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静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

プリニウスの章(2)

2017-04-19 20:57:53 | 日記

  プリニウスの章(2)

           ソーンダイク『魔術と実験科学の歴史』の抄訳

 

                  

占星術のテキストより古い呪文のテキスト

 だがしかし、現在における一般的な傾向は、占星術はセム系のカルディア人によって始められ、その後に発達したものとして関連付けて考えている。Lenormant は考える、書類や魔術においてトラニア人やシュメル人(アッカド人)はバビロニア文明に貢献した。しかし天文学と占星術はセム人の改良によると。Jastrow は、アッシリアの宗教とバビロニアの宗教の間にはほんの僅かの違いしかない、そして両方に星の理論は大きな部分を占める。しかしかれは、より古い占いのテキストはこの星の理論にあまり影響されていないことを認めている。L.W.King <イギリスのアッシリア学者>は言う。「魔術と占いはテキストの中で大きく膨らみ復活した。そしてこの場合、占星術的要素が根底にあることは示唆されていない」(1)

 (1)略

 

占星術以外の占い

 魔術文学が、三つの主要な部分に別れたのは、何時、何故だったのだろうか。星を神の如く見做し、予言には王のために特別に作られた占星術のテキストがある(1)。それからまた、将来を予言する他の方法、とりわけ肝臓による予言と関係のある文字板がある。しかし、夢占い、卜占、油と水の混合による占いはまた実際に行われていた(2)Fossey は、アッシリア人の間では、魔術は予言と実効的(手術の?)魔法と密接な関係があり、予言は「欠くことのできない魔術の補助である」と記している。予言師の見立てによる、魔術の多くの業績には、未来あるいは始まりについての知識の発展が含まれていた。あるいは、魔術の儀式に好都合な日や時間が選ばれた(3)

 (1)~(3)略

 

魔法や悪霊(悪魔)に対する呪文

 三番目に、呪文のコレクションがある。といっても、それは占い師によって用いられたものではない。それらは多分不正なもので、だから公的には用いられなかった。- ある呪文で、すぐ後で引用する魔術は悪魔と呼ばれ、それは「不純なもの」を使用するといわれた- しかしむしろそれは、悪魔の神秘性に対する防御的な処置だったろう。しかしこの片方の魔術は大きな領域へ独自に反映した。だから病気は普通悪魔のせいだと考えられていたので、それは祈祷によって追い払わねばならず、薬は単に魔術の一部に過ぎなかった。悪魔の精神はまた自然における騒動に責任がある、祈祷は自然の秩序を完全に転覆することから護ると考えられていた(2)。いろいろな祈祷は文字盤のシリーズの中でアレンジされてきた。Maklu あるいは燃焼、Ti'i あるいは頭痛、Asakki marsuti あるいは発熱、Labartu あるいは魔女、Nis kati あるいはraising of the hand に。とりわけ多くの儀式や医学の書物には魔術の実際が含まれている(3)。また賛美歌や宗教的叙事詩は、その魔術的使用を見ても、人々はすぐに祈祷のなかに分類したりはしないだろう。Fellnell は「神学的解釈の実践や魔術の起源ははっきりしない」(4)と示唆している。良い魂は魔術の使用によって現れ、悪魔払いは悪魔に対抗するのだ(5)。最後の手段として、人間の魔術が悪魔を阻止することに失敗するのと同様に良き魂が失敗したとき、エア神<メソポタミヤ神話での創造神> の援助が要請されるだろう。そして「魔術の秘密に取り憑かれた者は、その方法によって彼等は征服され撃退されるだろう」(6)

 (1)~(6)略

 

呪文の例

 呪文は、魔術の中に入り込んだ言葉の力としてよりも、それ自身他の要素を表わしている。そこで事例を挙げてみよう。

 汝偉大な神よ現れよ、私の不平を聞きたまえ

 私に正義を与えよ、私の今の状況を知りたまえ

 私は、私の魔術師の像を作るだろう

 私は貴方の前で謙虚になり、貴方に私の大義を捧げよう

 なぜなら彼等は悪を為したから汚いものを彼等は扱った

 彼女は死ぬだろう! 私は生きる!

 彼女の呪文、彼女の魔術、彼女の魔法は破滅する

 引き抜かれたbinu の木の小枝は私を清めるだろう。

 それは私を解放するだろう、私の口からの悪い臭気は風に散るだろう

 大地を覆うmashtakalハーブは私を清くしてくれる

 貴方の前で kankalハーブのように私を照らせ

 laude ハーブのように輝き純粋であれ

 女魔術師の魔力は悪である。

 彼女の言葉は彼女の口に戻ってくる、その舌は切られる

 彼女の魔術は夜の神が懲らしめる

 三人の夜の見張り人が彼女の悪の魔力を打ち破る

 彼女の口は蝋だ、彼女の舌は、蜜

 彼女が語った私の不幸の原因である言葉は蝋のように溶けるだろう

 彼女の魔術は蜂蜜のように傷つけられるだろう                               

 だから彼女の魔術の結び目は二つに切り裂かれ、彼女の業は滅びるだろう(1)

 (1)JastrowReligion of Babylon and Assyria, pp.283-4.

 

 魔術の材料と装置

 この呪文によって明らかなことは、魔術のイメージが作られ、そして結び目が使われたこと、そして木とハーブの道具も用いられた。魔術のイメージは小枝、蝋、脂その他の物から作られ、いろいろな方法で用いられた。このように、説明書は王の敵の獣脂の偶像を作る傾向にあり、その顔は個性を奪い演説と精神力を現わすために紐で縛られた(1)。偶像はまた病気の悪魔がそのなかに魔術的に乗り移ることができるように作られた(2)。そしてときどき偶像は殺害され埋められた(4)。祈祷の折りに魔術の結び目は女魔術師によってのみ用いられた。しかしFosseyは結び目はまた悪魔に対する反対呪文として使われたという(4)。祈祷の折りに、ハーブの名は翻訳されないままなので、アッシリアやバビロニアの薬剤術であるとは言えなかった。というのは、われわれの辞書には彼等の植物学的・鉱物学専門用語に欠けているから(5)。だがしかし、学者たちは通常明らかにそれを翻訳することができたし、怪奇な物は最もよく利用された。ワイン、油、塩、なつめやし、にんにく、唾液のようなものも用いられた。魔術の細い杖が使われたことは明らかである(6)。宝石、動物の部分はハーブと並んでよく用いられた。あらゆる種類の媚薬が調合された。あらゆる儀式や行事にそのような沐浴と燻蒸気が行なわれた。バビロニアのノアの箱舟の説明の中で、そのいろいろな部分において、魔術についての暗示を見ることができる。マストや船室の天井はヒマラヤ杉で出来ていて、魔法を打ち消すのである(7)

 (1)~(7)略

 

ギリシア文明も魔術から自由ではなかった

古代ギリシア・ローマの栄光を過度に浴びた中世の終りのイタリアルネッサンスあるいは人間主義運動と呼ばれるものがもたらした一つの結論は、古代ギリシアが他の時代や人間に較べて魔術から著しく自由であったという特異な概念である。素朴なローマ人へのそのような説明は言い過ぎである。そもそも全体としてローマ人の宗教は魔術よりは微弱で、公私の日常生活は迷信的戒律(習慣・儀式)と恐怖に取り囲まれていた。しかし彼等はまた、ギリシア文明の影響のもと、より輝かしい活動舞台をもった。だが中世になると東洋の影響のもと、東洋の帝国とともに逆戻りをした。ちなみに次の意見を付言する。過去の東洋はより迷信的で、文明の発展段階の西洋人よりも驚異的なものを好んだ。そこで東洋にはすべての迷信的神秘とロマンチックナ話が必要であり、それは口の達者な(行き当たりばったりの)作りごとであった。それを私は追求しようとは思わないが、われわれの後の研究(調査)がそれを実証した。だが、ギリシアには魔術の問題はないとする傾向について戻ろう。後代の改竄もしくは完全な偽の論文であり、テキスト批判にはくり返し否定されてきた文言を持つといわれているように、それらは令名高い古代著者にとってあまりにも迷信的に見えた。古代の占星術、祈祷の専門家である現在の学者でさえも、この怪しげな一般化に執着している。そして断言する「清いギリシアの民族は、常に魔術の神秘な見せ物から立ち戻ってくる」()。しかし私は16年ほど前から「医療の幻想化は『暗い時代』と同様『ギリシアの明るい光』に負っている」と私は言ってきた(2)

 (1)(2)略

 

神話・文学・歴史における魔術

 ヘレニズムの宗教、文学、歴史における魔術出現の明らかな証拠を尋ねることは難しくない。一つは、ギリシア神話の多くの驚異的な変身の思想その他の数えきれない不合理性を考えること。魔女キルケ、メデア、オデュセイの妖術、イリアッドにおけるアポロンの司祭魔術師、彼は望めば疫病を止めることができた。ヘシオドスの幸運の日・不運の日や、他の農業の魔術(1)。このようにしてスパルタ人は教育方法の設立者と呼ばれ、多くのギリシア哲学者から賞賛された。その多くは原始的部族の生活における儀式やタブーの持続であった。またわれわれはヘロドトスと彼の幼稚な大喜びを思い出す。あいまいな神託やジェーラ<イタリア南岸の町>からの脱退者、片手のテリネスによってもたらされた話、「それはある奇跡を生むと思われた大地の下の力の神秘な見えるシンボル」であった(2)。クセノフォンの犠牲、占い、くしゃみ、夢についての固苦しい記録をも一度見てみよう。ニキアスはスパルタを怖れたように天体の食を恐れた。また、エウリピデスやプラトンのような進んだ著者でさえ、事実上呪文、媚薬、祈祷について述べている。古代ギリシアの喜劇において魔術は、アリストファネスのGictesアレクシスのMandragorizomene,アナクドリデスのPharmacomantis、アナクシラスのCirce、メナンドロスのThettaleに再現されている(3)。われわれがこのような証拠の意味を率直に評価するとき、ギリシアは他の国民や時代よりも魔術に傾斜していなかったとは言えないことを示した。従って我々は、古代ギリシアの文明に魔術が存在したという根拠のために、テオクリトスやギリシアのロマンス、魔術のパピルスを待つ必要はない(4)

 (1)~(4)略

 

学問の進歩とオカルト科学の同時性

 もし占星術や他の神秘主義科学がギリシア時代までに発展した形態で現れなかったら、それ以前の時代はそんなに発展せず、その研究は遅れただろう。そして、オスタネスがペルシア戦争の頃ギリシア世界へ導入したと言われる魔術は、彼等の粗野(下品)で古くさいGoetiaの儀式(習慣)の改良以上に改革されたものではない(1)。 

 (1)略

 

 魔術の起源がギリシアの宗教や劇に刺激を与えた

 ギリシア文化の出発時点から存在したこの魔術の要素は、いま人類学者によって研究が進められている。古典の宗教だけでなく初期の宗教も。Miss Jane E.Harrison  Themis, study of the social origins of Greek religion<テミスはギリシア神話上の女神>で、多くの神話や祝祭を魔術に基づいて説明し、それだけでなくオリンピアの競技とギリシア劇についても論じた(1)。最後の問題は、F.M.Cornford rigin of Attic Comedy でさらに展開された。そこではアリストファネスの喜劇のなかで変装していることを見破っている(2)。またMr.A.B.Cook は、ゼウスに魔術師を見る。ゼウスは愛人を追いかけるために変身する。そして「天空の天候王の真の原型は地上のもの」であるとして魔術師あるいは降雨師と争う。ホメロスの詩の中にある、ホメロス以前のゼウスの「ぴったりのあだ名」は「単に魔術師を暗示するだけ」であり、ゼウス・リュカノスの崇拝(祭礼)は狼人間の信頼(信仰)と結びついている(3)。最近の発表でレンデルハリス<聖書学者>(4)は、ギリシアの神の起源にキツツキとヤドリギを結びつけ、アポロンの祭儀をネズミとヘビの薬効と関係づけた。そして一方、初期のギリシア宗教と動物や薬草といった魔術の道具の文化の重要性を強調した。これらの著者は多分彼等の主張を大げさに表わしたのだろう。しかし少なくとも彼らの仕事は、古代にたいする知的心酔という古い姿勢に対する反動として役立った。彼等の見解はMr. Farnell のそれに相殺されるだろう。彼はこう述べている。「だから、初期のバビロニアの魔術の知識は始まりだと考え得る。我々はこの分野で、ギリシア人やその周辺の人々、われわれが扱う早い時代の人々の明確な考えを何等述べることは出来ない」。そしてまた「しかしバビロニアの魔術が自身で声高に偉大な宗教的文学と高度な寺院儀式を宣言するのだから、ギリシアの魔術はわずかに古いギリシアの文学を挙げるだけであり、聖歌に地位を占めることもなく、高度の儀式に隠れているのを発見するのがやっとである。再言すると、バビロニアの魔術は基本的に悪魔的である。しかし我々には、ホメロス以前のギリシアが悪魔に支配されたという証拠がない、また悪魔学と悪魔払いは彼の意識と実行のなかにおいて主要な要素ではない。だが MrFarnell は次のように認める。「初期のギリシアは、後期のギリシアと同じく神の魔術という名の効能は全く微妙である」()。悪魔の存在を信ずる前 に名前の力を信ずるのは、古代の魔術の最も可能性のある証拠である。そこで、次のことが指摘できる。その著者はいかなる精神的あるいは悪魔的助言もなしに彼自身の言葉の作用を信頼する。

 (1)~(5)略

                                                                 

ギリシア哲学での魔術 

 さらに、ある意味でギリシアの魔術の擁護者は十分成功していない。彼等はアリストファネスの喜劇の後ろに魔術があると嘘をつく。いかに彼等が争おうと、それはかれらと同時代のものである(1)。彼等は、古典ギリシアの宗教の起源は魔術であると考える。そこで、ギリシア哲学は決して魔術から自由ではないという風に議論する。ツェラー<ドイツの哲学者> は言う「エンペドクレス自身が魔術の力を持つと信じていたと、自分の著書で証明していた」。かれ自身「宣言した。老齢と病気を癒す力をもっているし、風をおこしたり静めたり、雨を呼び出したり干しあげたり、死者を生き返らせたりできる」と(2)。もしホメロス以前のゼウスのあだ名に、ある魔術の匂いがするなら、プラトンの『テマイオス』は同様に神秘科学と占星術を暗示する。そしてもしわれわれが天候を左右する魔術師をフィディアスのオリュンピアのゼウスに見るならば、『ティマエオス』の奇行(気まぐれ)を、詩的イマジネーションの飛翔として釈明したり、『動物誌』のテキストを削って不完全にすることによってアリストテレスを現代の科学者に仕立てあげることを試みたりすることは出来ない。

 (1)(2)略

 

魔術と占星術に対するプラトンの意見

 『法律』のなかで、魔術に対するプラトンの意見とされるものには用心が必要である。彼は、医師、予言者、占者だけが毒(あるいは呪文)の性質を理解していると主張する。それらは自然に作用する。それは祈祷、魔術の結び目、蝋の像のようなものである。それ以外の人たちはそのような物について確かな知識は持っていない。彼等が怖れないのは当然で、むしろそれを軽蔑する(忌み嫌う)。それにもかかわらず彼は、魔法に対する法律制定の必要はないと多くの人に確信させようとするのは無用だという。だがもし東方のマギから教義を借用しなかったら、彼自身の自然についての見解は浸透したように思える。少なくとも現代の科学よりは魔術と同類の概念であり、占星術に近い教義であった。彼は物質的なものを人間化し、物質的な性質と精神的な性質を混同した。彼はまた、魔術についての自然的あるいは理性的説明をすることを試みた(彼が好んだ著者については後で触れる)。たとえばこのように説明する。地面の上での肝臓占いでは、肝臓は一種の鏡で、それで精神を探め、それに魂のイメージが反映される。そしてそれは死で終る(2)。彼は要素(元素・原理)間の調和的な愛を健康の源であり生物、獣、人間の多様性の原因として、そして彼等の「気まぐれな愛」を疫病と病気の原因として語る。両方の違った愛を理解するには「天文学と呼ばれる天体の回転と一年の季節の関係」(3)あるいは、我々が言っている占星術、その基本的法則は星の行動における下位の星のコントロールであるがそれを理解しなければならない。プラトンは星について語る。「神と永遠の動物は永遠である」(4)と。このような表現は中世において繰り返し聞かれた。彼は「低位の神」を天体と強く同一視する。そこから、人間も、良い生を送ったなら、死後それぞれが自分の定められた星に幸福な場所を占めるだろう(5)。この論理は出生と星占いと同一視せず、それは星の重要性を高め人間生活への制御を示唆する。またプラトンは国家』の最後で、七つの惑星のハーモニーや音楽と八つの恒星について語っている。そして「はずみ車の軸棒がすべてを回転させている。一度人間の魂がこの生に入ると、今後その運命は星の軌道に従うことになる、と語っている。さらに彼は『ティマエオス』で言う。「すべての八つの惑星が互いに運行を成し遂げ、同時に彼等の役割を果たしたならば・・・完全な時間、完全な年を探す困難性はない」(6)。彼はmagnus annus の占星術の教義で、天体がそのもともとの位置に戻るなら、すべての細部にわたって歴史は戻り始めるだろうと言っているように見える。

 (1)『法律』、 (2)『ティマエオス』、 (3)『饗宴』、 (4)~(6)『ティマエオス』

 

星と精神におけるアリストテレス

 アリストテレスにとって星は「超人的知性、具体化した神である。彼等はより純粋な形で現れる。より神に似ている。そしてそこから目的ある理性的影響が、地球の低位の生命に影響を与えているように見える。そういう考えが医薬の占星術になったと思われる」(1)。さらに「惑星圏の下位の神の彼の理論は・・・後の悪霊学のために提供された」(2)

 (注1)Windelband, History of Phikosophy.

