静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

風のプリニウス(4)奢侈禁止令

2011-10-30 15:57:31 | 日記

(一)                                                                 
 フランスの古代ローマ史の泰斗ピエール・グリマールの『古代ローマの日
常生活』(北野徹訳)で描かれている共同浴場で楽しむローマ市民の姿を要約してみ
よう。

 ・・・確かに、ローマ市に住む大多数のローマ人は暇であった。暇を充分持ちあわ
せているのは、貴族、元老院議員、騎士身分の者だけでなく・・・皇帝から小麦・油
・ワインが支給されている市民全員である・・・浴場に長居する習慣が生まれた。共
同浴場は平民の別荘(ウィラ)である。朝の伺候が終わり食糧の購入やいくつかの仕
事を処理してしまうと、そのあと、なにもすることのない長い午後が待ち受けていた
。昼寝のあと共同浴場へ出かける。女性専用の浴場もあった。ない場合は女性専用の
時間帯があった。
 更衣室で服を脱ぐ。まずぬるま湯の温浴室、そして乾式サウナ室へ、汗に覆われる
と冷水室へ、次は熱湯の浴槽に、そこで垢擦りべらで全身を擦ってもらう。最後に冷
水プールで体を引き締めて終わる。浴槽が広いと少し泳ぐ。また、マッサージ師の世
話になる。
 時間があれば何人かの仲間と入浴し、とめどもなくおしゃべりをする。あるいは寝
そべって日光浴をしたりボール遊びをする。庭園の小徑で散歩する。ソーセージやケ
ーキの売り子、居酒屋のボーイたちが独自の調子で客を呼び込む・・・。

 ティトゥスの大共同浴場、トラヤヌス共同浴場、ディオクレティアヌス共同浴場、
ネロの共同浴場などが有名だが、カラカラ帝の浴場跡は今もなおその面影をいくらか
残している。とてつもなく巨大な浴場だ、信じられないくらい。まるで城塞の跡み
たいだ。それ以外に私人の経営による浴場もあった。これらの浴場はたんなる衛生施
設ではなく、娯楽場であり社交場だった。ローマ市民にとってこれは奢侈でも何でも
なかった。プリニウスも奢侈だとは言っていない。ローマ市民の日常生活の一部にな
ってしまっている。皇帝もしばしば入浴にやってきた。小説では、浴場のネロ帝をみ
て、市民たちがそのあまり美形でないネロの体型を笑っているという描写があるが(
モンテイエ『ネロポリス』)、皇帝が共同浴場に現れること自体は何らニュースで
もなんでもない、日常的なことだった。 こういう話は、書物やテレビやいろいろな
情報源で日本人には馴染みの話ではあるが、何度読んでみても、2000年前にこう
いう世界が展開していたことが信じられないくらいである。筆者も一度くらいはこの
ような浴場に入ってみたかった。戦後、日本のあちこちに「○○ヘルスセンター」と
か称するものができ、中には、「ローマ風呂」とうたって人気を博し、貸し切りバス
で団体客を呼び込んだりしたところもあったが、ローマにはおよそ程遠い。そもそも
ローマには貸し切りバスなどない。

(二)
 プリニウスは少なくともローマにいるときには、共同浴場に行かなかっただろう。
自宅の浴場で間に合わせた。彼の甥の小プリニウスの証言によれば、プリニウスの入
浴というのは実際に湯に浸かっているときのことを意味し、体をこすったり乾かした
りしてもらったりするときには、本を読ませたり書き取りをさせたりしていた。騒音
に包まれた共同浴場ではそれはできない。
 彼の食事はどうか、これも小プリニウスによる。「食事は、古いしきたりによって
軽く簡単なものでした」「彼は普通は冷たい風呂に入り、何かを食べ、短い睡眠を
とりました」「夕食のあいだ中、本を読ませ、手早く覚え書きをつくっていました」
 「古いしきたりによって、軽く簡単なもの」がどういうものか書いてないが、おそ
らくプリニウスが日頃尊敬していたカトー(前234-149)の食事に似たものだったと思
われる。カトーの食事は穀物スープ、豆類、野菜、果物などに若干の肉類や魚が加わ
る程度だったらしい。そもそもローマ人は根っからの農業民で、国王も将軍も自ら耕
していた。自由民はそれぞれ菜園をもち野菜を自給し、余ったものは市場に出して家
計の足しにした。しかし、プリニウスの頃にはすっかり様相が変わっていた。飲み水
にも、食べる野菜にも階級の差別ができたと彼は嘆いている。

