伊佐子のPetit Diary

何についても何の素養もない伊佐子の手前勝手な言いたい放題

JUNE以前

2016年10月10日 | ボーイズラブ
いつ頃だったか思い出せない。
多分、中学生になって、文学というものを
読み始めたころだっただろう。


もちろん、やおいとか、ボーイズラブなどの言葉や、
JUNEさえなかったころのことだ。


オスカー・ワイルドの「ドリアン・グレイ」や、
「獄中記」を読んで、ドキドキしていた覚えがある。

特に、「獄中記」で、ポジー(ワイルドの相手)にあてた手紙?
などを読んで、ドキドキして想像を膨らませていた。

ワイルドが同性愛者であり、
そのことを大っぴらにして振る舞うことが、
彼のダンディズムであるらしいことを知り、
何となくすごい、と思ったりしていた。

当時、同性愛は罪悪だったので、ワイルドは掴まり、
獄舎に入れられ、そこで書いたのが「獄中記」だ。


あのころ、女性が男性の同性愛に興味を持つ、
などということは、まったく想定されてないことだった。

だから、
今のような女性向けのそういう読み物などあるはずもなく、
それらを求めるには文学しかなかった。


ヘルマン・ヘッセの「車輪の下」や「ナルチスとゴルトムント」
などにそこはかとないものを感じ、
アンドレ・ジイドがそうらしいと聞くと「背徳者」などを読み、
そうやって、自分は文学にそういうものを求めていた。
そういうものしかなかった時代だ。

「ベニスに死す」もそうやって探し当てて、
そのころ読んだに違いない。
映画よりも前に原作を読んでいたことは確かだ。


ランボーとヴェルレーヌの関係も、当時は深く興味を持って、
いろいろと読んだりしていたが、ランボーは同性愛者ではない。

彼はまた別の私のカリスマだった。




女の子で、男性の同性愛に興味を持つなんて、
自分でもおかしいと思っていた。

そんな人はいないだろう。
自分だけだ。
だから、自分はヘンタイなのだと思っていた。



あのころ、女性のリビドーは認められていなかった。

おじさん週刊誌が、女性はポルノ映画を見ても興奮しない、
だから、
女性には積極的な性欲はないとか大真面目に書かれたりして、
そのように思われていた。

おかしな話だが、そう思われていた。
そういう時代だった。


ポルノは男性が欲情するように作られている。
だから女性が見ても欲情しないのは当たり前だ。

だけど、男性は、女は自分では発情しない、
男に性交され、そうすることで目覚め、
初めて性的な快感を得られるのだ、と信じていた。
というより、男性はそう信じていたいらしかった。

女性の性を、あくまで受け身で、男によって支配されることが、
女性の喜びであると信じていたいらしかった。




映画で始めてそれらしい描写を見たのは、多分、
フェリーニの「サテリコン」だっただろうと思う。

青年同士が上半身裸体で、互いの体を撫でまわすという、
ただそれだけのものだったが、
そういうことを、別にこんなことは大したことじゃないんだよ、
よくある性愛の一部なんだぜ、みたいなフェリーニの描写には
救われた気がした。



それから少しずつ、映画で同性愛の描写も増えていった。

「ベニスに死す」でのヴィスコンティの大告白は、
私の大きな助けになった。



この映画で、美少年が流行り、女性に大きな影響を与えた。

少年愛という世界が、女性たちの何かを掘り起こしたのだと思う。

少年愛は、私自身はセドリック・コンプレックスと名付けたいが、
今でいうショタコンということだ。

そういう世界に、女性たちが、反応した。
それは確かだ。




中井英夫とか、森茉莉を読み始めたのはいつだっただろう。
多分、同じころかなと思う。

中井英夫はそのころは知らなかったが、完全にゲイで、
酒場で「まだ女が好きなのか」と周囲の人に言ったりしていたという。
長年のパートナーもいたということは、あとになってから知った。

彼の書や、塚本邦雄は私の愛読書だった。

森茉莉は、「枯葉の寝床」の奥づけを見ると、1972年の発行に
なっている。
多分、そのころ知ったのだろう。

箱つき、セロハンのカバーつきの単行本を持っていた。
そして「恋人たちの森」も。

女性が男性同士の恋愛を描いている、
ということが衝撃的だった。

森茉莉という存在が、手探りを続ける私に、
何かをもたらしたように思う。



赤江瀑の「ニジンスキーの手」の文庫本を読んだのは、
奥つけを見ると1974年の発行になっているから、その頃だ。

その中の、「獣林寺妖変」はこれもかなり衝撃的だった。
今でもその本を持っている。

自分の性向が、こういう方向に向いていることが、
はっきりと分かった。

赤江瀑の本は読みふけった。

だが、それがかえって、自分の罪悪感を掘り起こすことにも
なってしまっていた。




「ベニスに死す」、そして森茉莉の本の刊行、
それらは多分、ある種の女性漫画家たちに影響があったのだろう。

何年かのちに、女性漫画家たちが「ポーの一族」「風と木の詩」
「イブの息子たち」などを書いた。
いずれも1975年ころのようだ。


それまでの少女漫画と言えば、
クラスで全然目立たない、ぱっとしない女の子が、
なぜかクラスで一番人気者で美形の男子に恋をされる、
という都合のよい設定のまんががほとんどだった時代。


彼女ら(萩尾望都、竹宮恵子、青池保子、木原敏江など)の漫画は
少年や青年が主人公であって、そこに意味があった。

男の子や、青年が主人公の少女漫画は、それまでなかった。



でも、確かに少女漫画がそういう形に変遷してゆく、
なんとないムーブメントは、どことなく感じられた。

どこかの底に溜まっていたマグマが噴出するように、
ある時、それが一気に奔流となって流れ出て来た。

映画などの影響があったと思う。

それは突然に出現したわけではなく、じわじわと、
女性が目覚め始めていた、その結果として、
ああいう新しい少女漫画の世界が生まれたのではないかと思う。


少年愛を真正面から取り上げた「風と木の詩」は、
センセーショナルで、私ももちろん読んだ。
(途中でやめてしまったけれど)

だけれど、女性の中でああいうものを受け入れる土壌が
生まれていた。

だから、ヒットし、女性たちは熱中した。


もうそのころには、私は、私一人ではないかもしれない、
と思い始めていた。

少年愛に熱中するのは、女性にとって、自然な情動ではないのか、
そんなことを思い始めていた。




男性には、それは分からない世界だった。

そのころの彼らには、理解できなかったのだった。

女が男同士に熱中するなんて気持ち悪い、と
彼らは思っていたはずだ。


だけど違うのだ。

男に興味があるから、男同士にも興味を持つ。

男の美しい肉体に興味を持ち、男の性に興味を持つ。

それが、女にとって、男性同士の性愛に結び付く。



それは、…
女が男に興味を持つのは、男が女に興味を持つのと同じこと。


男性だって、レズのポルノに興奮するはず。
それと同じことなんだ。

女だって、性欲があるんだ。

女は男の受け身なだけではない。
ちゃんと自立した、女のリビドーがあるんだ。

男性は、それを分かりたくなかった。
女性はあくまで受け身であるべき、という、
女性への理想を捨てられなかった。



女が積極的に男性や少年(の性)に興味を持つ。
男性のうつくしい裸体に興味を持つ。
それはそれまで許されていないことだったけれど、
少女漫画家たちがそれを開放した。


女はどうどうと男性に興味を持ち、
男性の性に興味を持ち、それを描く。

そういう時代が来ていたのだ。

つづく






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