 (注2)同上

 

『動物誌』における民間伝承

 それはさておき、人相学の断片とピュタゴラスの迷信あるいは神秘主義から影響を受けたアリストテレスの『動物誌』には、動物の生命における星の影響、動物の薬物使用、彼等の友情と敵意、そしてそれ以外の民間伝承や偽科学を多く含んでいる(1)。しかしその一番古い写本でも一二世紀か一三世紀のものだけで、しかも一〇巻を欠いている。テキストの編集がまた七巻と九巻、八巻の終りの部分に欠陥がある。そしてまた他の文節でもいろいろ問題がある。しかし、これらの箇所の削除は、ギリシア科学や哲学一般に較べてアリストテレスの面子を救っている。優れた七巻はヒッポクラテスから、九巻はテオフラストスから多量に引用されている(2)

 (1)(2)略

  

古代の東洋とギリシア文学における伝承の形態の違い

 ギリシアの魔術のほかに、エジプト、バビロニア、アッシリアの魔術との比較を心に止めておかなければならない。我々は古代オリエント文明における魔術の広い分野を説明した。それは初期の場合を除いて、仲介的な干渉や変更なしに直接もたらされ

た。しかし古代文学や哲学はアレキサンドリアの図書館(1)によって編集されて我々に伝えられたり、キリスト教徒やビザンチン人によって修正されたり抜き書きされたり、中世の修道士やイタリアのヒューマニストによってコピーされ翻訳されたりした。そして問題は単に誰かが加筆したか?だけでなく、書き直したか? 取り除いたか?ということである。存在する祈祷文書の中に、好ましい文を挿入し、その部分はその代わりに、異教徒か偶像崇拝的な迷信であるとして除くという後世の改竄が行なわれた。

 (1)略                                                               

   

 ギリシア遺跡に直接伝わったより魔術的性質

  古代ギリシアに・・・<印刷不明>書類に戻ろうと思う。グノーシス主義者の宝石と呼ばれるパピルスに書かれた鉛盤がある。それらは、間接的に伝えられた文学的遺稿のものと較べて、どんな割合で魔術が含まれているのだろうか?もし、魔術の書類が主として後世のものでエジプトで発見されたものであるなら、それは我々の持っている古代文学のどんな古い他の手写よりも古いものだろうし、そしてその主な書庫は

エジプトのアレクサンドリアだろう。鉛盤(2)に書かれた魔術の呪いは前四世紀から後六世紀にわたる。そして一四はアテネから、一六はクニドスから、それに対しアレキサンドリアからは一つ、カルタゴからは一一である。しかしながら、いくつかは極度に無学な人、その他は上位の人物あるいは教養のある人物によって書かれている。だが何と多量のギリシア語による占星術の写本が、ヨーロッパの図書館でCatalogus Codicum Graccorum Astrologorum(3) によって、発見されたことだろう!そしてしばしば考古学者は魔術的装具(4)もしくは芸術作品の中の魔術の表現を発見する。

 (1)~(4)

 

 ギリシアにおける科学の進歩

 これらの論争で、ギリシア文化は魔術から自由ではなく、古代ギリシアの哲学や科学でさえも迷信の形跡を残していることが論議された。しかし私は、ギリシアに遺って現存している文学は我々にとってかなり重要なものであることは認める。それは組織的で理性的展望のうえでも、また自然観察に基づいて分類されている収集物にしもそうである。有史前の人々、エジプト人、バビロニア人の文明に関する近年における知識は急速に進歩している。哲学および科学における優位性は大きく揺らいでいる。そしてその後の業績が発見されたが、それは医薬の分野でヒポクラテスにより、生物学ではアリストテレスとテオフラステスにより、数学と物理学の部門ではエウクリデスとアルキメデスによるものである。間違いなく前記のような人々や著書はギリシア人の先輩であり、また多分ギリシア人はある低度古代オリエントの文明に負っている。しかし、前述のように、かれらは偉大で独創的な力量を発揮したと言えよう。過去の表面下に何が隠されていようと、それがどんな科学上の研究や知識のサインやヒントであろうと我々はそれを見つけ出し、行間を読むことができる。他の古代文明の科学の表面の下にその堅固な経験的・数学的科学が紛れもなく存在するからである。

 (1)略

 

アルキメデスとアリストテレス

 Heath <イギリスのギリシア数学史家>はいう。「アリストテレスの著作の主題は途方もなく大きい」「彼自身の新しい発見を完全に表現している。彼の主題の広さはほとんど百科全書的である。幾何(平面と立体)、算数、メカニック、静水学、天文学が含まれているが、彼には著書の編集者・筆記者はいない・・・彼の主題は常にある新しい事物、知識の総和へのある明確な追加があり、また彼の完全な独創性は、彼の作品の知性を読む人誰にでも失望させることはない。いかなる明瞭な証拠なしでも、それを反映した序文のなかに見つけることができる。・・・彼の主題の幾つかではアレキメデスは先行者ではない。たとえば彼は機械的論議のなかで、静水学において彼は全科学を発明した。(数学的デモンストレーションが考えられている限り)アリストテレスの『動物誌』は生物学の歴史家にとってもっと高く評価されている(2)。そしてしばしば「個人的観察の偉大な成果」と証言されている。「偉大な正確さ」と「精密な調査」、脈管係の解釈(3) やヒヨコの発生(4)の観察などについて。「多分すべての中で最も素晴らしいのは、魚について書いた書の一部、その多様性、構造、泳ぎ、餌などである。そこにはやっと最近になって再発見したのである。魚の構造は後になってようやく研究され習性は後にようやく知られるようになった」(5)。しかしギリシア哲学とギリシア科学の読者は一定の考え方はすでに受け入れていたに違いない。

 (1)~(6)略

 

ギリシア時代の科学的成果の過大視

 この短い序文を終えるにあたって我々独自の見解を述べよう。私は現在の傾向、特にドイツの学者の間に流行っている傾向は除外しよう。アリストテレスとギリシア時代へ集中するために、現在に至る迄の、ほとんど自然科学のすべての発展について述べよう。エジプト人とバビロニア人の貢献は一方では最小限に止める。同時に一方ではローマ帝国の著者- それはギリシア時代のそれよりもずっと豊富にあるからだが、それは偉大な著作者の拙劣な模倣であり現存しないと見做されてきた。たとえばポシドニオス、彼についてはドイツの著者の論文の傾向はすべてこのような論理であったし、その後もそうである。しかしそれに反し、科学的知識の漸進的で骨の折れる獲得の原理は、一つの時代、僅かの世紀がこのようにすべて発見するだろうということである。我々は、初期エジプト人の科学から中期の、そして新王国の崩壊までの黄金時代についての同じような意見について論争した。そしてエジプト人であれバビロニア人であれ、ギリシア以前に彼等は科学における大きな進歩を成し遂げていたのである。しかし、そのようには言われないで、彼等は何らの進歩も為していないという人もいる。Karpinski教授<ソ連の地質学者>教授は最近書いている。「現代の研究者の発見によると、バビロニア、エジプト、インドの科学と科学精神の発展における彼等の役割については、古代の証言が否定している。その結論は、エジプト、後期バビロニア、インド、アラブの科学がギリシアに栄光を与えたことはないとされている。どうしてバビロニア人がほんの少し後のギリシアやインドの黄金時代にギリシア天文学の発達をもたらすことができたのだろうか?これは、もし彼等が天文学の発展の段階に到達していたなら、正確に高く評価することが可能であり、それは吸収されただろう。・・・ギリシア天文学が直接インドの天文学的理論の影響を受けたことを承認するなら、密接な関係のあるこの科学はギリシアと同じレベルの何かを達成していたことを含意する。厳しい質問はなしにして、我々は仮定しよう。我々がギリシアのものと考えている時代に発達したバビロンとエジプト、インドの科学の基礎的部分は土着の科学であると」(1)。私はすでに述べたように、初期ローマ帝国の偉大な科学者は単にコピーではなく、ギリシアの先輩に明らかに劣っていると認めてもいない。アリスタルコスは太陽中心説(1)を持っていただろう。しかしプトレマイオスは有能な科学者に違いないが、彼 の間違った仮説は、古代人が採用した測量師の見解をより精確な測定と計算として支持した。そしてもしヘロフィロスが実際に血液の循環を立証したのならば、たいそう鋭い知性の持ち主であるガレノスは、かれの発見を傍に放り出しはしなかったであろう。そしてもし、プトレマイオスがヒッポクラテスをコピーしたなら、我々はヒッポクラテスは誰からコピーしたのだろうか?しかし権威者から権威者への絶え間のない伝達、そしてさらに個人的観察による経験や新しい問題の漸次的蓄積、そして一三世紀に引き続く思想と著書の我々の研究は、より精密な報告を提供するだろう。

 (1)略

                             (続く)      

                                                        

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


プリニウスの章(1)

2017-04-05 18:33:30 | 日記

    プリニウスの章(1)

 

           ソーンダイク『魔術と実験科学の歴史』の抄訳

 

  訳者序

 リン・ソーンダイクの『魔術と実験科学の歴史』  A  HISTORY  OF  MAGIC  AND  EXPERIMENTAL  SCIENCE    DURING  THE  FIRST  THIRTEEN CENTURIES  OF  OUR  ERA.                       

 は全八巻からなるが、うち五巻までが1923年に、残り三巻は58年に追加発行された。長い「序章=第一章)」があって「第一巻ローマ帝国」「第二巻 初期キリスト教の思想」「第三巻 中世初期」「第四巻 一二世紀」「第五巻 一三世」と続く。このうち「序章」つまり第一章の初めの部分と、「第二章 プリニウスの博物誌」(この章は「プリニウスの章」といわれてしばしば単独で読まれている)を訳出することにした。

自家用として訳出したので杜撰なものになった。判らない所はそのままにした。多くの原注があるが、その大方は参考文献であり、ほとんどを削除した。(  )は原注、<  >は訳注である。多くの訳注は原注への注なので、まとめて< >に入れた。『博物誌』からの引用箇所は漢数字が巻数、算用数字が節数である。例えば(三三55)とあれば第33巻第55節である。著者のリン・ソーンダイク(18821965)はアメリカの科学史家で、コロンビア大学教授、アメリカ科学史学会会長などを歴任した。

 

 

    序章=第一章

 

 この章の内容・・・ 扱う時代― 思想史の学び方― 魔術の定義- 原始人の魔術;魔術に起源をおく文明はあるのか?― 初期中国の占い(削除)― 古代エジプトの魔術― 魔術とエジプト宗教― 埋葬の魔術― 日常の魔術― 言語・象徴・お守り魔除け)の力- エジプトの医術における魔術- 悪霊(悪魔)と病気- 魔術と科学― 魔術と産業― 錬金術― 占い(予言)と占星術― アッシリアとバビロニアの魔術の起源- 占星術はシュメル人のものカルデリア人のものか?- 初期のバビロニアのナンバー・セブン(?)― 占星術のテキストより古い呪文のテキスト

― 占星術以外の占い― 魔法sorcery や悪霊(悪魔)に対する呪文― 呪文の例 

― 魔術の材料と装置― ギリシア文明は魔術から自由ではない― 神話・文学・歴

史における魔術― 学問の進歩とオカルト科学の同時性― 魔術の起源はギリシア

宗教や劇を切望した― ギリシア哲学での魔術― 魔術と占星術に対するプラトンの

姿勢― 星と精神におけるアリストテレス― 『動物誌』における伝承― 古代の

東洋とギリシア文学における伝承の違い― ギリシア遺跡に直接伝わったより魔術的

性質― ギリシアにおける科学の進歩― アルキメデスとアリストテレス― ギリシ

ア時代の科学的成果の過大視。

 

 

 

 「魔術はすべての人間とすべての時代に存在した」ヘーゲル(『宗教哲学講義』

 

この書の目的

 この書の目的は、魔術と実験的科学の歴史、そして13世紀までのキリスト教の思

想、とくに12・13世紀の特殊な重要性をとりあげることである。この時代の魔術

や実験的科学の歴史についての概観は、十分ではないが存在する。だが、中世の研究

には、かなりの写本の使用が必要である。ここでは魔術は広い意味で取り上げる、すなわち、すべてのオカルト芸術、科学、迷信、伝説である。私は、これから利用する出典からの言語を正当化することに努力するだろう。私は魔術と実験科学はその発展において関連があると考える。魔術師は多分最初の実験者だろう。そして魔術と実験科学両者の歴史はそれらを一緒に調べるのが良策だ。それについては、ほとんどの中世のラテン学者の研究は一般に不正確であり、多分われわれの調査研究が必要になるだろう。魔術の大衆的実用主義、魔法・呪術の欺瞞と迫害はこの本の視野に入れない

 

扱う時代

 私の研究計画は中世の生産性の高い偉大な12・13世紀に限定される。しかし、

私はこの時代が、ギリシア、ラテン、初期のキリスト教の著者たちに大きく負ってい

ると確信している。もしビザンツ帝国の研究者ならば、古代ローマを知らなければならない。中世の教会の研究者であれば初期のキリスト教を知らなければならず、ロマンス語の学徒はラテン語を理解していなければならない。さらにまたプリニウス、ガレノス、プトレマイオス、オルゲネス、アウグスティヌス、アル・キンディ<9世紀後半のアラビアの哲学者、アブ・マシャル<9世紀のアラビアの天文学者>らに精通しているコンスタンティヌス・アフリカヌス<イタリアの修道士、ギリシァなどの医学書をラテン語に訳した>、ボヴェのヴァンサン<フランスの学者、百科全書を編纂>、グイド・ボナッティ<13世紀の占星術師>、そしてトマス・アクイナスをなどを読まなくてはいけない。だがそれらの間に何らかの線引きをするのは実際困難なことである。古代の著作物は通常中世の枠組みの中でしか存在しない。若干の場合、変更や追加されたと推測される理由がある。しばしば新しい作品が結びつけられる。多くの場合それらは中世において学ばれ大切にされたので、われわれに残された。そしてそれら自体が大きな広がりを持つようになった。私は紀元1世紀から始めよう。なぜなら、キリスト教の思想がそこから始まり、そしてプリニウスの『博物誌』が著わされたから。この書は古代の科学と魔術の概観には最良の出発点になるからである(1)。私は13世紀で閉じる。もっとはっきり言えば、14世紀のうちに。なぜなら、そこで中世の研究の復活はその力を使いつくしてしまったからである。西方ラテンの文学における魔術と経験科学に関心は集中するが、ギリシアとアラビアの作品はそれらに貢献したと思う。そして、その土地の言葉による文学は、ラテンの作品から引用されたものや無学で非科学的なものと同じく除外する。

 (1)何人かの私の科学の友人は、プリニウスよりもより有能な科学者としてアリストテレスから始めることを主張する。しかしこれは時代をより遡ることになるし、また私はアリストテレスの per se(自分で)が本物の科学の処理とは同じだとは感じないから。だが、この書では時々彼の中世における影響について触れるし、ことに偽アリストテレスについて述べようと思う。                                                                        

 

 思想史の学び方

 私は多分より広い分野を扱い、そして重要な欠落を埋めようと思う。政治や経済の

歴史に較べ、思想の歴史や芸術の歴史には、本原的な情報源に多くの空白があること

は恐らく事実だろう。しかし、真実や美の追求は、富や力の追求のようなごまかしや偏見・先入観の介入が少ないので幸いであり、より信頼がおける。また思想の歴史は、動揺性や変化の多い政治史に較べ、統一的で首尾一貫し、よりしっかりいており、系統的である。そして、そのため、限られた資料にもかかわらず、その研究は合理的な確実性を得ることができ、一般的な概観が可能である。さらに私にはこう思える。われわれの主題を完結させるには、個人による、あるいは短期間の徹底的な研究よりも、詳細で強力な新人の幅広い総体的な研究によって可能だろう。危険性は、あまりにも狭い視点から描くこと、過度に誇張されたある一人の人物や学説に依存しないこと、全歴史的事実を歪めたりしないこと。中世の著述家は誰も科学や魔術を自分自身では理解できなかった。しかし彼に先行する人たちへの尊敬心は持っていた。

 

魔術の定義

 ある人々は、私が魔術を思想の歴史と結びつけることに違和感を覚えるだろう。し

かしこの世界はMagi (マギ)あるいはペルシアかバビロニアの賢人に由来する。この話や実際の名前は、ギリシア人やローマ人によって与えられた。もしくは、多分その少し前のシュメル人(Sumerian あるいはトゥラン語族<ウラルアルタイ語族>(Turanian の言葉で深いという意味の imga または ungaに由来するものと思われる。すでに見たようにmagic という言葉の正確な意味は古代でも中世でも正しくは解らない。だが疑いもなく、それはたんに機能的な技術ではなく、思想もしくは教義の集積されたものであり、世界を理解する手段として出現したものである。魔術に対するこういう視点は歴史のなかで失われたし、現代の定義では魔術をたんなる儀式や芸当と見做すことを決め込んでいる。原始人や野蛮人の場合は、小さな思想が彼等の行動と結合していた。しかし彼等の行為はいくらかの想像、目的、理論的思考を基礎にしているとしても、まだ宗教、科学、魔術として確立することができなかった。ビーバーはダムを作り、鳥が巣を作る。アリは穴を掘る。しかし彼らは、科学や宗教を持たないのと同様に魔術を持たない。魔術は精神的な状態を意味する、従って思想の歴史の視点からみることが出来る。時間の経過や教育の普及に伴い魔術の信頼は失われて行く。それは無知で野蛮な低級な行為であり信条であると見做されてきた。この言葉は人類学によってとり上げられ、原始人や野蛮人の概念と同類に加えられた。しかしわれわれは魔術を種族社会での純粋な社会的産物であると考える。ジェイムズ・フレイザーの著作では、魔術師は低度の野蛮人においては「唯一の専門家であった」。しかし彼らは最初から学のある階級とされていた。ここでこの研究に占星術を含む占いの技術をつけ加えよう。それらは魔術として知られているので。私は二つの論理や事実を分けることは出来ない。私は個別のケースについて繰り返し述べよう()

 (1)同じような見解を持つ人がいることはうれしい。以下略。

 