(三)
 一世紀の頃、つまりプリニウスの頃の一般市民の普通の生活習慣によると、共同浴
場から帰ると夕食が待っていた。ローマ市民は、自宅に友人を招くか招かれるか、い
ずれにしても友人などと共にするのが普通だった。富裕者たちは豪華に、庶民はつつ
ましく。カトーのような質実剛健な典型的ローマ人でもその生活習慣は守っていたよ
うである。
 ローマの饗宴生活については数々の人が書き残している。誇張も多いのでそのまま
信ずるのは危険だが、信じられないほど豪華な食卓から至極慎しい食卓まで多様であ
る。それらはわが国でも詳しく紹介されている。
 中でも有名なのは、ネロの時代のペトロニウスの作品とされる小説『サチュリコン
』の「トリマルキオの饗宴の場」だろう。ローマの桁外れに贅沢な晩餐の描写では右
に出るものはない。ペトロニウスはプリニウスの少し前の人であり有名人だったが、
プリニウスは何も書いてない。
 プリニウスの少し後の風刺詩人マルティアリス、もちろんプリニウスは触れていて
ないが、参考にはなる。マルティリアスの、友人への招待文である。
 まず近所の浴場で入浴を済ませ、食卓についたらまず前菜としてレタス、リーク、
ゆで卵、ヘンルーダを添えたマグロ、チーズ、味つけしたオリーヴの実などを出そう
と書いてある。きわめてありふれた内容である。卵はローマの食事では定番。問題は
その後。君に来て貰うために嘘をつこうと言って、メインデッシュに豪華なメニュー
を並べ立てる。実際にそれらが出たかどうかは不明。だがその友人にとっての最大の
魅力は、マルティリアスが、私は何も朗読しない、だが君は気のすむまで自作品を読
んで聞かせてくれたまえと約束したことだった。
 宴会の席で、自作を著名人に聞いてもらうことは、文人にとっていかなるご馳走よ
り魅力的なことだった。ローマには各地から文筆で名を上げようとする人々が雲霞の
ように集まっていたに相違ない。マルティアリス自身がヒスパニアから青雲の志を抱
いてやって来た一人であった。彼は運よく皇帝の寵児となって、著書も売れ、農園も
ある家屋敷を構えることができる身分になった。そのマルティアリスに自作の朗読を
聞いてもらえるのはなんと幸運なことか。
 トリマルキオの饗宴は馬鹿げた乱痴気騒ぎだったが、このマルティアリスの食卓は
静かな落ち着いた宴だったのだろう。
 プリニウスの場合は先にも書いたように「夕食のあいだ中、本を読ませ、手早く覚
え書きをつくっていました」というものだった。本を読ませるとき、同席者もいるこ
とがあった。その友人の一人が、朗読者に、間違って発音したところまで戻ってもう
一度読むようにと言ったとき、プリニウスはその友人に「わからなかったのか」と聞
き、友人が分かっていたと答えたら、「それならなぜ、もとへ戻らせるのだ。君が邪
魔をして、少なくとも10行は損をした」と言ったという。これも小プリニウスが伝
える話である。
 そんな調子で食事をしていたら、料理が何で、いま何を食べているのかさえ気づか
ないのではないか。プリニウスは『博物誌』に食卓の模様を書いていない。日常的な
ことを、普通人が書かないようなことまで記録したが、食卓のメニューや宴会の情景
などは書いていない。
 プリニウスが敬意を表していたキケロは、ある友人に、来る日も来る日も、読書か
著作に没頭し、その後は、友人たちを少しは喜ばせる目的で彼らと食事をする。奢侈
禁止令を守っているのはもちろんのこと、たいていはずっと少ない出費で済ましてい
ると書き送っている。プリニウスと違って、食事中も没頭したとは書いていないが、
ローマの高官でも奢侈禁止令を守ろうとする姿勢があったことを教えてくれる。い 
や、高官だからこそ、かもしれない。トルマキオは成金の解放奴隷であり、その宴会
に招かれた客もほとんど成金の解放奴隷だったらしい。世の中は大きな変革を迎えよ
うとしていた。

