳句を詠み、それらを句集「風懐に歩三昧(かぜふところに、かちざんまい)」に記していた。その生き様をNHKテレビが取材し、「人間ドキュメント」で全国放映をしたのだが、そのときに本名も紹介し、それがきっかけとなって実はご当人は八年前に大阪で、殺人未遂という決して小さくない刑事事件を起こし、現在は逃亡者であることが発覚し、まもなく逆打ちの歩き遍路中に逮捕された。 この事件をめぐって、実に多くの意見や討論がインターネット等を通じて繰り広げられた。私もネットの「週間へんろ」関連のサイトで、以下のような意見を投稿した。

     『私は、区切り打ちで自転車遍路をしており、この夏には結願の予定です。俳句 集「風懐に歩三昧」をむさぼり読んで、幸月さんについていろんなイメージを抱きました。慈悲、慈愛、希望、あるいは虚無、刹那、等実に多様な表象があり、実はこれらの全てが抽象化されたところに、「真実の」幸月さんがあります。そしてそれは2000日遍路というバックボーンにも裏打ちされて、一種の神々しさを放っています。そのことは私にとってはかなり重要なインパクトでしたし、今も本質的には変わるものではありません。 一方、幸月さんには、刑事事件を起こした「逃亡者」という事実が発覚しました。しばしば、「真実」はほんの少しの「事実」によってもろくも「瓦解」してしまうことが有ります。世間では大変な人格者と思われていても、ほんの少しの虚偽で全てが失われてしまうことは珍しくありません。今回の「安物の」マスコミがとった態度は、その典型を走っているのでしょう。 私は、幸月さんが本名でTV出演したご本人の本意は知るすべもありません。ある種覚悟の上なのか、あるいは『もう大丈夫だろう』という思い上がりの気持ちがあったのか、あるいは第三者には立ち入ることが出来ない心情があったのか何も分かりません。第三者にいえることは、幸月さんは順序を間違えたことです。 私にとっては、幸月さんが「逃亡者」であったこと、この「事実」を自分なりに受け止めて、その上で、「風懐に歩三昧」の世界に再び浸ってみたいと思っています。 幸月さんが、再び旅に出て新たな「真実」を築いていかれることを願っています。 (54才男)』

  この事件をめぐって、いろんな人の感想がある。「人格者」と「刑事事件の逃亡者」を対極に置いて、幸月さんを全否定する意見は、多い。わが“つれあい”もどちらかというとそのような意見を持っている。ただ、この事件を興味本位にして、遍路の世界をパロディにしたり、あるいは「暗い過去を背負った人たち」の姿のように編集し、放送していたマスコミが少なくなかったことは、日本のマスコミの薄っぺらい実態もあわせて、実に大変悲しいことである。
  なにやらいろんなことがあったが、ともあれ今回の遍路の旅は、八月三日から七日にかけて、高速バスで坂出まで行き、八十一番札所「白峯寺」から歩き始め、高松市内、牟礼、志度、長尾と歩き、結願の寺「大窪寺」へと至る。そして発心の寺「霊山寺」へと戻り、徳島から高速バスで大阪へ戻る日程を決め、“つれあい”ともども気合を入れて「心の準備」を整えた。 一日目は、高速バスで「白峯寺」近くの簡易保険保養センターへ。二日目、崇徳天皇稜のある、鬱蒼とした「白峯寺」から五台山を歩き、「根香寺」から「一宮寺」へ 。
  二〇〇三年八月三日は、雨天を心配していたのだが昨日までと打って変わって真夏の空になった。十一時三十分大阪駅バスターミナル発の丸亀行きの高速バスに乗り一路坂出へと向かう。バスは明石大橋を越え、淡路島を縦断し鳴門大橋から四国へと入り、高松自動車道へ乗り継ぎ、さぬき市、高松市に入る。高松市からは高速道路を降りて、一般道を走る。市内中心部から五台山を回って、坂出市に至る道は、明日からの歩き遍路道と行き交うような感じだ。
  十五時二十五分のほぼ定刻にバスはJR坂出駅に到着。しばらくすると今晩の宿泊地である「かんぽの宿坂出」からの送迎バスがやってきた。バスは十六時三十分発なのでかなり時間があり、その間運転手さんと談笑。運転手さんは、もとタクシードライバーで、四国八十八ヶ所は所々歩きながら、車で回ったとのことで、いろんな寺のことを実によく知っている。 十六時五十五分に、送迎バスで「かんぽの宿坂出」に到着。ここから第八十一番札所「白峯寺(しらみねじ)」は一キロメートルほどしか離れていない。この時間では納経帳の記帳には間に合わないが、”つれあい”と相談して明朝は記帳を頂くだけにして、今日中にお参りしてしまおうということになった。さっさと部屋に荷物を置いて、白峯寺をめざす。
  十七時十五分白峯寺の仁王門に到着。境内は鬱蒼としている。時間も遅く、人もほとんどおらず、凛として静寂である。境内に入り右手のほうの石段を登りきると正面に本堂があり、その横に大師堂が並んでいる。四国八十八ヶ所遍路の旅で初めて”つれあい”と一緒に願を唱えた。彼女は一体何を唱えたのだろうか。石段を降り、境内を横切るようにして古径に出て、そこを右に行くとさらに鬱蒼とした雰囲気となり、やがて右へと登る石段があり、そこが崇徳天皇陵だ。「瀬をはやみ 岩にせかれる 滝川の われても末に あわんとぞおもう」という句を天皇寺高照院の時と同じように思い出した。ロマンチックな歌を作る割に崇徳天皇の晩年は、戦に破れ、追われて怨みに溢れていたそうだ。鬱蒼とした雰囲気は、崇徳天皇の怨みが現在になお感じられるかのようである。少し白峯寺の境内と周辺を散策し、十八時十分に「かんぽの宿」に戻り、温泉に入浴し、食事。明日からの歩き遍路にそなえ、多いに鋭気を養った。                           

                                             (続く)


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