原始人の魔術:魔術に起源をおく文明はあるのか

 魔術は非常に古い。それはこの序章で読者に伝えた。その起源については多くの論争があったが、先行する時代にすべての観察記録は喪失したと思われ、それは少なくともローマや中世よりも幾世紀も前のことである。フレイザー は『金枝篇』のなかで、「魔法はすべての野蛮な種族にあることは知られているし、最も低い野蛮人でも・・・かれらは唯一の専門家として存在している」(1)と述べた。ルノルマン<フランスの劇作家>は彼の『カルディア人の Magic(魔法)と Sorcery (魔術)』で「すべての魔術は宗教的信念の体系の上にある」と断言する。しかし今日の社会学者と人類学者は、魔術は神への信仰より古いものとみなす傾向にある。いずれにせよ、最も原初的な歴史的宗教の形をしたもののいくらかは、魔術に起源をもつように思える。更に古代においては、宗教的崇拝・儀式・司祭職は魔術に劣るだけでなくその発生もそれに恩義を受けていると宣言された。コンバリュー<フランスの音楽学者> は彼の『音楽(Music)と魔術(Magic)』(3)のなかで、呪文は原始的生活のすべての環境のなかに見られ、宗教的詩、すべての現代音楽の媒介になったと主張する。魔術の呪文は、つまり「文明史における最も古い事実である」。しかし魔術師は美的な形式の考えや芸術的鑑賞眼なしで歌う。だが彼の呪文には後の音楽芸術を作り出すすべてのものが戸棚に仕舞われている(4)。ポール・フェヴリン<フランスの法歴史家、古代ローマ史に詳しい> は、詩に(5)、造形芸術に(6)、医術に、数学に、占星術に、化学に「容易に魔術の起源を認められる」と主張する。また、彼は法律においてもそうだと宣言する(7)。だがごく最近、この原始人の生活が完全に魔術を作り上げ、すべての文明の面で魔術に起源を求める傾向に対し反論が生まれている。だがR.マレット<イギリスの人類学者>は、原始人の交戦や彼の仲間同士の残忍な粗暴な行動よりも、魔術に高い価値を見出している。そして「実験のより高い局面は、それ自体一つのmana(超自然力)であり、その精神的発達はそれ自体によって評価される」という(8)。                

(注1)~(注8)略。

 

古代エジプトの魔術

 古代のエジプトの人についてBudge は、「魔術の信仰は彼等の精神に影響を与えた・・・彼等の歴史の最初から終りまで・・・ある意味では、世界の歴史の舞台で・・・これを理解するのは大変困難である(1)」と書いている。普通の歴史学者にとってこの断言はエジプト学としてはそんなに完璧なものだとは思えない。それは四千年も昔のことであり、それは医薬についてのアラビアの話、あるいは後期ギリシアの偽カリステネスの作り話、あるいはキリスト教時代初期のエジプトパピルス紙に関する写本で

提示されたものなどによって、辛うじて科学的にみえるだけである。そしてウエストカー・パピルスに書かれた話、それは何世紀も後に書かれたものであるが、その幾世紀の後に書かれたものは、「第四王朝ではすでに魔術の作用はエジプト人の間では技術として認められていたことは十分証明できる」()だけである。

 (1)(2)・・・略。

 

魔術とエジプト宗教

 とにかく、魔術に対する信念は王朝以前、そして歴史以前であったのみならず、「

エジプトにおいては神への信仰よりも古い」(1)というべきだろう。エジプト人の後

期宗教において魔術は、より高尚で知的な考えであり、まだ第一等の要素であった(2)。彼等の神話はそれによって影響を受けた(3)。そして彼等は魔術の式文で悪魔と戦うだけでなく、彼等を恐れさせる事ができると信じた。そして同じ方法で神々をすら威圧し、出現するよう強制し、奇跡によって自然のコースを邪魔し、あるいは人間の魂が彼ら自身と同等であると認めさせるようとする(4)

 (1)~(4)・・・略

 

埋葬の魔術 

  魔術は、地上に生存する者として、将来の生活に必要であった。全部ではないが多

くの儀式や目的は死体防腐措置や埋葬に関係していたが、それが魔術の目的であり手

術のための儀式であった。たとえば、「魔力の目は体の死体防腐措置者が腸を始末す

るための体の脇に注がれる」(1)。あるいは、キンバラ(鳥)と家の模型が死体と共

に埋葬される。死体防腐処置の過程では、魔術語の発声を伴いながらそれぞれの包帯

が巻かれる(2)。「人類の思想の最も古い一章である」・・・第五と第六王朝(c.26252475 B,C,)のファラオの墓地の墓のヒエログリフによるピラミッドテキストに書いてある。魔術について、幾つかは断言する「ピラミッドテキストの全体は魔術の呪文の単純なコレクション」に過ぎないと(3)。言葉と物が墓の壁に書かれていた。それは第五及び第六王朝の貴族の墓である。それらは魔術に従って将来の生活を実現させる意図を持っていた。そしてエジプト第十二王朝では棺の横に公式に実際になされた事を描くことが始まった(4)。エジプト王国の有名な『死者の書』は、それ以後死んだ者のための(5)、魔術の絵画・呪文・呪いのコレクションである。そして、これは初期の時代のものではなく、「魔術の力の言葉の本」は古王国のファラオとともに埋められた。Budge は「あらゆる宗教的テキストは墓、中心柱、お守り、棺、パピルスなどに書かれた。それらは死者の力のもと、神へもたらされた(6)。その一方、ブレステド(アメリカの歴史家)は、総合すると後代ではこの埋葬の魔術は、おおいに大衆や聖職者に影響を強めていると考える(7)

 (1)カイロのエジプト博物館の説明ではそう書いてある。

 (2)Budge

 (3)Breasted ブレステド アメリカの歴史家  

 (4)Budge

 (5)略 

 (6)Budge

  (7)History of Egypt

 

日常の魔術 

 ブレステドは、それにもかかわらず、エジプトの歴史の全過程を通じて魔術は日常の生活に大きな部分を占めていたと信じている。かれは「現代の思想では、魔術の信念がいかに生活や民衆の習慣を支配し、日常の決まりきった家事での単純な行為、寝たり食事の用意をするといったようなあたりまえの生活の中に常に存在し現れている。それは初期の東洋の世界に生きる人にぴったりの雰囲気を作り出している。そのような魔術を介して常に祈願し救済を求めるということなしに、古代東方の日常生活はありえなかった(1)

 (1)Breasted・・・

 

言語・想像・お言守り(魔除け)の力

 魔術の主な特徴や変化は、エジプトの長い歴史の過程で、他のところでもいろいろ

な時期、場所で知られるようになった。一つは、われわれは、魔術の力は言語と名前

であると見る。Budge は、言葉の力は実際に限界がない、そして「エジプト人は、彼

等の生活での最大の行事と同じように、最小のものに彼等の援助を祈願する」(1)。

言語はいかなる場合でも用いられるがそれは「普通の声の調子で正しく資格のある人間によって発せられねばならない」し、あるいは書かれねばならない。これは重要な事である(2)。埋葬の魔術を語るにあたってわれわれはすでに絵画、モデル、人体模型、その他のイメージ、塑像、物体の使用に注目した。蝋の塑像はまた魔法(3)にも使われた。魔除けは最初から見受けられるのである。しかしそれらの特殊な形式は、後の時代に変更されたようにみえる(4)。スカラベはもちろん最も有名な例である。

 (1)~(4)Budge 

 

エジプト医学における魔術

 エジプト医術は魔術と儀式に満ちている。その治療法は主として多くの「呪文と根っこやゴミなどを無作為に混合した奇妙な収集物」(1)から成り立っている。すでにわれわれは秘法や神秘的効能についての考えを検討してきた。elaborate polypharmacy と附随した奇術(呪い)には、プリニウスと中世の箇所でお目にかかるだろう。エジプトの医師は他国からの薬草を使い、そして何種類かの材料を混合した医薬よりも単純な医薬を好んだ(1)。すでにわれわれは、黒い子牛の毛は成長する葦毛から得られるという魔術の論理をみた。すでに動物の部分は医薬の調合において好まれる材料だった。ことに、生殖器と結び付けられた。彼等は多分それによって生命(生気)が与えられるとか、あるいは、それらは主としてその猥褻さが気に入られたり、あるいは恐らく不愉快なものによって病の悪魔を追い出すと考えられたのだろう。

 (1)~(3)略

 

 悪魔と病気

 

 だが、古代エジプトにおいて、病気は 古代アッシリアおよびバビロニアで広がっ

ているような、悪魔の所有と同じものではない。ブレステドは「病気は敵対精神によるし、それに対しては魔術のみが役に立つ」(1)と主張する。Budge はもっと用心深

い意見で満足している。つまり「幾つかの病気は、体の中に悪い精神が入ってくることによって起きるということには理由がある。・・・しかしこの点に関しては、情報はそんなに多くを提供していない」(2)。確かに悪い魂と魔術の間にはいつも関連があるという信念があるわけではない。魔術は病気に対し常に用いられる、それが悪魔のせいであろうがなかろうが。

 (1)~(2)略

 

魔術と科学

 宗教での医薬についてブレステドは次のように述べている。中王朝・新王朝の魔術

は古王朝の魔術の数よりもずっと多い、これは現存する記録から計算される限りのも

のだと。しかし、この考えは早計に過ぎ、古王朝におけるより理性的で科学的な傾向を見落としている。だがブレステドが古王朝について書くとき、むしろ、多くのレシピは有用であり理性的であるという印象を与える。「医薬はすでに経験による智恵という地位にある。正確で厳密な観察を表明している」。そして「真の科学に向かうどんな進歩をも妨害しようというのは、魔術のすべての信念である。後者は、医師のすべての実践を威圧し始める」(1)。ベルトロ(フランスの化学者・政治家)が医術の本で次のように述べているが、それは多分より正しく強調したのだろう。「経験主義に基づく伝統的な処方は何時も正しいとは言えない。それは秘教の治療であり、最も怪奇な類似性をもととしており、そしてほんの少し古い時代に遡れるものでしかない」(2)。ゼーテ<ドイツのエジプト学者とウィルケン<ドイツの古代史家>の、エリオット スミス<イギリスの人類学者>、 ミュラー<ドイツの社会哲学者>、そしてフートン<アメリカの人類学者>の最近の研究によれば、古代の知識、また外科、歯科の技術はToddによって僅かであいまいな形で保存されたものに基づくものに過ぎない。実際、この証言の一部は、まだ文明化されないアフリカの部族によって行なわれた祭儀的行為に過ぎないことを示唆している。たしかに、古代エジプトにおけるそれ以外の実際的科学の発達は、魔術の普及の豊富さに較べると大変貧弱である(3)

 (1)~(3)略

 

悪魔と産業

 初期のエジプトは豊富な芸術と産業の故郷であった。しかししばしば示唆してきた

ようにその舞台を広げることはなかった。たとえばblown glass(吹きガラス?)は

後期ギリシアやローマ時代には知られていなかった。そして初期に描かれたモニュメ

ントのガラス吹き工は、実際初めの頃の鍛冶屋が粘土でもって尖端をつけた葦笛で吹

いて火をおこしている(1)。一方、ブレステド博士は、これはベルトロの「化学過程

のすべての種類は医術の処方と同様に、祈祷師や占い師によって宗教的に公式化されたものの附属物として実行された。そしてそれは疾病の治療と同様に手術を成功させるために必要なものと信じられていた」(2)との発言を元にしていると述べている。

 (1)~(2)略

 

錬金術(Alchemy)

 錬金術は一面で、恐らくエジプト人の金細工師と金属加工業者の仕事が起源だろう

。彼等には合金の経験があった(1)。その一方で世界規模の考察、第一物質、元素に

関してのギリシアの哲学理論があった(2)。錬金術、化学は結局エジプトそれ自身の

名前からもたらされた。Kamt あるいはQemt は文字通り黒を意味し、ナイルの泥に当てはめられていた。この言葉はまたエジプの冶金工程で水銀によって作られる黒い粉に適用された。Budgeが言うには、この粉はすべての金属の基礎となり、驚くべき効能を可能にする。「そしてそれは神秘的なほどオシリスが下界で持っていた体と似て

いる。そして両方は生命と力の源泉であると考えられる」(3)。大量のサクラメント

(秘儀)と驚くべき力の類比は、ブルボン家のステファン一世のような医薬の宣伝師によって辛うじて注目されたにすぎない。ギリシアの錬金術について、後世の著者はエジプトの神官から記号と専門語を借用したことは明らかで、エジプト王と神官の独占技術であり、その秘密は古代の石碑やオベリスクに刻まれているとして語ることを好んだ。12王朝の日付のある文書に、ある書記が自分の息子にCemiと名づけられた仕事を勧めている。しかし、それには化学あるいは錬金術と考える根拠はない(4)。パピルスに書かれている錬金術はキリスト紀三世紀のものである。

 (1)~(3)略

 

占いと占星術

 占いと占星術の一般的な証拠は初期のエジプトの記録には、とりわけ、たとえば他

の各種魔術のようには現れてこない。だが、初期のエジプトでは占星術的な関心が明

らかに見られる。そしてそこでさえ、チグリス・エウフラテス川で確立した七つの惑

星は、キリスト前の最後の千年紀に至る迄否定されていた。それはエジプトでは古王

朝の最も古い時代に認められるが、彼等は天文学の科学あるいは占星術の技術の存在

は否定していた(1)

Thotmes 4.の夢は紀元前1450年かそのころからあった。そして呪文は、魔術師に

よって顧客のための夢占いのため、占いと魔術の密接な関係の証明のために利用され

(2)。幸運な日、不幸な日の信念は約紀元前1300年のパピルスカレンダーに示

された。そしてわれわれは後に、中世で人気のあった迷信「エジプト人の日」を見つ

けることになる。星が昇るテーブル、そこには占星術的意味が刻まれていて、毎月の

神、毎日の神、毎時間の神が示されている(4)。そのような七とか十二とかいう数に

はしばしば墓場などで強調されている。そしてもしセトスの墓の一〇個の角とりをした丸天井が実際に彼の時代のものであったなら、第19王朝での黄道帯の印をみつけたことになる。ポルは、黄道帯が動物神の天空への移動にその起源としているなら(5)、その移動はエジプトほど不適切な場所はないとを示唆してそれを糺した。しかし

エジプトではまだ、チグリス・エウフラテス川の文学ややローマ史のなかで見受ける

ような災害の日の予兆や星座(星位)のリストは発見されていない。Budgeは次のよ

うに説明している。七つのハトル神、この神々は死を予言し、幼児はしばらくしたら

(そのうち)死ななければならないという、そして「エジプト人は、人間の運命は・

・・彼が生まれる前に決まっている、そして彼はそれを変える力はない」(6)と主張

していると。しかし私は納得できない。「エジプトを占星術の発祥地とする立派な根

拠がある」(7)。というのは、大英博物館にあるほとんど中世の偽カリステネスとギ

リシアの星占いは、生徒が注意深く古代エジプト人を学んでいることを強調している

一人の占星術師の手紙に触れている。後のギリシアやラテンの伝承によれば、占星術

は実際はエジプトとバビロンの占い師の創案によるものだろう。しかし、より新しい

証拠では、エジプトがバビロンからこの技術の先行について苦情を申し込まれることになるだろう。

 (1)~(7)略

 

アッシリア及びバビロニアの魔術の起源

 バビロニアとアッシリア文明で書き残されたものでは(1)、魔術の楔形文字の板が

大きな役割をしている。そして悪魔への恐怖は、アッシリアとバビロニアの宗教の主

要な特徴となっている。従って日々の考え方や生活は常に魔術に影響されていた。宗

教と魔術のテキストの大半はアッシュールバニパル王(アッシリア最後の王、668-62

6B.C.)の図書館に保存されている。しかし彼はその図書を古代の寺院都市から集めてきた。筆者人は、それらは大変古いテキストのコピーで、シュメール語はまだ広く使

われていると言っている(2)。初期のシュメールの文明の中心のひとつであるエリドゥ

は「記憶にないほど程古い古代の智恵の発祥地である。それは魔法と呼ばれる」(3)。し かし、それはアッスールバニバルの図書館がバビロニアからもたらされたのか、アッシリアからか、シュメールからか、セム族のものなのか、それの判断は難しい。そういうわけで、こういう風に考えよう。「幾つかの非常に古いテキスト、シュメール人

の文学、それは賛歌、呪文のような宗教的材料の集積であるが、それはセム族の借用語でセミ風文法を用いており、全部ではないが多くの場合、ほとんど明らかに、セムの司祭がセムの考えを、正式の宗教的シュメール語に翻訳したものである」(4)

 (1)~(4)略

 

占星術はシュメール人のものかカルデア人のものか?

