伊佐子のPetit Diary

何についても何の素養もない伊佐子の手前勝手な言いたい放題

京都にあった大仏

2016年10月04日 | 京都の社寺と文化財
だいぶ前、NHKの「歴史秘話ヒストリア」という番組で、
京都に大仏があったという話をしていた。


番組は、井上あさひアナが正面橋を渡るところから
始まっていた。

正面橋は、私が京都国立博物館へ行く時に
いつも渡っている鴨川にかかっている橋だ。

いつも行っている所がテレビに映って、嬉しくなった。
(ほとんど住所を言っているようなものだよ)




正面橋は、先も言ったように鴨川にかかっているが、
正面通という名前の通りがあるのだ。

その通りにかかっているから正面橋と名付けられているのだが、
正面通というのは、テレビでもやっていたように、
京都には大仏があって、その大仏殿の正面に面する通りだから
正面通と名付けられた。



博物館へ行く時には、河原町通から正面通りへ曲がり、
東へ向かい、まっすぐ歩くと、木屋町の高瀬川を渡り、
任天堂の創業地の前を通る。

任天堂創業の地のことは、また前にArt Maniacsで
取り上げたことがある。


http://isabea.web.fc2.com/walk/nitendo/nintendo.htm
今はひっそりとしたところだが、瀟洒な建物がそのまま
保存されてある。

そこをさらにまっすぐ行くと鴨川に出て、正面橋を渡る。


正面通は、今は大仏殿はなくなっているが、
豊国神社の真ん前に通じている。

東へ歩いていくと、その突き当りに豊国神社がある。

その前に、正面通りはある部分から急に広くなる。

右わき(南側)に耳塚がある。


耳塚とは、豊臣秀吉が朝鮮へ出兵した時、
朝鮮兵の頭を落とす代わりに(持って帰るのが大変だったらしいので)
耳をそぎ落として、その大量の耳を日本へ持ち帰った。

その朝鮮兵の耳を供養する塚のことだ。

とても大きくて、小さい丘のような規模のもので、
その上に塚がそびえている。
囲いがあるので中には入れない。


近くが博物館や三十三間堂だが、そこはひっそりとして、
誰も注目する人もいない、なんとなくタブー視されている
場所だ。

以前は、時折、韓国人の団体のバスがそこで降りて、
耳塚を見学していた。

韓国人の京都観光の際の、ルートに入っているらしかった。


こんなところにも、韓国人の怨念のようなものが滲み出ている
ような気がされて、うそ寒い思いをしながら、
いつもその横を通る。

韓国人は、何百年も前の秀吉の所業を許していないのだ。
ましてや、太平洋戦争で日本が行ったことを許すはずがない。
韓国は恨みの文化なのだろう。


そんなことを考えながら、いつもその前を通る。



このあたりは、豊臣秀吉の息のかかったエリアなのだ。


正面通の突き当たりにある豊国神社は、正式には
とよくにと呼ぶらしいが、一般にはほうこくさん、
などと呼ばれている。

秀吉をまつった、秀吉が神として祀られている神社だ。

豊国神社の前の大和大路通は、そこだけ急に幅が広くなっている。


その北隣に問題の方広寺があり、問題の鐘もある。



豊国神社は大きな石に麗々しくその名前が刻まれ、
壮麗な石段の上にそれなりの敷地があり、
そこには伏見城から移築されたとかの国宝の門もあり、
宝物殿もあるようで(行ったことはない)、
そこに有名な「豊国祭礼図屏風」が展示されているらしい。


だが、訪れる人は本当に少ない。

すぐ近くに三十三間堂という、
京都でも大人気の観光地のひとつがあるというのに、
そのすぐ北側の豊国神社も、方広寺も、今は誰も顧みる者はいない。


豊国神社のすぐ北側にある方広寺は、
ここに昔、大仏が安置されていた。
テレビでやっていたとおりだ。

現在は敷地はとても狭く、あまりに狭くてびっくりする。

しかも、鐘つき堂は保存されていて、その中に問題の鐘が
今も吊られているが、私が行った時には、
狭い境内はほとんど駐車場のような状態で、
寺の中のあちこちに平気で沢山の車が駐車してあった。

栄枯盛衰、まさに方広寺のなれの果て、
むざんな現在のありさまだった。



テレビで紹介されていた、かつて大仏が鎮座していたという、
お寺のお堂の跡地にも行ったことがある。

方広寺からほど近いところにあり、
ちょっとした公園のような空き地で、
説明と案内の看板も出ていて、
そこがそのまま元大仏殿として保存されていた。
単なる狭い空き地だったが…