(四)
 施政者の人民に対する奢侈禁止令や法は、古今東西を問わず随分昔からあった。日
本では1940(昭和15)年、東京市内に「贅沢は敵だ」の立て看板が立てられ、
婦人団体などが贅沢品全廃を訴え、「欲しがりません、勝つまでは」というスローガ
ンとともに全国に広がり、奢侈禁止令が出た。だがそれは、政財官界の支配層・高級
軍人などには関係ないことだったということはみんな知っている。
 古代ローマでも何回も禁止令が出されている。たとえば前366年頃のリキニウス
法は土地所有の制限を定めたことで知られているが、また、一回の宴会での経費の上
限を定めたという。
 プリニウスは、180年以上も前、クラウディウスが監察官であったとき、ヤマネ
やその他の、言うも愚かなくらい無意味でつまらぬ物を食膳に上すことを禁止した法
律をつくったと書いている。ヤマネというのはネズミに似た小動物である。これを特
殊な飼育室で丹念に育てる。以前、その当時は大変な馳走だったが、プリニウスの頃
には全く見向きもされなかった。プリニウスはこんな無意味な法律がまだ生きている
のに、大理石を輸入したりそれを求めて海を渡ったりすくことを禁止する法律が通過
したためしがないと嘆いている。
 また彼は、第三次ポエニ戦争の11年前、つまり前161年、執政官のガイウス・
ファンニウスの出した法律について触れている。それによると、飼育されない(つま
り野生の)メンドリだけの料理ならいいけれど、それ以外のどんな鶏料理も供しては
いけないとされた。この条項はその後も更新され、ローマのすべての奢侈禁止立法を
通じて生き続けたという。なぜメンドリが禁止されたか。プリニウスによると、デロ
ス島の人たちが、メンドリを肥育し、そのメンドリをその肉汁で照り焼きにして貪り
喰うという有害な習慣を始めたからだという。なぜ有害なのか、どうして食品の内容
や調理法まで制約を加えなければならないのか、現代の日本人には理解できない。プ
リニウスもその理由までは書いてない。
 いくら食用動物とはいえ、自分の肉を自分の肉汁で焼くということが許せなかった
と解釈すべきか? ローマでは法律は道徳から直接出発したといわれる。
 だがどこの世界でもあることだが、この禁制にも抜け道が考え出された。例えば、
オンドリに牛乳に浸した餌を与えて、もっと旨い鶏料理をつくる方法であった。フォ
アグラを発明したのもローマ人である。

(五)
 ローマ人はよく小動物、特に鳥類や魚を食べたらしい。今日は鳥類を中心に。鳥の
なかでもエゾライチョウ、ウ(鵜)、ベニハシガラス、ラゴプス(ライチョウの一 
種)、ノスリなどは珍品とされた。悲劇役者のアエソポスは10万セステルティウス
もする皿に、一羽六千セステルティウスで買い入れた鳥を盛って食べた。その鳥は人
間の言葉を喋る鳥で、アエソポスにとっては一種の食人種の感じに耽りたいという欲
望以外になかったし、自分のあり余る財産を大事にする様子はさらさらなかったとプ
リニウスは批判している。彼に言わせれば、奢侈禁止法なんていうものもいい加減な
ものということだろう。
 美食家といわれるアピキウスをプリニウスは、すべての放蕩者のなかでいちばん食
いしん坊と評している。そのアピキウスは、ベニヅルの舌は特別旨いと言ったらしい
が、クュジャクの舌とは言っていない。『吾輩は猫である』で、迷亭君が苦沙弥先生
にクジャクの舌をご馳走するといってからかった話(ブログ「クジャクの舌」参照)
は、漱石がどこからネタを仕入れたかは知らないが、ローマ人の奢侈ぶりを皮肉った
ものとも読み取れる。このアピキウスについては悪評ばかり高い。セネかは、アキピ
ウスが食卓に何百万セステルティウスも注ぎ込み、わずかな宴会に一元首の収入と国
家の財政に等しいような金を使い、揚げ句の果てに借金で首が回らなくなったと悪口
をあびせた。 
 いま日本には奢侈禁止令や法はない。そんな法律を提案した政治家はたちまち葬ら
れるだろう。「贅沢は敵だ」ではなく「消費は美徳」というモラルがアメリカから入
ってきたのも、もう随分前のことだ。いまや「贅沢は味方」なのかもしれない。