 最近ドイツの学者の間で大きな論争を巻き起こした。それは、天文学的知識と占星

術の教義のどちらが古いかという問題である。そこにはチグリス・エウフラテス地方

の住民の間にある星の進学も含まれる。簡単に言えば、ウィンクラー<ドイツの考古学者>、シュトゥケン<ドイツの作家>、イェレミアス<ドイツのプロテスタント神学者>たちは次のように主張する。初期のバビロニアの宗教は大きく占星術に基礎を置き、すべての彼等の思想はそれによって出来上あがっていた。したがって彼等は多分早い時期に天文学的観測を行ない、天文学的知識を得た。その知識は彼等の文明の滅亡と共に失われた。この見解に対してクーグラー<ドイツの美術史家、ベーツォルト<ドイツのセム・アッシリア学者、ポル<前出>、スキャパレリ<イタリアの天文学者> などの学者たちは、カルデア人の遅い出現までは、チグリス・エウフラテス川流域に天文学もしくは占星術の理論がなかったことは明らかであると主張した。七つの惑星が早い時期に名高くなったということは否定されるし、黄道宮や惑星による週(1)の証拠はより少ない。天文学のどんな実際の進歩もギリシア時代まで保留されたという。

 (1)略

 

初期バビロニアの「七つ」

 だが、われわれ以前三千年期における神話、宗教、魔術における「七つ」の卓越性は疑い得ない。たとえば、古いバビロニア人の天地創造の叙事詩には七つの風、嵐、七つの魂、七つの悪い病気、七つのドアで閉ざされた下界の七つの部門、上空の世界と天界の七つの区域などなど。だがバビロニアの段状の塔は、聖なる七(sacred Hebdomad)千年のシンボルであるといわれるが、常に七つの舞台をもつものではない(2)。しかし七は間違いなくしばしば使われた。聖なる、神秘な特質を持つものと

して。そして道徳と完璧性はそれによるものとされた。そして頭上にある七つの惑星

の規則による説明よりも満足に説明できるものはなかった。これはまた旧約聖書にお

いて七の神聖さに適応されている。それはまたヘシオドス、オデュセイその他の初期

のギリシアの資料に利用されている。

 (1)~(3)略

                             (続く)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


プリニウスつれづれ(5)ラス・メドゥラスの金

2016-12-15 16:38:03 | 日記

   

 1616 プリニウスつれづれ(5)ラス・メドゥラスの金                                         

          <「Z5 ラス・メドゥラスの金 プリニウス随想(5)」の改訂版>                                                                                  

 

                                                       (一)  自然の崩壊を凝視する

                                                      (二)  世界遺産ラス・メドゥラス

                   (三)ローマにおける金と富

                   (四)エコロジスト、プリニウス

                   

  (一)自然の崩壊を凝視する

 

プリニウスの金言

「征服者のように自然の崩壊を凝視する」(spectant  victores  ruinam  naturae)・・・これは、ヒスパニア(スペイン)の金鉱山で、掘削してつくった墜道(トンネル)の丸天井アーチの支柱を切り離し、その上の山の岩石を一気に谷底に崩落させる・・・それを凝視する坑夫たちを描いたプリニウスの言葉である。

 ドイツの古典学者ヴィルヘルム・ヴェーバーは『アッティカの大気汚染―古代ギリシア・ローマの環境破壊』(1990年、野田倬訳、1996年)の冒頭でこの言葉を掲げ、さらに本文で「その簡勁にして的を射た隠喩によって、まさに永遠に残る金言となっている」と述べた。

かれは、古代人自身に語らせるという手法で、古代(主としてギリシア・ローマ)の環境破壊を告発した。それは現代の人間にとっても決して無視できない課題を突きつけている。なかでも同著の「『われわれは大地から内蔵をつかみ出す』―採鉱の呪い」と題された章がそうである。冒頭の「征服者のように・・・」の警句はそこにも掲載されている。「われわれは大地から内蔵をつかみ出す」と言う言葉もプリニウスのものである。この章はほとんどが『博物誌』からの引用とそれに基づく解説・論評の展開であり、プリニウスの思想を的確に伝えている。しかし、鉱山での採掘の手順を紹介しているわけではないので、筆者はそれとは別に、プリニウスの記述に沿って検討してみたい。

 一方、この書が発刊される一〇年ほど前、スペインの北西部にある古代ローマの金鉱山の採掘跡がラス・メドゥラスとして世界遺産に登録されて(1979年)一躍注目を浴びた。このラス・メドゥラスの鉱山跡が、はたして『博物誌』で伝える金鉱山の跡なのかということを含めて検討してみたい。

 

当事者としてのレポート

プリニウスは四五歳ころヒスパニアのプロクラトル(皇帝代官)に任ぜられた。ヒスパニアにはローマ帝国の重要な金山が幾つもあった。任地にあるそれらの金鉱山も当然彼の視察の対象だったに違いない。

 プリニウス によると、当時の金の採掘法に三つあり、なかで最も重要なのがアルギア(arrugia)だという。アルギアは、今日でもスペインでは深い鉱山を指す言葉として使われているらしく、ギリシア神話中の亡き妻を求めて冥界に赴いたオルフェウスの話に関係があるらしい。以下はプリニウスによるアルギアの説明である。

 

 第三の方法(アルギア)は、巨人(訳注:ギリシア神話に出てくる巨人族のことか)の業績をもしのいだことだろう。長い距離の坑道が掘削されてゆく。山々は灯火を頼りに掘られてゆく。仕事の交代も灯火による。坑夫たちは何ヶ月ものあいだ日の目を見ない・・・人々は夜昼となく働き、暗闇の中でその鉱石を肩に担いで一人が次の者に渡すというようにして運び出す。その列の端にいるものだけが陽の光を見るのだ・・・突然割れ目が崩れて働いていた人々を押し潰す・・・火打石の塊にぶつかると、火と酢を用いて砕くのだが、熱と煙のため坑道では息をつまらせるから破砕機で打ち砕くことがむしろ多い・・・火打石の塊に伴う仕事は比較的容易だと考えられている。というのは、ガンディアと呼ばれる砂を混じえた一種の陶土から成っている土があって、これに出会ったらほとんど処置なしであるから。彼らは鉄の楔と上に述べた破砕機でぶつかっていくのだが、これは存在するもっとも困難な仕事だと考えられている・・・

 ・・・穴掘りの作業では、上方の山の重みを支えるために、ところどころ丸天井のアーチをつくる。穴掘りの仕事が完全に終わったら、奥のところから順次そのアーチの支柱をそのてっぺんで切り離していく。割れ目ができるとそれは崩壊の警告である。それを目撃するのは山の頂上にいる見張り人だ。彼は叫び声と身振りによって坑夫たちに退避するよう警告を発し、彼自身はその瞬間に飛び降りる。割れた山は人の想像を絶する轟音と、同じく信じられないほどの烈しい爆風を伴って、広い谷間へと崩れ落ちてゆく。坑夫たちは征服者のように自然の崩壊を凝視する。

 

さて、谷底に崩落した岩石をどうするか。実はあらかじめ山鼻にある滝頭に貯水池が掘ってある。縦横とも二〇〇フィート、深さ一〇フィートだという。その水は往々一〇〇マイルほどの遠くから引いてくる。遠くの高い山から引いてこないと落差がつかないのだ。そのための経費や労力は、鉱石を掘るよりもかかるほどだ。山の中腹にくりぬいた木の樋を乗せる水路を作る。その作業をしている人夫たちは綱でぶら下がっているので、遠くから見ると鳥の群れを見るようだ。彼らは水準器をもって道筋の線の印をつけているのだ。峡谷や地の割れ目には石積みの高架橋をつくる。硬い岩にぶつかったら、山腹を削りとってでもして木の樋をのせる通路をつくる。こういう作業が延々と続き、コルギと呼ばれる水路ができあがる。

水路を運ばれてきた水は貯水池に溜められるが、満水になると堰を開ける。その奔流は谷底の金を含んだ岩屑を押し流す。流れが平地に達すると、そこには階段状に溝が掘られていて、その溝の底にハリエニシダという植物が敷いてある。ざらざらしているので流れてくる金を食い止める。ハリエニシダは乾かして焼く。その灰を、底に芝生を沈めある水中で洗う。するとそこに金が沈積する。水流に運ばれた土砂は海中に滑り込む。プリニウスは「ヒスパニアの土地はそのために沖の遠くまで押し出されてしまった」という。

彼は、ヒスパニアの北西部ではこの方法で年二万ポンドの金を産したが、これほど長く継続的に金を産出したところは世界のどこにもないという。ローマの元老院は以前、乱開発から守るためイタリアでの採鉱を禁じたと、プリニウスは再度にわたって伝えている。その禁令の内容や実効の成果については分からないが。ヒスパニアにはその禁令は出ていなかった。後でそれに関連することを述べる。

 

  (二)世界遺産ラス・メドゥラス

 

水による山崩し 

世界遺産に指定されているラス・メドゥラスの金鉱山跡が、上記のプリニウスの描いた鉱山跡だというのが一般らしい。以前放映されたNHKの報道やウィキペディアなどの説明はじめいくつかの解説を見たが、それらは細部を除いて大同小異なので、ここではそれらをもって通説とし、それへの見解を述べてみる。

 ウィキペディアは『博物誌』のなかのプリニウスの叙述は十分ラス・メドゥラスに適用できるという。NHKの方は「適用できる」ではなく、プリニウスの記述そのものとして説明しており、さらにそれをパレンシア博士という人が権威づけていた。

 ラス・メドゥラスは、スペイン北西部レオン県のボンフェラーダという市の近くにある古代ローマの金鉱山跡である。削り取られたような鋭くとがった赤い岩肌が数多く突っ立った特異な景観である。

通説では、この鉱山では水を使って山を崩して鉱石を押し流すという方法をとっているという。この方法はルイナ・モンティウム<ruina montium>(山崩し)といわれ、これは、プリニウスが七七年に書き溜めたものだという。

プリニウスはヒスパニアに任官中(たぶん六七年~)膨大な手書きの資料を集めた。七〇年、彼四八歳のとき、ラルキウス・リキウスという人物がその資料を譲ってくれと申し出たがプリニウスは断った。翌年、彼はローマに帰った。七七年は、彼がティトゥスに『博物誌』を呈した年である。だから彼がこの鉱山について書いたのは七〇以前だと考えられる。また、ルイナ・モンティムという熟語は『博物誌』にはいっさい出てこない。

 通説では、プリニウスによるとしながら次ぎのように説明する。三五キロメートル離れた、少なくとも七箇所の水源から、七本の平行な水路によって水を引いてくる。その水はメドゥリオ山頂に設けられた貯水池に満杯になるまで溜める。この貯水池の水量は五〇メートルプールの七倍だったという。その貯水池跡とされる窪みが写真にあったが、それを見た限りでは決して山頂ではなかった。

 

貯水池の役割

プリニウスは、貯水池は山頂ともメドゥリオ山とも言わない。どこから何本とか平行してとかも言っていない。そして貯水池の所在地は先述のように、山の端っこにあって滝が落下するその頭のところに作られると書いている。その大きさは先述のように、縦横七〇メートル、深さ三メートルほどである。通説では山頂とあるが、どうやって水を揚げたのだろうか。モーターもポンプもない時代の話である。プリニウスの記事では、この貯水池には縦横とも三ペス(約九〇センチ)ほどの開口のある五つの堰が設けられてあり、そこから放流される仕組みだったという。だから必要に応じて開閉をくりかえしたのだろう。

 「あらかじめ掘っておいた総延長一〇〇キロメートルにも及ぶという山中のトンネルに一気に流し込んで人工的に斜面崩壊させる」。これが通説の説明である。一〇〇キロメートルといえば東京-熱海間に相当する。トンネル出口の部分の写真を見た。随分大きな穴である。削りとった岩石・土砂はどれほどの量になるだろうか、山の一つや二つはすぐできてしまうだろう。プリニウスは運ばれてくる水路の長さは書いたが、掘削した山中のトンネルの長さはただ「長い距離」と書いただけである。

 この貯水池の水量はどれくらいか。プリニウスのいう貯水池でおよそ一万五〇〇〇立方メートルである。NHKの説では五〇メートルプールのおよそ七倍ぐらい、それを一〇〇kmに及ぶ掘削したトンネルに流して山を崩すという。それがルイナ・モンティウムだとされる。

 通説では、遺跡のところどころ残るトンネルは、山を崩す水を流した跡だと説明している。しかしその地下水路は山の崩壊とともに崩壊した筈だ。では掘削中のトンネルか? NHKで説明していたパレンシア博士は、トンネル入口の岩肌に残るつるはしの跡を示しながら、地面から1メートルほどの高さまでの跡が、それより上の跡と違って浅いことを示しながら、流水が削り取った証拠だといっていた。では、水が通ったというのに崩れていないのはなぜか?

 プリニウスは上述のように、貯水池には五つの水門があるという。つまり、作業の進捗状況に応じて水門を開閉できる。貯水池の水が尽きたら門を閉めて再び水が溜るまで待つ。貯水池は何回でも使える。通説の方式だと、山頂の貯水池は崩壊し再度使うことはできない。一つの谷に沿って幾つかの鉱山があれば、適当な箇所に貯水池を設けておけば、それぞれの山崩しに使える。何度でも使用可能である。わざわざ崩壊させる山の頂上に作る必要はない。必要な分だけ水門を開閉して調節することができる、これは合理的である、山を崩すために水を流すのではなく、谷に崩落した鉱石の選別のために流すのだから。

山崩しで落下した岩石から金を採るにはどうするか。通説ではどれを見ても、砕けた岩石を篩(ふるい)にかけて金を採るのだという。先に紹介したプリニウスの方法とは全く違う。また、他にもプリニウスが書いてもいないことが述べられているが省略。結論的にいえば、プリニウスの描いた金鉱山と通説が語るラス・メドゥラスの金山は別個のものだとすれば割り切れる。両者の基本的違いは、プリニウス式はアーチの支え棒を切離して山を崩壊させるが、通説式は山中に掘ったトンネルに水を流して崩壊させるということである。冒頭に紹介した『アッティカの大気汚染』では「作業が完了すると、アーチの支柱は打ち倒される。・・・壊された山はどんどん崩れ落ちてゆき」と書いている。ヴェバーはまったくプリニウスの記述に準じて述べている。信頼のおける記述である。

 

(三)ローマにおける金と富

 

 プリニウスはある記事によるとと断りながら、アストゥリア、カラエキア、ルシタニアなどではこの方法で一年に二万ポンドの金を生産するという。この三つの地方はいずれもスペイン北西部にある。そのうちアストゥリアが最も多く供給しているという。ラス・メドゥラスはアストゥリア地方にある。通説は、ラス・メドゥラスだけで二万ポンドとしていて、これまたプリニウスの記述と違っている。そんなに容易に採れるものではないだろう。プリニウスは、彼が視察をしている間には、全く採れなかったと書いている。

「ローマ帝国はなぜ滅びたか」というのは、ずっと古くからある古びた設問である。

ラス・メドゥラスの金鉱の枯渇がローマ帝国滅亡の遠因になったというのが、判で押したように通説での定説となっている。

 ローマ帝国の経済的基盤が農業であることは常識であったし、古代史の権威ロストロツェフは帝政初期の経済活動の主要な要素は農業を別とすれば商業であったと述べている。そして、そこで扱われた商品目を見れば経済活動の一端が伺える。またその活動地域は、国外の地であるゲルマニア、ロシア、アラビア、エジプト、インド、セレス(中国)など広い地域に及び、ローマが提供した商品はもっぱらオリーヴ油、ぶどう酒、手工業製品であったという。ローマが受け取る商品の代価の一部はプリニウスの言うように金・銀貨で支払われたが、大部分は特にアレクサンドリアで生産された物資で支払われた。プリニウスは「インドがローマ帝国から吸い取ること五〇〇〇万セステルティウスを下らない年はない」と言ったが、それが帝国に経済基盤を揺るがすなどとは少しも書いていない。「大土地所有がローマを滅ぼす」とは言っているが。

彼が警告したのはその厖大な金額が主として奢侈品の輸入に当てられることに対する批判であった。

 ロストロツェフは、外国貿易より遥かに重要なのは帝国内の交易だったという。帝

国内での交易品は、穀物、ぶどう酒、オリーヴ油、木材、蝋、麻、各種金属や硫黄。

金属は主としてヒスパニア、ガリア、ドナウ諸国の産物であった。そして工業品、とくに奢侈品ではなく日常用品、亜麻、パピルス、毛織物、陶器、金属器、ガラス、ランプ、化粧品など。なかでも最大の品目はイタリアのぶどう酒とオリーヴ油であったという。もちろんヒスパニアやガリアにも送られたが、これらは外国ではない。(ロストロツェフ『ローマ帝国社会経済史』参照)。ついでに、プリニウスの話も載せておこう。

彼は、ぶどう酒つまりワインについて、その栽培過程はもちろん、ワインの保存法についても実に詳しく書いている。それによると、ワインは年数が経つほど美味になり価格も高くなるという。二〇年目までは、これほど大きく価格が上昇するものは他にないという。とくに前一二一年は天候に恵まれ極上のワインができ、この年のワインは二〇〇年近く経った当時でも残っていて、価格は暴騰したという。「我が国の酒蔵に蓄えられている金額はそれほどにも大きいのだ」とプリニウスはいう。ここで彼のいう「金額」は、直接国庫に入るわけではなく生産・運搬・販売などワイン産業に携わる人々の収入になった。そしてそれは国富の増強を支えるものでもあった。

 通説では、筆者の見る限りすべては「ラス・メドゥラスの金はローマ帝国によって根こそぎ持ち去られ、土地の人々にはほとんど何も残らない跡地が返された」と書いている。この文句はとても愛好されているようだ。だが、ヒスパニアは属領とはいえ立派にローマ帝国の一部、いやむしろ中核部分を形成している。これでは、自分が自分を根こそぎ持ち去ったと書いているようなものだ。イタリアという地域から各種物産を購入する場合、ヒスパニアという地域にとって金は重要な交易品の一つだったことには違いないが、同じ国家内での交易でしかなかった。プリニウスもロストロツェフも、ローマ帝国の興亡に影響を与える特別の商品としての地位を金に与えているわけでははいないのだ。

 

(四)エコロジスト、プリニウス

 

 山と海の荒廃

プリニウスは、「こうやってその水流に運ばれた土は海中へ滑り込む。そして砕かれた山は洗い去られる。今までにヒスパニアの土地はこういう原因で海中遠く侵入してしまった」「われわれは前に古い元老院の禁令によってイタリアが開発から守られていることを述べた」と述べていた。彼は、このように自然を破壊する金鉱山の開発に反対だった。

彼が金山の開発を批判したもう一つの大きな理由は、金が人間の奢侈と貪欲を助長するからと考えたからである。彼は金自体に疑いの念をもっていた。「人生における最大の罪は、初めて自分の指に金をつけた人物が犯した罪である」それに次ぐ罪は「初めてデナリウス金貨を作った人物が犯したその罪である」。フキヌス湖の排水路の完工式に列席したアグリッピナの金のマントにこだわったのもその延長である。もちろん、ネロの黄金宮などはもっての外であった。

 厖大な労働力を使い、自然を破壊し、そして得た金を奢侈品に投ずるローマの市民

たちの生活態度を批判して止まなかったプリニウスである。『博物誌』は七七年に詳細な目次をつけてティトゥスに献呈された。しかしそれ以前に、ヒスパニアでの任務遂行中のいずれかの時点で、ウェスパシニアヌスやティトゥスにその状況を報告していると考えるのが妥当だろう。ティトゥスが『博物誌』の完成をプリニウスに催促していたということは、『博物誌』がどういうものか、ティトゥスがある程度知っていたからだと推測できる。

