いせ九条の会

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英国のジャーナリスト 「無責任の体系」を指摘する/山崎孝

2007-03-30 | ご投稿
29日のブログは植木等さんが諧謔的に演じた「無責任男」に触れましたが、3月30日付朝日新聞「新戦略を求めて」の記事の中に、英国のジャーナリストが、日本の政治家が国家の決めた原則的なことと一致していない言説を戦前の天皇制のもとでの『無責任の体系』と類似していると指摘したところがありました。

《英BBCの東京特派員を8年間務めたジャーナリストのウィリアム・ホーズレー氏は言う。日本は政治家のメッセージの発言力が弱い。どういう国を目指すのかわからない。非核三原則があるのに核論議をしろといい、従軍慰安婦問題で政府が旧日本軍の関与を認めて謝罪しているのに、安倍首相が問題を蒸し返す。政治学者の丸山真男氏が、戦前の天皇制のもとでの『無責任の体系』を指摘した状況そのままではないか》

★参考 戦後言論界のオピニオンリーダであった丸山真男氏の「無責任の体系」を次のように宮川匡司氏は解説しています。《戦時下での日本の支配を特徴づけている価値と精神構造を明らかにして、価値基準が天皇への距離によって計られていた日本では、自由な主体的意識がなく、「抑圧の移譲」によって精神の均衡が保たれてきた。しかも天皇さえ伝統的権威に支えられている以上、誰一人として価値の主体とはなり得ず、政治的責任の欠如を招いた。この分析は、戦争を体験した多くの人々を覚醒させる効果をもった。著者が言った「無責任の体系」は、今も至る処で健在だ。》

★参考 法学研究科法曹養成専攻教授 高見勝利氏の講義

Ⅰ 丸山の明治憲法「体験」 最初に、丸山の日本国憲法の捉え方を理解するうえで必要と思われる、明治憲法下での3つの「体験」について紹介する。

第1の体験は、1933年、一高時代に唯物論研究会の講演を傍聴、特高警察に捕まり、治安維持法違反容疑で取り調べを受けたこと。丸山にとって、それは、明治憲法下の天皇制、いわゆる「国体」とは何かを考える契機となった。爾後、思想犯被疑者として、翌34年の大学入学時から40年法学部助教授となるまで、定期的に特高警察・憲兵隊の監視下に置かれた。天皇制国家の「原体験」である。

第2の体験は、1934年東大法学部に入学し初めて聴講した宮沢俊義の憲法講義と、翌35年の天皇機関説事件である。宮沢は、前期の講義で国家の基礎理論を説き、後期から憲法条文に即した解釈を行った。それは、美濃部説の骨格をなす国家法人説について、「法の科学」の立場から徹底批判するというものであった。ところが、同年秋、右翼・政治家が美濃部の天皇機関説を攻撃、翌35年1月、貴族院本会議でも「質疑」に名を借りた美濃部の弾劾。そのため、問題が「急速に激化」し、美濃部の著作は発売禁止処分となり、また、美濃部自身も検事の取り調べを受け、貴族院議員を辞す。さらに、暴漢にピストルで撃たれる事件にまで発展。他方、次のターゲットとして宮沢が狙われる。そこで、宮沢は、35年度の講義を全面的に組み換え、国家論を一切省略、また、明治憲法「第一条から第四条までの説明」も飛ばす「異様な講義に一変」する。それは、美濃部・宮沢の憲法学説が「国体」の名において権力により蹂躙され、封殺される過程の「目撃体験」であった。

第3の体験は、1944年7月と翌45年3月の2度におよぶ兵役召集と8月6日の広島での被爆という「戦争体験」である。1940年6月、丸山は法学部助教授となり1944年3月に結婚、そして7月に2等兵の教育召集を受け、松本から平壌に移動するが、9月病気のため内地送還となり、11月に復員。1945年3月、再度の召集により、広島市宇品の陸軍船舶司令部に配属、暗号教育を受けた後、参謀部情報班に転属、国際情報の収集にあたる。そして、8月6日被爆。8日、米大統領の原爆投下放送を傍受。9日、爆心地付近を写真撮影。15日、敗戦。母死去。16日以降、参謀室で特別講義。9月半ば、復員。

Ⅱ 8・15から憲法改正要綱発表(1946・3・6)前後まで 8・15により、丸山が「国体」の呪縛から直ちに自らを解き放ったわけではない。国体のもつ「魔術的な力」から完全に脱却するには、復員後、大学に復帰してからでも、なお、半年あまりを要している。それは、翌年1946年5月号『世界』に掲載された「超国家主義の論理と心理」と題する論文末尾の「日本軍国主義に終止符が打たれた8・15の日はまた同時に、超国家主義の全体系の基礎たる国体がその絶対性を喪失し、今や始めて自由なる主体となった日本国民にその運命を委ねた日でもあった」との記述に示される。

Ⅲ 丸山の日本国憲法「理解」 第1に、憲法の国民主権、民主主義に関して、丸山は、憲法に規定された民主制度を「硬直化」、「形骸化」させないために、主権者となり、自由な決定の主体となった国民が、デモクラシーの理念に照らして、絶えず、その制度の働きを監視、批判しなければならない。つまり、国民の下からの「革命」運動は、憲法体制化した民主主義のもとで「永続」させなければならないと解した。

第2に、「国体」の呪縛から解放された個々の国民の自由に関して、国民は「日々自由になろうとすることによって、はじめて自由でありうる」こと、その自由は「政治秩序に絶えず立ち向かおうとする精神」であって、「個人の内面的な規制力」に依拠するものでなくてはならぬと解した。

第3に、憲法第九条について、それは現実の国家の政策を不断に方向づける「理念」として理解すべきであり、「武装しない国家」という理念は、従来の国家概念の再定義を迫るものだと説いた。

いずれの提言も、丸山がわれわれに後進に託した重い課題である。(以上)

丸山真男氏は戦前を「誰一人として価値の主体とはなり得ず」と指摘しています。戦争の教訓から生まれた日本国憲法の価値は、本来的には法律上、政府、裁判所、政党、国民が揃って主体的に守り生かすべき責任を負っています。しかし、その主体的な体制は大きく崩れています。政府と与党、野党も共産・社民を除いて憲法を守らず変えてしまおうとする。裁判所も人間味をもってまた、政府と厳しく対決して憲法を守る立場ではなく、あまり当てに出来る状況とはいえません。民主と平和を願う日本人が主体的な役割を果たして憲法を守り生かしていくしかありません。