静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

神学の侍女

2011-10-23 12:27:44 | 日記

(一)
 小生18歳のときの話。入学したばっかりの学校、S教授が「史学」の担当。「史
学」とはいえ授業の内容はすべてアジア史、教授はトルキスタンが専門で、しょちゅ
うトルキスタンの話。トルキスタンは遠い遠い親戚みたいな気持ちになった。前期の
試験が九月、五題出た。そのうちの一題が「神学の侍女について述べよ」だった。
 全くの「想定外」。いくら頭の中をかき回してみても、アジアやトルキスタンのな
かに「神学の侍女」は見つからなかった。当日の日記には「五問中一問は手も足も出
ず」とある。試験が終わって最初の時間、あちこちから不満の声、S教授はにやにや
笑うのみ。みんなはあきらめ顔。これはもう自然災害みたいなもので「想定外」。勉
強になりました。 S教授がなぜあんな出題をしたか、今でもわからないが、何か考
えがあってのことだろうとは思うが・・・。これは私にとって「事件」で、死ぬまで
忘れられない。
 ある地震学者の言うように「一つの考えにこだわってはいけない」のです。      
                                                                            
(二)
 人間はいろいろな神をつくり、新しい信仰を広めようとする。それには「神学の侍
女」が必要である。S教授にとって我慢のならぬ「神学の侍女」がいたのかも知れな
い。これは全く私の勝手な臆測でしかないが。
 万葉時代、天皇は神であった。明治以降、神としての天皇は復活し現人神(あらひ
とがみ)になった。つまり新陳代謝を行う神ということだろう。天皇神格化に多くの
学者が貢献した。そういう人たちは「神学の侍女」といってもよい。
 多神教の日本のなかで、天皇は真正の神、国家公認の神であった。それを否定すれ
ば国賊となりその身はどうなるかわからない。敗戦に伴う天皇自身の「人間宣言」で
天皇は神ではなくなった。しかし過去の天皇が祀られている例は沢山ある。「初代」
天皇神武を祀った神社は恐らく何百。明治神宮は初詣の人気神社のトップクラス。靖
国神社に祀られているのは250万神ほどか。
 佐高信氏のエッセイで知ったことだが、ある著名なタレント? のK氏は「どうせ
なら大政奉還をもう一度やって、一気に戦前の天皇制に戻すのはどうか」と提言して
いるそうだ。戦前の天皇制とならば、天皇は神として復活することになる。また新し
い「神学の侍女」が必要になる。
 同じ記事によると、ある夕刊紙の、「総理になってほしいと思う著名人TOP10」
という有識者900人へのインターネット調査では、このK氏が総理大臣になって欲
しい著名人の第1位になったとのこと。K氏を推挙した人たちが皆、戦前の天皇制、
つまり神としての天皇を期待しているわけではないと願いたいが、もしそうなれば、
K氏は学もあるらしいから天皇制という神学の侍女の第一候補になり得る。

(三)
 「原子力発電所は神様である」と言っていいのだろうか。いや、ほんとうは「原子
力は神様である」なのだろう。原子力発電所はその神様の現象形態である。そういう
視点に立てば、原爆も、原子力潜水艦も原子力空母もみんな神様の現象形態である。
神様は目に見えない、死なない、怒ると怖い、人間の手にはおえない。だから人間は
生贄を捧げて神様を宥める。すでに、ヒロシマ・ナガサキ、各種の核実験、原発事故
などで数知れない多くの人命を捧げ、心身を傷つけて奉仕の意を表してきた・・・原
子力という神への生贄だ。いままでに「原子力神社」というものがなかったのが不思
議なくらいだ。

(四)
 原発村というのがあるらしい。「らしい」というのは、そういう村が現実に集落と
してあるわけでもないし、公認の存在でもない。ただ、そう言われているだけであ 
る。目に見えるわけでもないが、やっぱり存在する。放射能みたいなものだ。ただし
その村を形成している人物は多分に特定できるし、そのリストをつくった人もいると
いう。
 原子力発電所は原子力開発の華々しい成果であり、アイゼンハワー元大統領が最初
に言い出したのかどうか知らないが、原子力の平和利用は人類の勝利、自然に対する
勝利なのである。人類は原子力エネルギーという新しい神をつくりだした。当然その
ための「神話」とそれに奉仕する「神学の侍女」は必要である。堅固な「安全神話」
がつくられていき、その神話の普及に莫大な費用が用いられる。私どものように福島
から200キロ以上離れている地方都市の町内会の回覧板に、格安の福島原発の1泊
見学ツアーの勧誘が載り、出かけてみると盛大な宴会、持ちきれないほどのお土産と
いう歓待ぶりだったとか。みんなが原発神話の信奉者になって帰ってきたわけでもな
いだろうが・・・。このことは前にも書いた。