彼がいうように、イタリアではすでに金の採掘は禁ぜられていたが、ヒスパニアではまだ行われていた。ローマにおける金の採掘ははじめ操業賃借人制度で行われていた。鉱山の所有地は国であるが、その試掘権・採掘権を徴税請負人(publicani)に賃貸した。契約時に一定金額が国に支払われ国家の安定した収入になった。国は管理費・人件費を支払う必要はない。だが、契約請負人は、契約期間内に最大限の利益をあげようとして、系統的な採掘をしないで豊かな鉱床開発に専念し乱獲を招いた。安全性も無視され、労働者の健康・生命もないがしろにされた。

 皇帝たちは、紀元一世紀末以降、操業賃借人制度から手を引いていき、鉱山の管理を皇帝の役人に委ね、関連法案を新しく整理したという(『アッティカの大気汚染』参照)。その際、プリニウスの錬言が効を奏したのかどうか、それはわからない。

 ラス・メドゥラスが世界遺産に登録された(1979年)のは、それが古代の鉱業によってできた産業遺産であり、優れた文化的景観を形成しているからだという。二千年近く経った今もなお、樹木一本ない、赤く切り立った山肌を眺めて(筆者は写真でしか見てないのだが)、人間の愚行を見るような気がする。それが優れた文化的景観なのかどうか、それは見る人の主観によるだろう。

 P・L・レヴィスとG・D・B・ジョーンズという二人の人物がスペインの三つの

ローマ金鉱の廃墟をかなり詳細に調査し、その結果を『北西スペインにおけるローマ

金鉱』という書にして出版した(1970年)。この二人のフィールドワークによって、ローマ人が大がかりな送水路網をつくり金の洗浄に必要な水を供給したことが確認された。今日「配管結合機構」と呼ばれるその送水路網はおそらく七本以上含んでいて、それらの管は部分的には直線距離にして二〇キロ隔たったところから始まり、個々の水道は五〇キロ以上の長さだったこと。およそ三四〇〇万リットルの水が毎日流れ込んだこと。大部分はタンクや貯水池に導かれたが、それらはまだはっきりと跡が保たれていることなどが報告された。これは二〇世紀での調査の結果である(『アッテイカの大気汚染』参照)。

 二人の水路網についての報告のこの部分はプリニウスの記述とほぼ符号が合っているし、通説の記述ともそんなに矛盾がない。今まで述べてきたように、それ以外の

説明に関しては疑問が大きすぎる。

 

その後

プリニウス以後も、この地方の金山は二百年ほど続いたらしいが詳細な記録はない。概して古代・中世の鉱業についての記録はごく僅かである。一六世紀のドイツの鉱山学者アグリコラは『デ・レ・メタリカ』を書くに当たって、あまりにも資料が少ないので困惑した。プリニウスの『博物誌』は彼が頼れる唯一の資料だったらしい。

かれは『デ・レ・メタリカ』で鉱石の選別・粉砕・洗鉱について何種類もの方法を詳しく書いている。それによると、アグリコラの時代にはもはやローマ時代の山崩し的な採掘法はとっていなかった。だが、水流を利用して選鉱するという方法は基本的にはプリニウスの時代から変っていない。彼もプリニウスの記述を引いて叙述している。ただ違うのは水流の作り方である。アグリコラの頃にはもはや数十キロ先から水路を引いてくるなどということはない。選鉱に必要な水は主に水車を何段階にも連結して近くの川から汲み上げた。水車についていえば、プリニウスの時代にはローマでも水車はあったし、プリニウスは製粉に水車が使われていた例を挙げている。ウィトルウィウスやルクレティウスも水車に触れている。だが、鉱山での使用については記録がない。

 石炭や石油の存在は古代から知られていたが、それを産業用や生活に使われることはなかった。アグリコラの時代に至ってもまだ化石燃料は用いられておらず、水車が主要な動力源になりつつあった。産業革命の初期においては水車が最重要なエネルギー源であったことはよく知られている。一七世紀には科学に対する新しい考えが生まれた。いわゆる科学革命である。なんら違和感もなく自然界は人間の開発の対象となってゆく。動力エネルギーは石炭にとって代わられ、本格的な産業革命が怒濤のように押し寄せてくる。

 現今、西欧の思想は人間中心主義であるという見解が一般である。自然と人間を対

立的にみなし、自然は人間のために存在し、人間が自然を征服することが進歩だと信

じられていると。もちろん反論もある。だが、神の似姿をしている人間は他の動物とは異なると考え出すと、そのように理論は発展してゆく。古典古代においては、自然はまだ畏敬の対象だった。だから、大地の奥深く掘り進んで金を取り出すというような行為は、自然のはらわたを抉り出すようなものだというプリニウスの思想は、現代では理解できないし、また受け容れられることもないだろう。最後に『博物誌』弟三三巻の冒頭の部分を載せておこう。

 

  さて今度のわれわれの題材は金属、そしていろいろな日用品に対する支払のために利用する資源そのものである。いろいろな方法で、大地の内奥に入り込み、せっせと探し求める物質である。あるところでは、生活が金・銀、それらの合金・銅を求めていて、富を目当てに地中にもぐる。ほかの場所では宝石や、壁や梁を彩る顔料を求めて、贅沢のために地面を掘り下げる。またあるところでは戦闘や殺戮の場で金よりも貴ばれる鉄を求めていて、逸り立つ武勇のために地中にもぐり込むのだ。われわれは大地のあらゆる性質を探し求め、大地の中につくった穴の上に住む。そして時たま大地がぽっかり口を開けたり振動したりすると驚愕する。・・・われわれは大地の内部へはいりこみ、死んだ人々の魂の棲家で富を求める・・・。

 

 

 

 

 

 

                                  

                         


プリニウスつれづれ(9)ローマびとへの贈りもの

2016-11-20 20:03:41 | 日記

 

<「Z9 ローマびとへの贈りものープリニウス随想(9)」の改訂版>

                  

   

                (一) カメーナに捧げる新しい作品

                (二) 人は人のために

                (三) コンコルディアの心

                                              (四) ウェルギリウスのうた

 

 

  (一)カメーナに捧げる新しい作品

 

ティトゥスへの手紙 

 西暦七七年、プリニウスは『博物誌・三六巻』に献辞を付して皇帝ティトゥスに献呈した(注:後、この献辞と詳細な目次・典拠著作家の一覧表を第一巻にまとめ全三七巻とした)。そして新しい任地ミセヌムに向った。献辞といってもそれは手紙の形式をとっている。下はその出だしの部分である。

 

これは博物の書(Libros Naturalis  Historiae)でありますが、ローマ人(Quirites)の詩の女神カメーナ(Camena)に捧げたわたくしの新しい作品であり、またわたくしの最新作でもあります。

 

 カメーナというのはギリシア語でいうムーサ、英語や日本語では普通ミューズである。たんに詩だけでなく、あらゆる知的活動の女神とされてきた。一方、古来ローマの水のニンフだったカメーナは、リウィウス(『ローマ建国史』の著者)以降ギリシアのムーサと同一視されてきた。プリニウスは意識的にムーサではなくカメーナを使ったと思われる。ローマ市のカペナ門外にカメーナの聖なる森と泉があったという。

 プリニウスより一世紀前のウェルギリウスは、『アイネーイス』 でローマ建国を謳ったが、その冒頭の一句を紹介する。そこではカメーナではなくムーサである。散文訳の杉本正敏『アイネーイス』から引く。( )内は筆者の注、< >内は訳文のルビ。

 

   彼(アイネーイス)はまた、苛酷な戦いを耐え抜いて、ついに都を建設し、神々をラティウムへと運んだ人だった。

  そこからラティウムの一族が生じ、アルバ(ローマの母市となったアルバ・ロンガ)の父祖たちが生まれ、やがてはローマの高い城壁が築かれた。

  詩神<ムーサ>よ、わたしに理由<わけ>を話せ。

   

 プリニウスは逆にムーサではなく古い言葉カメーナを使った。同時に彼は、市民権を持つローマ市民を表すRomani を使わず、Quirites というローマ人一般を表現する語を使った。つまりそれは、ローマ社会の選ばれた人たちだけにではなく、広く一般大衆への贈りものという意を籠めたと思える。「農民や職人など一般大衆と、それに何もすることのない学問の徒のために書かれたものです」(序6)とも書いている。

 彼は毎日のように宮中でティトゥスに会っていたが、手紙のやりとりもしていたらしい。『博物誌』の執筆中なので、完成したら献呈すると約束していたようだ。だが、まだかまだかとティトゥスから催促されて、プリニウスは「このたびは、厚かましくも、その目的を果たそうと思います」と詫びを入れている。彼は、ローマ帝国の艦隊長に赴任する直前に一つの区切りとしてこの書をティトィスに献呈したのだろう。

 

ローマにおける出版とは

 プリニウスはこう言っている「作品を貴方に正式に献呈する人々は、単なる出版とは違った立場におかれる・・・」と。つまり、出版は出版でも、特別な出版になるということ。献呈は同時に出版なのである。 

 古代において出版の日付を探るのは困難ではある。今日のように、機械によって大量に印刷されて書店に並ぶのではない。一冊一冊手写され、できたものから順に書店に並ぶのだろう。多分、一冊目が出来上がると著者は先輩・知人・友人・パトロンなどを呼んで発表会を開く。著者が一部もしくは全部を朗読する。それが出版の時と考えられる。誰かに献辞をつけて贈呈すれば、それが今日で言う出版ということになる。ウェルギリウスは『農耕詩』を完成させたとき、パトロンのオクタウィアヌスの前でその全四歌を、四日間かけて朗読したという。疲れると同席していたマエケナスが代読したとも伝えられる。

 『博物誌』に関していえば、大プリニウスの死後甥の小プリニウスによって出版されたという説もあるが、この献辞を見る限りそれはありえない。当時ローマでは著作を出版するときには「審判人」の認可が必要だったらしい。プリニウスはこう言っている。「審判人を籤で得るか自分の選択によって得るかは重大なことがら」と。だがティトゥスがこの『博物誌』の審判人になってしまった。しかも途中から自ら望んで審判人の席に着いたという。プリニウスは驚いただろう。その時点でもう特別の出版ということになってしまった。彼は言う、ティトゥスのように才能ある人物が裁断するなら誰も自信をもって作品を評価することはできないと。ティトゥスに評価され認定されれば当然献呈という段取りになる。

 しかしここでプリニウスは言う。市民法によれば学者にもいくらか拒否権があると。そしてキケロやカトー、ルキウス・スキピオの事例などを挙げて審判人の選定の重要性を語っている。それは多分、他の人たちの嫉妬や中傷を気にしてのことだろう。だが結局拒否はできない。「自分で献呈することでそのような弁明をすることを差し控えております」と苦しい胸のうちを語っている。

 プリニウスがそのことを気にしていたことは次のような叙述でもわかる。「貴方に献呈されるものが、貴方にふさわしいものかどうかと注意が払われるのであります。しかしながら、田舎の人々や多くの外国人たちは、香料を持っていないので、牛乳や塩漬けのひき割りを奉納します。そして神々を崇めるのに、その力量に応じたどんな方法であっても、誰も責められることはありませんでした」と。香料が当時どれだけの貴重品だったかわからないが、奇妙な例を持ち出したものだ。つまり『博物誌』の内容が牛乳や塩漬けのひき割りのような平凡なものであっても我慢してくださいということなのだろう。

 さらに彼は、職務に追われて余暇にしか、つまり夜にしか執筆できないと弁解している。日中を貴方(ティトゥス)に捧げており、睡眠によって健康を保つように心がけている、だが、生きるということは目覚めていることだから、睡眠時間を削ればそれだけ多くを生きるということになるのであり、これが唯一の報酬であって、これに満足していると語る。睡眠時間を削ることが報酬だとは、まことに恐れ入る。このような生活ぶりは彼の甥の小プリニウスの証言によって追認されていることだが、まったく恐れ入ったことである。

 先ほど『博物誌』の出版年は七七年としたが、その大きな理由は、献辞のなかでティトゥスに対し貴方は六回の執政官を果たしたと書いているからである。六回目の執政官というのは七六年である。ウェスパシアヌスとティトゥスは共同で執政官を勤めていたので両者とも七七年は七回目の執政官だった。異説の代表は「さまざまな修正をほどこされて著者の死後にしか公にされなかったと思われる」(ジャン・ボージュ「大プリニウスの伝記」、ベル・レットル古典叢書)である。

 

博物誌に終わりはない

 「修正して死後公刊説」は次のようなことが根拠かもしれない。プリニウスは献辞で「ご父君やご兄弟、そして貴方につきましては、すべて『われわれの時代の歴史』(『アウフディウス・バッススの歴史書の続き 三一巻』のこと)という正規の本の中で取り扱いました。・・・その作品がどこにあるのか、とお尋ねになるでありましょう。その原稿はかなり前に完成して認可を得ています。いずれにしましても、それをわたくしの後継者に委ねることがわたしの決意でありますが、それは私の生涯が、何らかの野心で費やされたものだと思われるのを避けるためであります」と述べている。

 思うに彼は、同時代史であるこの書で皇帝一族のことも扱っていて、その記述がへつらいと看做されることを恐れたのだろう。死後とは書いてないが、甥で養子の小プリニウスに委ねる決意を披瀝しているのである。この書の手紙の二年後、彼は不慮の死を迎えているので、死後甥によって出版されたとしたらそれは『われわれの時代の歴史』の方だったろう。  

 このような記述のあとで彼は、私の作品にはまだ付加すべき点が大いにあり、自分の他の本もすべてそうであると告げている。それは酷評家ホメロマスティクス(ホメロスの詩を酷評した批評家ゾイルスのあだ名)から身を守るためだという。

 彼はその一〇年ほど前『文法について』という作品を公刊している。彼は、ストア派やアリストテレス派、エピクロス派の人々がこの『文法について』の批評を書くのに産みの苦しみをしており、相次いで流産していること、象でさえ子どもを産むのにそれほど長くはかからないのにと皮肉っている。彼はそれに関連して「自ら首をくくるための木を選ぶ」という諺のいわれを紹介する。「あの雄弁家として名高い人物で、『神聖な』という名称を得ているテオフラストス(ギリシアの植物学者)が、彼に対抗するものを書かせるために一人の女性を探し出してきたということを無視できましょうか。これが『自ら首をくくるための木を選ぶ』という諺の起こりなのであります」。

プリニウスの記述がこれだけなので、女性の名も、自殺したのかどうかもわからない。当時はよく知られた話だったのだろう。自分を批判する人物がいても、どうせなら立派な人物に批判されたい、というのが本意らしい。後にラブレーは次のように書いている(『パンタグリュエル物語・第四の書』渡辺訳参照)

  『パンタグリュエル物語』の主人公パンタグリュエルは次のような話をする・・・アテナイ人ティモン(前五世紀、人間嫌いとして知られていた)は、自分に対する市民の忘恩を怒り、ある策を考えた。彼は、人々を集めてこう宣言した。わが家の外庭に大きく立派なイチジクの木があるが、絶望した市民たちがこっそり来てこの木で首を吊るのを常としている。わが家を住みよくするため、八日以内にこの木を切り倒すことにした。だから首をくくる必要のある者はとり急いで処置をされたい、あのように便利な木はなくなるから・・・」と。さらに続けてグリュエルはいう。このティモンのひそみに倣って拙者も、これら悪魔つきの讒誣者ども(パリ大学ソルボンヌ神学者たち)はみんな今の月が下弦のうちに首を吊ってしまえと申し上げる。首吊り紐は拙者(パンタグリュエル)が差し上げるが、期限が切れたら自分で縄を買って、首吊りに適した木を探せ、さもないと希代の博識を謳われた雄弁なテオフラストスを誹謗したレオンティオン姫と同じ目に会うだろう・・・と。

 蛇足だが、漱石の『吾輩は猫である』に、首懸けの松、というのが出てくる。市川市国府台にあったという話。松の枝が具合よく道路の方に伸びている。つい首を吊りたくなるのだ。イチジクの枝に吊るよりは絵になるだろう。

 余談はさておいて、先の文に続けてプリニウスはいう。あの著名なカトーでさえも非難攻撃を受けてこう言った。「それがどうした。ある著作が出版されると、たちまち口やかましい人々の餌食になることを私は知っている。だがたいていの場合、そういう人々には、本当の栄誉などはないのだ。私としては、そういった人々の饒舌を勝手にさせておくまでだ」と。

 ローマ社会でも激しい猛烈な批判・非難合戦があった。とくに一世紀のローマは、功を争った出版ブームで大変な競争だった。「皇帝」に献呈したら何が待ち構えているかわからなかった。そういう趨勢の中で、計画したことの残りを最後までやりとげるつもりでいるとプリニウスは述べている。「計画したことの残り」が何であったか、それはわからない。三六巻で一応の完結を見たし、新しい任務に就くにあたっての決意があったのかもしれない。博物誌は無限の世界・宇宙を対象とする分野だから本来完結というものはない。新しい分野の研究・探求に乗り出せるチャンスでもあったし、その意気込みもあったろう。事実彼は、海上からの火山噴火の観測と住民救助という自らに課した任務を果たすため危険な海へと船を進めた。

 

手紙の結末はどこへ?