豊国神社も、その隣の国立博物館も、もとは方広寺の
境内であった。

テレビが言っていた通り、そこはかつてとても大きな
お寺だった。

博物館のすぐ北隣には大きな石垣があり、それが、
かつての方広寺の巨大さを物語っている。


岩佐又兵衛作だと言われる「洛中洛外図屏風」舟木本には、
その、方広寺大仏殿の巨大な建物がひときわ大きく描かれている。

確かにいっとき、京都では方広寺とその大仏は、
京の都の観光の目玉だった。


この大仏の小さな模型を博物館で見たことがある。
開閉式になっていて、胸から両側に開くようになっていた。
この雛型をもとにして、巨大な大仏を作ったらしい。




秀吉が作った時、開眼前に地震で崩壊した、と
テレビで説明されていたが、
私は、地震で倒壊するのは、安普請したせいだと
思っていたものだ。


五重塔は地震では倒壊しない。火事(雷)で焼ける。
五重塔が地震で倒壊しない以上、
大仏と大仏殿は、五重塔のような耐震設計ではなかったのだと思う。

そのために、秀吉のあとも何度も作られては倒壊した。


そして、京都からそれは消えた。
後に残ったのは、豊臣家を滅ぼすために、
家康が難癖を付けた、「国家安康」の文字の彫られた鐘。

それが、今の小さい方広寺に現在も残る。
誰もほとんど訪れることのない、鐘だが。

豊臣滅亡の原因となった、大坂の陣の原因となった、
その鐘そのものだというのに。



なぜ豊国神社や方広寺がこんなに廃れたか。

数ある京都の観光地の中でも、秀吉の祀られている神社、
とあれば、賑わうのも当然のように思うが、実際はそうではなく、
京都の中で忘れ去られ、捨て去られ、見捨てられている。



なぜそうなったのだろう。
それは、徳川家康の意向だったという話がある。



秀吉は、本願寺を現在の堀川の地に与え、保護した。
そこから、一直線に東に延びた先にあるのが、
方広寺大仏殿であった。

そして、本願寺から方広寺へと向かう通を、正面通と
名付けた。

正面通は、本願寺から方広寺へと向かう参道だった。

その時、正面通は阿弥陀を本尊とする本願寺から、
大仏殿へ向かう参道として、栄えたはずだ。

秀吉は、阿弥陀が本尊の本願寺を西方浄土と考え、
ま東に方広寺を置き、京の都に一直線上にそれらを
置くことで、自分を神化しようと考えた。



だが、豊臣家滅亡のあと、徳川家康は、本願寺を二分し、
今の烏丸通に寺地を与え、本願寺は西と東に分裂した。

なぜ家康がそうしたか、いろいろ説があるが、
そのひとつに、豊臣の威光を無にするためだというのがある。


東本願寺は、西本願寺と方広寺を一直線に結ぶ正面通の、
その真ん中に、正面通を分断する形で建てられている。

そして、徳川三代将軍の家光の時、東本願寺のすぐ東側に、
土地を与え、渉成園を作らせた。

これも、正面通のど真ん中、正面通を分断している。

東本願寺と、渉成園の存在が、正面通を、
機能させなくしてしまっている。



ほかの、京都によくあるまっすぐ伸びた、碁盤の目のような通で、
ずっと横に一直線に伸びているのなら、
京都の人にもその存在をきっちりと示すことが出来たはずが、
そうはならなかったのは、
殆んどの京都人が、正面通の名前も知らないのは、
その真ん中に東本願寺と渉成園が邪魔をしているからである。


これは、徳川が、秀吉の神化を望まず、
秀吉をまつる豊国神社を無化しようとしたのだ、


(方広寺がいつ衰退して、そこが豊国神社になったのかは、
よく知らない)



そして、文字通り、そのとおり、
豊国神社も、方広寺も、当時の面影はもはやないも等しく、
京都の片隅でひっそりとたたずんでいる。
京都人にも、観光客にも忘れられてしまって。


この説を説いたのは、↓



ほんとか嘘か分からないけど、
現在のむざんな方広寺のありさまを考えたら、
ありえる説だと思った。



が、それでも現在でも大仏の名前は、
あの一帯にそこここに残っていることは、
テレビで言っていた通りだ。

大仏前交番は、私の大好きな交番の名前で、
大和大路通七条の角に建っている。


本来なら博物館の敷地に建っているので、
博物館前交番という名前でもいいのに、
わざわざ大仏前という名を残している。



秀吉の子、秀頼は東寺の金堂に寄進し、再建した。
そのほかにも、全国の様々な寺の再建に
力を尽くしたと伝わる。

秀頼にはそういう面もあった。


私は秀吉が好きではない人だが、
京都でのこの冷遇ぶりを思うと、
時々複雑な思いにかられる。






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