 「安全神話」を創作したのは、多くが日本を代表する大学・大学院の教授たちであ
る。古代天皇制の神話は『古事記』や『日本書紀』による。作者たちは、各地の民話
・伝説を寄せ集め、想像力と創造力、そして天皇に対する忠誠心(へつらい)をもと
につくりあげた。戦争中、ラジオでの大本営発表のなかで、しょっちゅう流されたの
が有名な「海ゆかば」である。大伴家持の詠んだとされるこの歌は、大仏造営に功労
があったとして聖武天皇が彼の位を上げてあげてやったとき嬉しがり、天皇にへつら
って詠ったものとされている。

 海ゆかば みずく屍(かばね)/山ゆかば 草むす屍/大君の辺(へ)にこそ死な
め/ かえりみはせじ
 
 電力会社から、研究費という名目であれ他の名目であれ資金を援助してもらった 
り、地位が保証されたり、あるいは家持のように出世コースに乗せられたり・・・そ
うすれば、忠誠心(へつらい)が生まれてくるのも自然の成りゆきだろう。       
 電力会社はもう神様みたいなものである。どうして逆らえようか。大仏造営は人民
を搾取し酷使して造ったという影の部分があったにせよ、いちおう、仏様を造ったの
である。原子力村の「神学の侍女」たちは、自然全体、野や山や、人や動植物、一匹
の虫に至るまでを破壊する暴挙に力を貸したことになる。仏様は一匹の虫にも憐れみ
もてと教えてくれたのに、なんと大きな違い。しかも原子力村の人々は「大仏」なら
ぬ「もんじゅ(文殊)」をつくった。恐ろしいあの高速増殖炉「もんじゅ」のことで
ある。厚かましいこと甚だしい。この「もんじゅ」は故障続きでまだ運転ができな 
い。それでも毎年厖大なお布施を飲み込んでいる。そして、一歩間違えば「文殊」が
たちまち「閻魔」に変身するだろう。「メルトダウン」は他ならぬ「地獄の釜の底」
を見ることだ。

 先の、総理になってほしい人物一位のK氏は原発大賛成で、「安全神話」の推進を
先頭になってやってきたという。この「総理になってほしいと思う著名人TOP10」
にはK氏以外に、現職知事2人、前知事1人が含まれている。この3人を入れて10
人のほとんどが原発賛成か反対を明言しない人であると佐高氏は説明している。私に
はよくは分からないのだが、ちらちら聞くところによると、超有名人、マスコミの寵
児に原発賛成派、運転再開派が割合多いようである。だいたい、マスコミが原発賛成
・促進の立場で記事をつくってきた。3・11以後、少し態度を変え、7か月経った
いま、少し反省らしき文章も載せるようになった。マスコミも原子力村の一員だった
のではないか。そのことは、他の国家権力機構に組み込まれてきた多様な分野におい
ても同列である。

 ここまで書いたところで河村湊氏の文にぶつかった(「毎日」10月19日、「戦後日本
の青春期16」)。「東大教授たちの権威主義や保身、その場しのぎの巧言令色や欺瞞
や恫喝や卑怯さに、私たちは『大学教授』『学者』『研究者』なるものの正体を見た
のだ。原子力村の学者たちが、いかに罪深い研究をプロパガンダを行っていたかが明
らかになった」。すごく直接的な文章である。私など「神学の侍女」などと間接的で
生ぬるい文を書いているというのに。
 そこでちょっと思い出したことがある。終戦直後の頃、一時、東大法学部出が日本
を滅ぼしたという説が生じ、相当流行した。東大法学部出の秀才が日本の政官財界の
中枢を握って間違った戦争と敗戦に導いたということ。かなり説得力があった。
 だが、原子力を神にまで祀り上げたのは、本来はもっと大きな力だったのだろう。
よくは分からないがアイゼンハワー元大統領だとか、中曽根元首相とか、正力松太郎
とかいうもっと上の人。この人たちが神をつくり、東大や東工大の先生は神学をつく
ったり、あるいはその神学侍女を演じたり。その過程で「安全神話」がつくられた。
「大仏」ではなく「もんじゅ」がつくられた。
 いま多くの国民がその神話の呪縛から逃れようとしている。しかし、政財界の首脳
は原発を断念していない。日本を支配する2大政党も、政府も、恐らく最高裁も、関
連地方自治体の長の多くも。財界の総本山も。労働組合最大の全国組織でさえも曖 
昧、つまりどうなるか分からない。政府高官は、日本は議会制民主主義の国だから、
議会の決定に従えという。国民投票やデモで国政を動かそうとするのははもってのほ
かなのだ。確かに日本国憲法では、国政のあり方として「権力は国民の代表者がこれ
を行使」すると定めてある。国民は行使される側ということか?

 被災地の人たちの姿を見たり聞いたりするたびに思う。
 「すべての史書に見られるように、庶民にとってただひとつ重要なのは、家族とと
もに楽しく慎しく生活していけるだけのものを、最低限所有することである。そうで
あっていけない理由がどこにあろう? それ以外の何に関心を向けることができるだ
ろう? 重要な決定はほとんどいつも、見えない所で行われてきたのだから。支配者
や国家元首や政党は、いつの時代にも市民を国政に参加させると言葉では約束してお
きながら、それを実行しようとは夢にだも思わない」(リコッティ『古代ローマの饗
宴』武谷訳)。