 現在「序文」とされるティトゥスへの手紙は、ローマの社会事情なども既知のこととして書かれているので、現代人にとってわかりにくい点も多々あるが、一個の文明論となっている。残念ながらこの手紙は中途半端なところで終わっていると筆者は考える。誰も言わないが結語があったはずである。今日の『博物誌』のテキストは、現存する二〇〇あまりの写本(部分的なものも含めて)を照合して出来あがった。ほぼ完全とはいわれるが後で発見されて補足された箇所もある。第三七巻(現在の)は宝石についてであるが、その最後近くの二か所がずっと後に発見されて充足された。そして最後のフレーズ。それは、各地における自然の恵みを論じた終章で、「少なくともヒスパニアの海に接する諸地区にあたえよう」と、そこで突然終わっていたのだが、残りの文章の発見によって『博物誌』は見事な完結を見たといえよう。最後の締めくくりはこうである。

 

  あらゆる創造の母なる自然に幸あれ。そしてローマ人のうちで、わたしのみがあらゆるあなたの顕現を賛嘆したことを心に留め、わたしに仁慈を賜らんことを。

  

このようにしっかり結語を述べているのだから、ティトゥスへの手紙にもちゃんとした結びがあって然るべきだと考えるのである。

 

   (二)人は人のために              

                                          

一般大衆のため

 始めに紹介した「農民や職人など一般大衆と、それに何もすることのない学問の徒のために書かれたものです」という言葉のうち、「一般大衆のために」というのは、具体的に言えば労働の各分野、すなわち農業、商業、各種の手工業、土木などで働く人たちへの手引書の役割を企図したものだった。いわば日々の実務的ハンドブックとしての役割を果たしたものだった。だから後世、ジャンジャック・ルソーは、孤島に一冊だけ持って行けるならばとして、プリニウスの『博物誌』をその候補に挙げたのである。中でも重要視されたのが医薬の分野である。中世においては、その部分が抜粋されて「プリニウス医学」として流布されもした。その内容から見れば、今日でいう民間療法の域を脱せず迷信としか言いようのないことがあるにしても、彼が「一般大衆のため」と考えたことは否定できない。だが同時に彼は、大衆の無知や迷信や軽信を諌め啓蒙に努めた。天体の運行を教え蝕の恐怖から解放させようとし、死後の霊魂について語り、心の平穏を説いた。そして奢侈を批判し勤勉を説いた。

 「何もすることのない学問の徒」というのは具体的にはわかりにくい。おそらくプリニウスの大いなる皮肉だろう。寝る間も惜しんで著作に励んだ彼にとってみれば、学問の徒は何もすることがなかったのだろう。彼はギリシアの芸術を高く評価し、学問にも敬意を表した。だがローマ人の学芸に対する姿勢については極めて批判的だった。もっとも、ギリシアの著作家たちにも、自著にもっともらしい題をつけるが、内容を見れば「表紙と裏表紙の間にあるもの」がなんと空虚なものであることかと、いろいろな事例を挙げて皮肉を言っている。

 

パナイティオスとキケロの『義務論』

 不満は他にもある。権威ある書を検索しているうちに判ったことだが、現代の著述家たちのほとんどが、謝辞を述べることもなく、古い著述家たちの一語一句を写し取っていることを発見した、貴方(ティトゥス)はそのことをお知りにならなければならない、これは借金を返すよりも窃盗の現行犯で逮捕される方がよいというさもしい精神を現しているとプリニウスはいう。今日でいうコピペだろうか。だが古代では、資料の出所を示さないのが当たり前だった。著作権などという観念はずっと後のことだ。プリニウス以後には出所を示す著作も現れたが。例えばヨセフスの『ユダヤ古代誌』では部分的に出所が示されている。タキトゥスも若干示した。だがそれは後の話。ちなみにプリニウスは『博物誌』に、参考にした書物や著作者の一覧表を作成して添付したし、本文においても多くの箇所でその権威者の氏名をあげて引用している。彼はそれを「わたくしの道義心の証し」だし「高潔な謙遜を示すものだ」と自画自賛している。そういう例は当時ではほとんどなかったらしい。

 そして、現代の著作家のずうずうしさに対置してキケロの誠実さを強調する。キケロは自分の『国家について』ではプラトンの『国家論』を手本にしたと、また『慰め』ではクラントルに追随しているし、『義務について』ではパナイティオスを借用したという。プリニウスはこのように典拠を示すキケロの誠実さを強調しながら、『義務について』は、貴方(ティトゥス)もご存知のように毎日手にとってみる、いや暗記さえする価値のある書物なのでありますと書いている。

 では自作の『博物誌』についてはどう言っているか。彼は、貴方のお時間をわずらわすことへの苦情を考慮に入れるのは私の義務だから、「この手紙に各巻の目次の表を添付いたしました」「全部をお読みになる必要がないように、非常な注意をはらいました」と述べている。また、他の方々も全巻を読む必要はなく、読みたいと思う特定のものを探しさえすればよく、それがどこに書いてあるかすぐ分かるようにした」という。そしてこれは、ローマの文献の中では「ウァレリウス・ソラヌスが彼の『伝授を受けた婦人たち』の中で採用したものであります」と書いて、そこで突然終っている。そんな終わり方があるだろうか。それはありえない。

 

人は人のために

 パナイティオスの『義務論』は歴史の中で散逸し、今日その断片しか残っていない。しかし幸いにキケロの『義務について・三巻』のうちの一・二巻がこのパナイティオスの作品を借用しているので、その内容をほぼ知ることができる。その基本的考え方を要約する。

 「本来、私有財産というものがあるはずがない。あるとすれば、せいぜい無人の土地に移り住んだ人が長く占有したとか、協定とか抽選によって得たかである。だがプラトンがいうように、われわれはただ自分のためだけに生まれたのではなく、祖国や友人たちのためでもある。一方、ストア派の人々が主張するように、地上に産まれたものはすべて人びとのために造られ、人は人のために生まれた。そのように互いに助けあうのが天意であるとすれば、当然、われわれは天意にしたがって、公共の利益を中心として、たがいに義務を果たしあわなければならない。互いに与え受けとり、互いにそれぞれの技術や努力や能力によって社会的結びつきをいっそう高めなければならない」「人間にはすべて、最も優れた人々にもその他の人々にも、何がしかの敬意を払わねばならない」(『ローマの政治思想』国原・高田訳から)。

 これにキケロ自身の発言一つ付け加えよう。

「身分のもっとも卑しいものたちに対しても、正義は守られなければならないことを、われわれは思いかえさなければならないであろう。最も低い状況と運命におかれているのは奴隷たちである。かれらを日雇者のように取りあつかい、仕事をするかわりにそれに相応した報酬を与えるべきだとわれわれに注意する人々の教えは、正しいとしなくてはいけない」(『義務論』、泉井訳)。

 

それぞれの義務

近代的な憲法はなかったが、元首は元首としての義務があった。まず民衆にパンとサーカスを与えること。現代では「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を保障するということだろうか。パンが値上がりしたと言って民衆に取り巻かれてパンくずを投げつけられた皇帝もいる。人気取りのため、公共浴場にゆき、あまり見事でもない肢体をさらすこともいとわない皇帝。宫殿の修復のためたえず宴会を開いたがそれは市場の小売商人を助けるため。カピトル神殿修復に当たっては人夫たちに混じって瓦礫を担いで運んだ皇帝もいる。貧困者の救済は義務と考えられていた。義務こそが国家(レス・プブリカ)を支える基本精神だったと考えられ、その義務は国家への責任の順に重かった。元首(市民の第一人者)こそ最大の責任者であり最大の義務を負うものでなければならなかった。

 元首には元首としての義務があるように、元老院議員には元老員議員として政治参加の義務があった。元老院は政務官の総体であって閑居を放棄した人々の集合体である。だから閑居を要求するのは危険なことであった。騎士身分の者も政治参加を要求されたが閑居の権利を保持していた。もちろん一般市民には市民としての義務があった。

上述のように、最大の義務を負うのが元首(皇帝)であった。アラン・ミシェルはウェスパシアヌス帝が倹約という伝統主義の精神によって異彩を放つことになったと述べたうえで、このウェスパシアヌスやティトゥスの経済に着想を与えた主要な思想家はプリニウスであると述べている。だが経済にだけではなく、政治や思想における義務の観念、そういう政治家の姿勢をそれとなく諫言し、また同時に自己への箴言としたと思われる。献辞を添えて『博物誌』をティトゥスに献呈したのはちょうどティトゥスが元首に就く頃だった。

 

   (三)コンコルディアの心

 

ローマ生まれの女神

古代ローマにコンコルディア(concordia)という女神がいた。コンコルディアは、一致、調和、和合、協調、その他協和、平和、統一などと訳される。この女神はローマ生まれのローマ育ちである。ローマ社会では市民の数ほど神がいたという。「無数の神々、人間の徳のみではなく、悪にも対応する神々、謙遜、協和、叡智、希望、廉恥、慈愛、そして忠誠の女神というようなものがあると信じられた」という(『博物誌』)。だからコンコルディアも個人の神として生まれたのだろう。だが人気が出てくる。初めの頃、ローマ市内にいくつか祠があったらしい。何人かがそのことを書いているが不明な点が多い。

前三六七年、マルクス・フリウス・カミルス(ガリア人のローマ占領の際、独裁官としてローマを救い、ローマ第二の建国者とも言われた)は、平民でも執政官になれるリキニウス法を成立させて平民と貴族の間を調停し、その記念のためにこの女神に神殿を奉献したとオウィディウスはいうが(『祭暦』)、神話の域に過ぎないとも。それよりもプリニウスの方に信憑性がある。解放奴隷の息子グナエウス・フラウェウスはやがて造営官に選ばれ、護民官にもなった。彼は特権身分と平民身分の和解を試みが成功して、公約どおりブロンズの小神殿をコミティア(民会などの集会場)のグラエコス(ギリシアその他の使節団の特別席)の上に奉献したという(前三〇五年)。その後いくらかの変動があったのち、フォルム・ロマヌム西端の小高い地に神殿が建造され、またティベリウス帝のとき壮麗な神殿に建て替えられた。キケロが元老院議員を集めて、クーデターを企てたカティリーナ一派への弾劾演説を行ったのもこの神殿の階段の上からであった。階級間の協和(コンコルディア・オルディヌム)なくしてローマに未来はないと考えていたキケロにとって、この神殿は格好の舞台だった。

 

協調なくして・・・

 ローマ共同体のなかでの階級(身分)間の決定的な分裂を避ける智恵が働いたことについて若干付言する。よく知られていることだが、貴族たちの圧制に反抗した平民たちは何回も市の南にあるアウェンティヌスの丘に立てこもって反抗した。兵力の担い手である平民に背かれては困る貴族はそれに妥協したのである。ローマでは均衡を保ちつつ統一する政治体制が確立してゆく。各身分の内部においても微妙な均衡を作り出した。財産額、社会的責任、年齢、家柄、生活状況などに応じて職能的で開放的でもある階層秩序を構成していた。

 だが、コンコルディアの精神はローマ社会内での階級闘争を回避するための協和の精神だけではなかった。小さな氏族的共同体であったローマは、周辺の共同体との争いや協調のなかで成長した。サビニ人とのくり返される争いなどはその典型例だろう。サビニ人の女性たちを奪ったことから始まったと伝えられる戦争では、女性たちが両者の戟剣の間に割り入って和解させたという。そしてローマとサビニの二重構造の市(ウルブス)が出来上がったが、ローマ人はこの共同統治の都市の全住民の名を、サビニ人の市の名であるクレースにちなんでクィリテスと呼ぶことに同意した。それはローマ側の譲歩の証しでもあった。後にプリニウスは『博物誌』のティトゥスへの献辞のなかで、「ローマ人に捧げる」ではなく「クィリテスに捧げる」としたが、何百年後にもそういう配慮を行った。サビニ人との闘争と和解の話は伝説の域を超えないのかもしれないが、ずっとローマ社会で語り伝えられてきたには違いない。

 ローマの発展は絶え間ない内外における協調と統合の結果だった。協調なくしてはあれだけの地中海世界の統一を成し遂げることは不可能だったろう。彼らは征服あるいは統合した部族・民族・都市の人たちを同じ市民として抱え込み、カラカラ帝のときには帝国の全自由民に市民権を与えた。ローマと属州、ローマ人と非ローマ人の区別もなくした。帝政時代には多くの皇帝、いや、ほとんどの皇帝が旧属領から生まれた。人種や宗教の差別もことさらにはなかった。一神教のユダヤ人は皇帝礼拝を拒否し、自分たちを選ばれた民族と考えたが、そのユダヤ教徒はむしろ他に比べて優遇された。もちろんローマは諸種の問題を抱えていた。奴隷の存在を認めるなどはその明白な事象である。彼らの侵略的な軍事行動もそうである。しかしローマの支配層のなかに自らそれらの欠陥を自認し、自己批判・自省を加えていた者も多かった。例えばタキトゥスはブリタニアの支配において、原住民の指導者カルガクスの言を借りながら、ローマの与える自由が支配のカムフラージュに過ぎない、やがて反逆の惧れがあるとローマ人たちに警鐘を発していた。

そのようなわけで、一九世紀のフランスの歴史家ミシュレは次のように書くことができた。「歴史上のどんな時代にも、これほど人間の心が広く、寛大であったことはない・・・これほどまで階級や党派による区別・差別が忘れ去られたことはなかったと思われる」。そして、ユダヤ教から分岐したキリスト教は広大なローマのコンコルディアの土壌の中で花を咲かせた。そもそもユダヤ教もキリスト教もその信ずる神は同一だという。12世紀のフランスの神学者アベラルドゥスは、ユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒に共通な道徳を探求したと伝えられるが、そういう流れはあったのだ。だがそれがなぜ死闘を繰り返すことになるのか。すでに四世紀のギリシアの歴史家アンミアヌスは「キリスト教徒は仲間同士ではオオカミよりも残酷である」と表現したそうだが、それは三十年戦争の頃までも続くのだ・・・いや、もっと。

 フランス革命のスローガンは「自由・平等・フラテルニテ」であった。明治初期、フラテルニテを「友愛」とも「博愛」とも訳したことから、今日でも両方が用いられている。最初は「自由・平等」だけだったが、後からフラテルニテが加わったという。だがその後、一八四八年の二月革命でプロレタリアートはブルジョアジーに裏切られて大弾圧を受けた。プロレタリアートにとってフラテルニテは幻影に終わったという歴史がある。このフランス語のフラテルニテはラテン語のフラテルネ(fraterne、兄弟のように、睦まじく)からきている。それとは別にラテン語にはフィランスロピア(philanthropia)という語がある。一般的には博愛と訳される。つまり「兄弟愛」と「博愛」とは違った言葉であったが、日本語に訳せばともに「愛」という字が入る。ところがコンコルディアには「愛」は入らない。愛はなくても共同・協調・一致などはできる。愛するどころか憎んでいる相手とでも可能である。いや、むしろそのためにコンコルディアがある。前述のように、憎み烈しく戦ったサビニ人とも和解し統一した。ローマの歴史はコンコルディアの歴史であったし、その精神は一貫して人間関係の軌範となったのではないか。

 だからこそ、この女神はローマの偉大な神として祀り上げられるようになった。そして、ローマ帝国の崩壊と共にこの神殿も崩壊した。中世以降、コンコルディアは忘れ去られていたが、フランス革命のとき思い出されたらしい。パリの中心にある広場がコンコルドと呼ばれるようになったのは1795年頃とのことだが、女神として復活することはありえなかった、当然といえば当然である。遡れば、フランス革命の自由と平等の精神には古代ギリシア以来の自由と平等の思想が基盤にあったと思うのだが(ソクラテスとプラトンなどの)、だが肝心のギリシア自身にはコンコルディアの精 神は生まれなかったようだ。彼らは個人というものに目覚めたが、同じ民族同士いたずらに抗争を繰り返し、自分たちの統一した政治組織さえ作れなかった。その代わり、個性的で人間味のある神々と、『イリアス』や『オデュッセイ』のような神々の活躍する舞台を造りだした。そしてさらにその舞台を背景に絵画・彫刻・建築などで、人類が二度と創造し得ないような芸術を生み出した。

 ローマ人は文化や精神活動の多くのものをギリシア人に負っているが人間主義の精神もそうである。だがローマ人は、この点においてはギリシア人の精神を乗り越えた。ローマには人間主義の精神を現すものとしてhomo sum ; humani nihil a me alienum puto (私は人間だ。だから私は人間に関することは何一つとして私に無関係だとは思わない;紀元二世紀ローマの喜劇作者テレンティウスの言といわれる)という箴言があった。以前フランスの思想家サルトルが同じようなことを言っていたことを思い出す。そのような人間主義の精神は、西欧において、特にルネッサンス以降復活したかのように見えても、それは著しく普遍性を欠いてきたのではないか。どうしてアフリカの住民を奴隷として拉致できたのか。どうしてイスラム・ムスリムを差別できるのか。いや、それはアジア人に対してもそうである。

 

  (四)ウェルギリウスのうた

    

詩の王侯ウェルギリウス

 プリニウスはウェルギリウスを「詩の王侯」と呼んだ。そして、ウェルギリウスの肉筆は日ごろから目にしているし、キケロやアウグストゥスなどの手書きの書も日常的に見ていたという。

 ウェルギリウスの最後となった作品は『アエネーイス』だが、自分で不満足だったかどうかは知らないが、彼は亡くなる直前、原稿を焼却するよう友人に遺言していた。だがアウグストゥスは焼却を禁じ、その命令によって友人が刊行し今日にある。つまり、この書こそ明らかに『博物誌』と違って著者の死後公刊されたのである。だから献辞などはない。この件についてプリニウスは次のように書いている。「故アウグストゥス陛下は、遠慮深いウェルギリウスの意思を無視して、彼の詩を焼くことを禁じた。かくして、ウェルギリウスは自分で自分の作品を推奨したとしても得られなかったような強い称賛をかち得たのだ」(『博物誌』)。ウェルギリウスの『牧歌』『農耕詩』はローマの伝統的な素朴な田園生活を描いているが、ローマ人にそういう古来の美風を思い起こさせるため、アウグストゥスがウェルギリウスに謳わせたという説もある。アウグストゥスが彼に肩入れし、『アイエーネス』の完成を心待ちにしていたことは事実だろう。だが、なぜウェルギリウスが焼却させようとしたのか、プリニウスもわからなかったのだろう。あるいは、もっと深い意味があったのかもしれない。

 『博物誌』のなかで、農業技術、農業経営、農産物と農業製品、市場、農業と天文などは極めて重要な地位を占めている。プリニウスは大先輩であるカトーやワッロなどの著作や、同時代のコルメラの作品を重要な典拠として用いたが、同時にウェルギリウスにも恩恵を受けている。『博物誌』本文でウェルギリウスの名は六〇箇所以上出てくる。名は出さなくても参照した箇所は他にもたくさんあるはずだ。

 プリニウスの最初の著作『馬上の投槍について』は、彼が騎兵隊長をしていた頃の観察から生まれたものだ。ウェルギリウスの『農耕詩』第三歌にウマの描写がある。プリニウスはそれを評して「もっとも好ましいウマの外観はウェルギリウスの詩にまことに美しく描写されている。だがわたしもまた『馬上からの投槍について』においてそれを取り扱った」(『博物誌』)と、珍しく自著に触れている。ウェルギリウスのウマの描写は長く続くが、そのごく一部を抜書きしよう。

 

  風との競争を挑ませよ。まるで手綱から放たれたように、開けた平原を、

  地表の砂に足跡がほとんどつかぬほどに疾走させるのだ。

  それはあたかも、強力な北風が極北の地域から襲ってきて、

  スキュティアの寒気と乾いた雲をあちらこちらに拡散させるときのよう。

                                                             (小川正廣訳)

 ウェルギリウスの生きた時代は共和制から帝政に移る過度期で、抗争や内乱が絶えなかった。小農経営、自作農経営は徐々に姿を消しつつあった。ウェルギリウス自身が土地を没収され故郷を離れる羽目になった。『農耕詩』の舞台はそのような変動の時期であり、この詩の断片にもその空気は反映されている。『牧歌』第一歌の劈頭はこうだ。

 

  ティテュルスよ、君は枝を広げた橅(ぶな)の蔽いの下に横たわって、

  森の歌(ムーサ)をか細い葦笛で繰り返し奏でている。

  だが私らは、祖国の土地と親しい畑を去っていく。

  私たちは祖国を逃げ出すのだ。ティテュルスよ、君は木陰でのんびりと

  美しいアマリュリスの名を響かせるようにと森に教えている。

                            (小川正廣訳)

 これは土地を失ったメリポエウスという人物(彼自身がモデルか)が、土地を奪われなかったティテュルスに呼びかけた歌である。プリニウスの故郷であるアルプスの南に広がるガリア・キサルピナがローマ共和国に編入され、コムム(現コモ市)が自治市に格上げされたのはその頃であった。

                            

イタリアの自然

 ウェルギリウスはイタリアの美しい自然を賛美した。『農耕詩』第二歌からその箇所を再び小川正廣氏の名訳を借りて紹介しよう(『西洋古典叢書』)。

  

  むしろこの地に溢れるのは、豊富な穀物の実りと、マッシクス山の葡萄

  の酒。オリーヴと、多産な家畜の群れはここをわが家とする。

4行略)

  ここでは永遠に春であり、夏は夏でない月まで続く。

  家畜は年に二度身重になり、木は年に二度果実をもたらす。

  それに凶暴な虎や、獰猛な獅子の種族は生息せず、

(3行略)

  さらに加えて、あれほど多くの傑出した都市と、労を費やした建造物、

  切り立った岩山に人手をかけて築き上げた多数の町々と、

  古い城壁の下を流れる川。

あるいは、上の岸辺を洗う海(ハドリア海)と、下の浜に寄せる海(テュレニア海)を、

  また、あの大きな湖を語るべきか。最も広いラリウス湖よ、おまえをも?

(以下豊かな農業・農業技術、農産物、家畜などが歌い上げられるのだが省略)

 

 次にプリニウスの文章を『博物誌』三七巻から。 

 

第二の母であるイタリア、そこには多くの男が、女が、将軍や兵士たち、そして奴隷たちがおり、卓越した芸術や工芸、素晴らしい才能の富をもち(略)、健康的で温和な気候に恵まれ、(略)多くの港がある海岸をもち、穏やかな風が吹き渡るイタリア。(略)その豊富な水の供給、健康的な森林、道の通じている山々、無害な野獣たち、豊穣な土地と牧場(略)ブドウ酒、オリーヴ油、羊毛、亜麻、布、若いウシなど・・・。鉱石では金、銀、銅、鉄いずれにおいても、稼行が合法的に行なわれる限りは、イタリアを凌ぐ地はない。

 

 実はウェルギリウスは上掲の詩句の前に、メディアの豊かな大地も、美しいガンジス川も、黄金で濁ったヘルムス川(小アジア西部の)も、バクトラ(バクトリアの首都)もインドも、パンカイア島(アラビア海の)もイタリアとは栄誉を競えないだろうとイタリアを誇っているのである。故郷を追われたウィルギリウスもそう詠う境地になっていたのかもしれない。

 一方、プリニウスの上記の「イタリアを凌ぐ地はない」の後にはこうある。

 

もしわたしがインドの伝統的な驚異的事物をさし措くならば、イタリアに次ぐ地位をヒスパニアに、少なくともヒスパニアの海に接する諸地区に与えよう。というのはこの地の一部分は荒い砂漠ではあるが、それでもその生産的な地域はすべて農作物、油、ブドウ酒、ウマ、そしてあらゆる種類の鉱石に富んでいるから。ここまではガリアも同じだ。しかしヒスパニアを有利にしているのはその砂漠である。というのは、この砂漠にはエスパルト草(ハネガヤ)、かがみ石、それに奢侈品(絵の具)すらある。そこには勤労に対する刺激物があり、奴隷が鍛錬され、人間のからだが強健で心が情熱的であるような場所がある

 

 ウェルギリウスの頃はまだガリア(フランス)の向こうの地はローマ人に広くは知られていなかった。プリニウスはヒスパニアで皇帝代官を務めただけあってとても詳しい。『農耕詩』にある「最も広いラリウス湖よ」のラリウス湖(現、コモ湖)はプリニウスの故郷の地だ。従ってウェルギキウスの郷里でもあったし、また詩人カトゥルスの郷里でもあった。プリニウスは『博物誌』の最初のところでカトゥルスを「わたしの放蕩仲間」と呼んでいる。これは「同郷人」の俗語らしい。そしてカトゥルスの詩から二行を、この献辞の冒頭に載せている。プリニウスは、ローマでも突出してすぐれたこの二人の詩人を、敬愛すべき大先輩と見なしていたのだろう。プリニウスはローマ最高の詩人の詩をなぞったと思われる文を飾ってイタリアの自然を賛美し、そのような美しい地を創造した自然を称えて『博物誌』をしめくくったのである。『博物誌』の、あとから発見された部分、ほとんど最後の部分に次のような一節がある。

 

私はこう宣言する。全世界で、天空の穹窿が回転しているどこに行こうとも、イタリアの如く自然の栄冠をかちとるあらゆるもので飾られている土地はない。世界(mundi)の指導者(rectrix)であり第二の母(parens)であるイタリア」(三七201)

 

 プリニウスが賛美しているのは地理上の概念であるイタリアであって政治的概念でのローマ帝国ではない。厳密に言えばプリニウスの生誕地はガリアなのだが、彼が賛美しているのはその生誕地ガリアでもない。ローマ帝国の基礎をなしてきたイタリアである。そして次のように続く。

 

そこには多くの男が、女が、将軍たちや兵士たち、そして奴隷たちがおり、卓越した芸術や工芸、すばらしい才能の富をもち、そしてさらにその地理的位置と健康的で温和な気候に恵まれ、すべての人々を容易に受け入れ、多くの港がある海岸をもち、穏やかな風が吹き渡るイタリア。・・・豊穣な土壌と牧場・・・農作物、ブドウ酒、オリーヴ油、羊毛、亜麻、布、若いウシ、ウマ・・・鉱石では金、銀、銅、鉄いずれにおいても、稼行が合法的に行なわれている限りは、イタリアを凌ぐ土地(terra)はない。

 

 この続きでインドの驚異的事物に言及したり、イタリアに次ぐ地位をヒスパニアに与えようといったりしているのである。繰り返すが、プリニウスの念頭にあったのはローマ帝国ではなくあくまでも「全世界」のなかの一地域であるイタリアであった。だからそれがインドやヒスパニアでもあり得たのである。彼の知る世界の全地域を検討したうえでイタリアを称揚し、それに「第二の母」という栄誉を与えようと言っている。地中海世界やその周辺の地理を細かく分析した彼のいうことなので、今日のわれわれにそれを否定する根拠もない。

 そして彼はその第二の母を構成するローマびとたちの中に、わざわざ奴隷を含めた。

すでに当時、ローマ帝国は行政面でも経済面でも奴隷なしでは円滑な運営はできなくなっていたし、住民の過半数は解放奴隷かその子孫だとも言われた。プリニウス自身にしても『博物誌』を仕上げるには優秀な奴隷の秘書や書記が必要だった。だから奴隷はイタリアの富や文化の形成と栄光に大きな役割を果たしていると彼は考えている。奴隷や外国人たちは、ローマ市民権はなくてもローマびとであり、カメーナ(ミューズ)はその人たちみんなの詩の女神であると表現されているのである。だが、キケロもセネカもプリニウスも奴隷制の是非についてまでは論じていないようである。ただ、古典時代の奴隷制度が、基本的には人種や人種の差別を伴ってはいなかったとはいえる。古代ローマでは、アフリカ大陸から来た肌の色の濃い人をすべてエチオピア人と呼んだという。一羽のワタリガラスの葬儀が盛大にフォルム・ロマヌムで行なわれ、その棺を二人のエチオピア人が担いだとプリニウスは伝えている。その二人は奴隷だったかもしれないが、クィリテス(ローマ人)ではあったのだろう。

 

 

 

 

 

 

 


プリニウスつれづれ(8)『影の歴史』に寄せて

2016-11-12 20:34:01 | 日記

 

      <「『影の歴史』に寄せて ―プリニウス随想(7)」の改訂版>

 

                   (一)プリニウスとストイキツァ     

                   (二)影と鏡

                   (三)  ブタデス伝説の伝承

                   (四)絵画の東と西                       

                   (五)プリニウスの絵画論から 

 

  序 

 ヴィクトル・I・ストイキツァの著『影の歴史』(1997年、邦訳、岡田・西田訳、2008年)が出て年数が経った。この著の訳者の「西洋文化における表象に関する言説の中心に、影に関する思想が占める場所を確立しようとする試み」というストイキツァ評に動かされて素人談義を試みることにした。

 

  (一)プリニウスとストイキツァ

 

絵画の起源

 『影の歴史』の出発点はプリニウスの伝えるギリシアの伝説である。そしてこの伝説がこの書の基本テーマになっている。ストイキツァは、古代ギリシア人の間では、影と魂と分身とは互いに象徴的に結びついていたというエルヴィン・ローデ(ドイツの古典学者(1845-98)の研究を紹介して、この結びつきがプリニウスに対しても通用すればとしながら論をすすめているのである。だがこれは、ストイキツァ自身の主張でもある。これは興味ある指摘だ。それは影のない絵は魂のない絵だという問題提起であり、その考えは絵画の起源から始まっているとされる。筆者はそのローデの研究は読んでいないのでそれを評価できる立場ではないが、ストイキツァの『影の歴史』をもとに若干の私見を述べたい。この書の冒頭はプリニウス『博物誌』からの引用である。

  

<引用A> 絵画芸術の起源の問題は定かでないし、本書の計画外である。エジプト人は、それは彼らの間で六〇〇〇年前、それがまだギリシアに伝わらないうちに発明されたものだと断言する。これは確かにいい加減な断定である。ギリシア人について言えば、そのある人々は、それはシキオンで発見されたといい、ある人々はコリントスで発見されたという。しかしすべての人々が一致しているのは、人間の影の輪郭線をなぞることから始まったということ、したがって絵はもともとそのような方法で描かれたものだということである。しかし、いま少し洗練された方法が発見されて第二段階に入ると、絵画は一色(monochromaton)で描かれる単色画となり、その方法は今日でもまだ用いられている。(『博物誌』三五151)。

 

 この後すぐ、「プリニウスはもう少し起源をさかのぼりこう語る」として次の<引用B>に移る。

 

<引用B> 絵画については十分に、いや十分以上に語られた。これらの言葉に彫塑について少々付け加えることは適当であろう。粘土で肖像をつくることが、コリントスでシキオン(コリントス近くの都市)の陶器師のブタデスによって発明されたのは、あの同じ土(注:不明)のお陰であった。彼は自分の娘のお陰でそれを発明した。その娘はある青年に恋をしていた。その青年が外国へ行くことになったとき、彼女はランプの光によって投げかけられた彼の顔の影の輪郭を壁の上に描いた。ブタデスはこれに粘土を押しつけて一種の浮き彫りをつくった。それを彼は、他の陶器類といっしょに火にあてて固めた。その似像は、ムンミウスによるコリントスの破壊までニンフたちの神殿に保存されていたという・・・(『博物誌』三五151)。

 

『博物誌』三五巻の主題は絵画・画家などである。<引用A>は絵画論の冒頭部分で、それに続いてローマとイタリアの簡単な絵画史、詳しい絵の具の話、そしてギリシアからローマに至るまでの主要な画家とその作品と続く。それが終わると「絵画については十分に、そして十分以上に語り終わった」と述べ、「付け加え」として塑像に移る。その冒頭に<引用B>がくるという構成になっている。プリニウスは、<引用A>と<引用B>の時間的な前後関係は書いていない。ただ、絵画論後に彫塑論を書き、それぞれに起源を書いただけである。

しかしストイキツァは、「プリニウスはもう少し起源をさかのぼりこう語る」としてBを先にする時系列を作った。しかも彼はこの二つの伝説を結び付けて一つの物語をつくりあげた。だから読者に混乱をもたらす。しかし、そんなことは些事に過ぎない。ストイキツァは、「芸術の再現表象は一般に,もとをたどれば原始的な陰影段階にまでさかのぼることができるのだということであろう」「プリニウスのねらいは、いかなる正確な年代にもとらわれない基本的な説明を通して、この『曖昧な』起源に光を当てることにあったのである」と所見を述べている。

だがやがて、ブタデスとその娘の話は「神話」になり西欧の絵画史に伝わったとされる。一方プリニウスは、この話を絶対視して伝えているわけではないし、それが歴史的真実であるとも言っていない。ただ、たんたんとその話を伝えているだけである。絵画の始まりに関して彼は、「すべての人々が一致しているのは、人間の影の輪郭線をなぞることから始まったということ」であるとしていて、自分の主張であるとも言ってもいない。しかし後世の西洋の人たちは、この説話の中に絵画や彫塑の誕生にまつわるある種の真実味を感じとろうとしていたのだろう。だからこそ、この伝説は今日まで西欧の絵画史の中に息づいてきたのであり、一個の精神として存在している、ストイキツァが言おうとしているのはそういうことだと思う。

 

旅立つ若者                                                                   

 そもそもブタデスとその娘の伝説は、きわめて古い時代の話で、おそらくプリニウスの時代をさかのぼること数百年にもなろう。あいまいな箇所が多いのも当然である。

娘が恋した青年は外国に行こうとしたとあるが、どこへ、どういう目的で行こうとしたのか、青年は帰ってきたのか、なぜ似像を神殿に納めたのか、納めたのはいつか? プリニウスは何も書いていない。そこでストイキツァは、危険を冒しているのだがと断りながら大胆に推測する。ストイキツァの解釈は、青年は戦地へ赴く、である。今日の多くの評者は最初から戦場に赴くことを前提としているが、それは違う。ストイキツァも最初からそう決めているわけでもない。大胆な推測だというのである。推測だが合理性がある。娘はその青年と永遠の離別になる可能性が高い・・・。

 ギリシアでは優れた卓越した青年は若くして死ぬのである。ギリシア神話では数多くの卓越した青年たちが死を免れ得なかった。そして、とくに初期においては、戦死した戦士は英雄神(ヘロス)として祀られることが普通だった。ペリクレスは、サモス遠征において戦死した戦士たちは神々のように不死になったと称えた(プルタルコス『英雄伝』「ペリクレス」8)。もしそういうことならば、娘の恋人は英雄神となって娘の所には帰ってこない存在なのである。父親のブタデスの作った塑像は最初から神殿に奉納する意図を含んでいたと考えてもいいだろう。娘が恋人の面影を壁に描くにあたっては、そのようなせつない思いが込められていたに違いないし、父親はその娘の気持ちを忖度してやるほかはなかったのだ。だが、プリニウスの生きた世界は、まだギリシアとローマの神話が混交し、伝説や言い伝えが人々の心の中に浸透していた時代だった。

 少し離れた所に置かれた灯火、壁ぎわに立つ若者、壁に写る影をなぞる乙女、傍らでそれを悲しげに眺める父親、多分母親も。こういう構図が思い浮かぶ。プリニウスの説明はいたって簡潔である。そもそも言い伝え自体が簡潔だったからでもあろう。だからその情景も推測する以外ない。だがプリニウスは、ブタデスの娘が書いた輪郭線が絵画の始まりだといっているわけではない。

 

(二)影と鏡

 

プラトンの洞窟

 ストイキツアーはここで、よく知られているプラトンの『国家』における洞窟の影の話を持ち出す。プラトンの説話の大筋は次のとおり。

地下の洞窟に、子どものときから手足も首も縛られたままの囚人たちがいる。首は後ろに廻せないので洞窟の奥の方しか見ることができない。彼らの後ろの高いところに火が燃えていて、囚人たちの背中と火の間に、あらゆる道具とか石や木、人間・動物の像などがあってそれが運ばれて行ったり来たりする。囚人たちは洞窟の奥の壁に映るそれらの像の影だけを見て生きてきた。あるとき囚人の一人が縄を解かれ、立ち上がって火のある方を見よと強制される。だが彼は、以前見ていたもの(影)の方が真実であると考えるだろう・・・。

プラトンはこの洞窟の話の直前で、人間の知の領域を四つに分けて分析している。知的思惟(直接知)、悟性的思惟(間接知)、実物(確信・直接的知覚)、そして影像知覚(間接知覚)である。彼はこのうち最後のものを「下位のもの」としている。囚人たちが見たものはその最下位の影像に過ぎないのだ。そして、「絵画とは・・・実際にあるものをあるがままに真似て写すことか、それとも、見える姿を見えるがままに真似て写すことか? つまり、見かけを真似る描写なのか、実際を真似る描写なのか」と問い、「見かけを真似する描写なのです」という答を得て、「真似(描写)の技術というものは真実から遠く離れたところにあることになる」と述べ、「真似の術とは、それ自身も低劣、交わる相手も低劣、そして産み落とす子供も低劣、というわけだ・・・」と断定する。プラトンの生きた時代はギリシア彫刻、ギリシア絵画の最盛期だったのだが。だが彼にとっては絵画も彫刻も論ずる価値、存在する価値さえなかったのだろう。絵画自体を拒否したプラトンは、絵画の中に占める影などは問題にもならなかった。ストイキツァは、「西洋のイメージに関する歴史の中で影は常に否定的な要素がつきまとった」という。

 

ストイキツァは「プラトンとプリニウスは異なったことがらについて語っていて、両者はともに起源にまつわる神話を扱っており、プリニウスは芸術の起源を、プラトンは知の起源にまつわる神話を取り扱っている。ともにその中心にあるのは投射というモチーフであり、芸術(真の芸術)と知(真の知)は、ともに影を超えたところにあるということだ」と評してる。しかしプリニウスの場合は伝説であり、プラトンの方は観念的な創作に過ぎず、神話を扱ったものではない。ストイキツァは自分で神話に仕立てたのであろう。 

ストイキツァは、プラトンのこの寓話以来、影は常に否定的な要素がつきまとい、それは西洋のイメージに関する歴史の中で払拭されることはなかったと述べているし、それを例証する事実もいろいろ挙げている。ストイキツァはプリニウスとプラトン両者を較べて、プリニウスの場合は、イメージ(影、絵画、彫刻)は同一物の別のものであるが、プラトンの場合はイメージ(鏡、反射像、絵画、彫刻)は写しの状態にある同一物、あるいは分身という身分での同一物ということにあると評している。

 

ナルキッソスの愛

 ストイキツァはさらに、オウディウスのナルキッソスの伝説に触れながら、『絵画論』(1435年)の著者レオン・バッティスタ・アルベルティの言説を紹介する。「絵画を発明したのは、花に変えられてしまったナルキッソスであった」「技芸という手段を用いて、泉の表面を抱擁する行為でないなら、絵画とは何であろうか?」「鏡を抱擁することは、影の輪郭を線でたどることと明確に区別されている。ルネサンス以来、西洋絵画というものが、同一者への愛によって生み出されたものであることは明白である」という言葉などである。このあとストイキツァは、ジョルジュ・ヴァザーリ(一六世紀の画家)が、上記の「鏡の抱擁論」と「影の輪郭論」二つを調和させようと試みたが失敗したという。ヴァザーリは絵画の起源に関してプリニウスをざっと読んで、次のようなシナリオをつくったとストイキツァはいう。

 

  しかし、プリニウスによれば、この技法はリディァのギュゲスによってエジプトに導入されたということになっている。ギュゲスは火によって映し出された自分の影を見て、壁に写った自分の輪郭をすぐさま一片の炭でなぞったのである。このことがあって以来しばらくのあいだは、輪郭を線でたどるだけというのが習慣となり、そこにどんな色もつけることはなかった。

 

ギュゲスという人物は、プリニウスのこの文だけで知られていると思うが、まことに奇妙な文章である。「プリニウスによれば」とあるが『博物誌』のどこにあるか示していない。捜してみたら、『博物誌』第七巻205の事物の発明者・創始者を列挙した箇所で、「格闘技はピュテオスによって、投球技はリュディアのギュゲスによって、絵画はエジプト人によって・・・創められた」という文章に出会った。先の<引用A・B>と比べてみるといい、偽造としか言いようがない。こういう文書を論拠とすれば過ちが生じても仕方ない。

 

(三)ブタデス伝説の伝承

 

愛の伝説に 

このプリニウスの説話は、その後の西欧絵画に大きな影響を与えたというストイキツィアの論拠は、豊富な資料や絵画の紹介や分析によって示される。

 プリニウスの物語では屋内での燈火による影絵であったが、それが屋外での、あるいは太陽光での影に変えられたり、男性が女性を描くことになったり、とくに中世ではキリスト教の説話の題材に用いられたり、果てはソビエト連邦で、壁際に座るスターリンの影を一人の女性が描く「社会主義リアリズム」のパロディーに使われたり、影絵が観相学に用いられたり。画面中央に巨大に描かれた黒い影・・・ピカソの「影」という作品など・・・とてつもなく広がっていく。

 そういうわけで、この著には、プリニウスの絵画の起源に関する説話や西欧人の影に対する多様な発想が紹介されているわけだが、それはあるいは宗教的信仰に伴うものであったり、邪悪や悪魔を象徴するものでもあったりした。だがストイキツァはそれが愛の伝説であると見なされたとも言う。その例として、ルソー(1712-78)の『言語起源論』から一節を紹介している。以下はその孫引きである。

                                

  愛は素描の発明者だといわれている。愛は言葉を使って話すことも発明したかもしれないが、不幸にも愛はそれに満足せず、それを軽蔑している。なぜなら、自分自身を表現するにあたっては、しゃべることよりももっといきいきした方法があるからだ。恋人の影の輪郭を愛情込めてたどった女性は、まさに彼に多くのことを語っていた。 

 ストイキツァは、これはプリニウスの神話が愛の伝説であるとはっきり見なされた最初の例であり、輪郭をたどった影が最初期の絵画表現ではなく、愛を表現する最初期の言語として見なされた最初の例でもあるという。これは一つの解釈である。なるほど、そういう理解の仕方もあるのか。そういう理解の仕方は西欧の絵画観に変容を与えていったのかもしれない。だが、筆者としてはルソーの考えには賛同できないし、従ってそれをわざわざ引用したストイキツァにも疑問を感じる。

 

ゲーテの『色彩論』から 

 ゲーテの最も重要作品ともいわれる『色彩論』、その第三部「歴史篇」は、単なる色彩論ではなく、広く絵画論、芸術論、果ては文明論にまで及ぶ大作である。そこには、古代ギリシアからゲーテの時代までの広範な展望がある。ゲーテはこの書のプリニウスに関する部分に、友人のヨハン・ハインリヒ・マイヤー(宮廷顧問官・画家)の原稿をとりいれた。より一層の専門的知識の必要性を感じたからだろう。ゲーテは、プリニウスの著作は「原典にせよ翻訳にせよ入手するのはむずかしくない」と書いているが、彼自身は一八〇六年、『博物誌』のドイツ語訳(178188)をワイマール図書館から借り出している。

マイヤーの論文は、歴史編第二部「ローマ人」のなかに「彩色の仮説的歴史―特にギリシアの画家に関して、主としてプリニウスの報告による」と題されて採録されている。これは歴史的にみても立派なプリニウス絵画論となっている。

 マイヤーははじめに意味深長なことを述べている。彼は、この論文に「仮説的歴史」と名づけたのは、プリニウスによる報告が多くの点で実に曖昧で不完全であり、推測による説明や補足が必要だったからであるという。推測というものは、自然に無理なく生まれてくることもあれば、事柄の成り行きからどうしてもそうしなくてはならないこともある。だから、こうした推測によって補われたものは、芸術の本質にほとんど、或いは全く馴染まない報告書よりも、遙かに信用のおけるものになる・・・(南大路・嶋田・中島訳参照)と論じている。もしこのマイヤーの説を肯定するならば、ストイキツァの先の<引用A>と<引用B>との結合、それから「青年は戦場に赴いた」という大胆な推測も肯定できることになる。だがマイヤーはこの二つのことには言及せず「我々が本物の人間の影や影絵ではなく、平面上に形態を記録しようとして初めて線描画を試みたのだとしたら、これは信憑性のある説である。というのも、線描画を描くことこそ絵画の基本なのだから」という。そして、「絵画の最初の試みはきわめて古い時代にまで遡る。これくらいが確実に言える唯一のことだろう」と書いて、ブタデス伝説には触れない、もしくは無視している。その代わり次のように言っている。

  

 古代の人々の作った作品がたとえ子どもたちの努力と比べられる程度のものであったとしても、古代の芸術の創始者を稚拙な精神や未熟な精神の持ち主だと非難するわけにはゆかない。平面上に置かれた球形状の物体を描写するようになった契機、絵画へといたる最初の契機は彼らから生まれたのだから。そして最初の一歩というものはいかなるものであっても、偉大にして大事な一歩とみなしうるのである。

 

マイヤーも最初の一歩を探ろうとしている。もちろん最初に絵画とは何かという問題が立ちはだかっている。それを追求すれば困難な問題にぶつかる。原始人が洞窟に描いた狩の図を絵画と呼んでいいのかそれも疑問だ。平面に置かれた球形状の物体を描写しようとする意識の発達までには、遠い道のりがあったことも間違いないだろう。『影の歴史』は、そういう問いに一つの解答を示すことになった。プリニウス自身が絵画における影の役割に気づいていたわけではない。マイヤーはプリニウスを論じながらブタデス伝説には無関心だった。ストイキツァ自身がいうように、西欧においても、学問や芸術の起源に関する表象としての影の系統的な研究はほとんどなかったのだろう。

 ストイキツァはこの問題に関して、ドイツの画家・美術史家のヨアヒム・フォン・ザントラルト(Sandrart1606-88)の言葉を紹介している。ザントラルトは、中国人の絵は何ら陰影をもたない輪郭だけしか再現しない、量感を生み出そうともしない、空間の奥行きを表現する方法をしらない・・・と述べている。だがこの批評自体が中国絵画に対する無理解を示している。中国絵画の素材は絹布や澄心堂紙(ちょうしんどうし)のような高質紙であり、それに適った筆に墨、そこから生まれる墨画は、墨の濃淡、筆遣い、複数の線、そして対象物の配置・・・などによって量感や奥行きを表している。決して輪郭だけしか表現しないのではない。ただし中国の伝統的絵画は、形を描くのであって影を描くものでないことは事実である。ザントラルトは中国清朝の康熙帝の頃の人であり、ドイツ人としては初めて美術史を著した人だという(『西洋人名辞典』による)。彼が中国絵画に陰影がないことを指摘したことは一つの問題提起かもしれない。だが実際は、その頃には中国では影を描く手法も広がりつつあったのである。

 このザントラルトの評に対しストイキツァは「西洋美術と比べれば、中国美術は『その他の美術である』、中国美術が『異なっている』理由は、それがヨーロッパの規範を無視しているからだ」と論じている。規範とは何か、それを彼は明確に示しているわけではないが、彼の論調から言えば、影を描かないことが規範を無視しているのである。だが、そうであろうか。無視したのではなく、異なった価値観、世界観をもって生まれた絵画なのである。

 伝統的な中国の絵に西洋絵画のようなか影がないことは、ザントラルトの言うとおりである。しか上述のように、立体感や遠近感を描く方法はもっていた。その描き方は、中国人や日本人には何ら違和感をも与えなかった。ストイキツァは中国の絵は「ヨーロッパの規範を無視している」というが、絵画の規範をヨーロッパ人がつくるものでもない。アジア史家の宮崎市定によれば、むしろ規範は中央アジアに生まれたのである。だから「その他の美術」が西洋の美術であるのか中国の美術であるのか、容易に判断できるものでもない。

 

(四)絵画の東と西

 

美術史の流れ

ザントラルトにせよストイキツァにせよ、果して彼らが中国の絵画史や絵画にどれほどの造詣があったのかは知らないが、どうしても西欧中心的な見方に陥ることを避けられなかった。ずいぶん前のことになるが、宮崎市定は論文「東洋のルネッサンスと西洋のルネッサンス」で次のように論じている。人類社会を東洋、ペルシア・イスラム世界、西洋の三つと名付けるとすると、それぞれ数世紀の間隔をおいてペルシア・イスラム世界、東洋、西洋の順に文明は発展してきた。文芸復興(ルネサンス)も同じ順で経験されたが、最後に発展した西洋での文芸復興が最も成果を挙げ今日に至っている。その文芸復興の最大の成果は芸術であり、なかんずく絵画であると宮崎はいう。そして次のように論ずる。

絵画の出発はペルシア・イスラム世界である。それがやがて東は中国へ、西は西洋へと伝えられることになった。だが、絵画の技術が最初に完成したのは東洋においてである。それが後イスラム世界に入り、さらにこれとほとんど同時に西洋にも入って、やがてイタリアのルネサンス期の絵画に影響を与えた。その東洋画の初期つまり六朝から唐にわたる頃、ペルシア世界、特にササン朝ペルシアの末期は文化の爛熟時代で、絵画も中央アジア・インドから中国に影響を与えた・・・このように推測できるという。宮崎のルネサンス論の一部を引く。

 

 レオナルド・ダ・ヴィンチの人物の背景たる風景画が東洋的霊感を以て書かれたであろうことは、既にドイツ人ミュンステルベルグが、その名著『シナ美術史』の中に述べており、英人マルチンもその大著『ペルシャ・インド・トルコの密画及び画家』の中でレオナルドの東洋趣味を問題にしており、ラ・ツウレットや、ブウジナもこれに賛成している。余はこの時代の風景画の中に、東洋画家の皺法(しゅんぽう)を模した所があるかと疑い、特にドイツのデューラーの水彩画中には確かに存在していると信ずるものである。

 

そのほか宮崎は、ルネサンス以前には、しばしばマリア像が東洋人の顔立ちで描かれていることなど、いくつもの事例も挙げている。しかし宮崎は、西洋の絵画が東洋に影響を受けたことが、西洋の絵画が東洋の絵画に劣っているわけでは決してないという。西洋人には東洋人が持たない独特の技法をもったが、そこには幾何学的遠近法があり、光学的陰影法があり、解剖学の応用があったと評価している。そして西洋人が芸術眼を開き、芸術的霊感を受けたとすれば、それは東方との交通によってもたらされたものであると考える。更に宮崎は次のようにもいう。

文芸復興期のイタリア絵画史は二期に分けられ、前期の一四世紀ではジオットなどが清新な画風を吹き込んだが後継者が模倣に堕し、後期の一五世紀に入ってマサッチオ、フラ・アンジェリコなどによって清新さを取り戻し、やがてレオナルド・ダ・ヴィンチにつながってゆくと。更に、この一五世紀前半にはチムール王朝の君主シャハ・ルクのもとにいわゆるヘラット絵画といわれるイスラム密画の黄金時代が築かれ、それがイタリアの文芸復興期の時代と重なり、両者が並行して継起したと。

 

気を描くのが中国画

 旧来、中国絵画は「気」を描くのが主眼だったことを、宇佐美文理氏の『中国絵画入門』で学んだ。気は日本人にも馴染み深い。元気、気力、気分、天気、生気・・・など。だから判ったような気になりやすい。

 中国絵画は気を描くことから始まったというが、気は目に見えるものではない。当初はそれを具象化して絵のなかに現そうとした。しかしやがて、見えないものは見えないとして描くようになった。見えないものをどうやって描くのか。たとえば、見えない気の周りに、見えるものを描いて取り囲むとによって気を描くのである。西洋の都市には広場がある。本当は広場でもなく公園でもない。広場は道路も兼ねているから広場の周囲に道路はない。周囲にはそれに面して建造物があり、通常広場と称するものは建造物と建造物の間の隙間である。中国絵画に表される気は、たとえば周囲の山水のはざまにある空間で示される。建造物のはざまに広場を作った西洋人が、山と山とのはざまにある空間に気があることに気づかない不思議である。

 西洋画は、なるべくものに似せて描こうとする。プリニウスはある絵の競技会の様子を伝えている。ウマを描く競技会で、アペレス(前325年頃のギリシアの画家)はその審判員を人間からウマに変えることを要求した。競争相手の画家たちの陰謀を察知したからである。数頭のウマが連れてこられた。ウマたちはアペレスの描いたウマの絵を見て嘶き始めた。その後、競技会の審査にはその方法がとられるようになった。それが芸術家の技量を試す正しい方法であることが証明されたからだという。それに似た話は他にもある。ただしその方法が正しいとプリニウス自身が言っているわけでもない。彼はこのウマの絵を見たことがあるのだろうか? 彼はこういっている「ある絵の競技会で彼が描いたウマの絵がある。或いはもう失われたかも知れないが」。ある絵の競技会というのは、上記の競技会のことである。プリニウスはその絵を見たことがあるが、『博物誌』でそれを書くときには無事存在していたかはわからなかったのだ。そのウマの絵には影はあったのだろうか、知りたいところだ。

ところが中国人にとって大切なことは、先述のように気を描くことであったという。だから絵の対象物は、必ずしも実存物に似せて描く必要性を感じなかった。山水画を見ても、ありえない山容を描きそこに気を漂わせる。その山容や水、樹木などは、それを描く人の気によって生まれたものである。人物を描けば、その形ではなくその人物の気品あるいはその精神性、つまり気を描くのである。

山水画を例としてもう少し考えてみよう。西洋人は描く人(画家)の目で、その本人の視点で得た情景を描くが、中国人は違う。近景、向こうの山、そして遠く山、それぞれを異なった眼で眺めたように描く。西洋画は一個のレンズで写した絵だ。中国画は標準レンズ、望遠レンズ、そして超望遠レンズを使ってそれぞれの山を別々に写し、それらを一つの画面に上下あるいは左右に繋いだような絵を描く。繋ぐといってもぴったり繋ぐことはできない、だから先述のように、それぞれの山景の間に隙間ができる。どのように隙間をとるか、それは画家の手腕である。そこに白く霞を描くか、淡い霧を描くか、何も描かないか・・・。それが気を象徴する。気は本来物質ではないから表すことはできないのだが、絵の鑑賞者はその無の中に気を感じ取ることはできる。その空間に讃を書いたりする。画と書が一体となって一個の思想を形成する。画面の隅々まで絵の具を塗りたがる西洋の絵画とは大違い。だからザントラルのいう「その他の美術」ということになり、西洋人の精神とは違ったところに存在することになる・・・これは筆者が宇佐美氏の著書を読んで感じた全くの独善的な解釈に過ぎない。

 

プネウマ

西洋のギリシア・ローマの哲学、特にローマに影響を与えたストア哲学ではプネウマという概念がある。日本語に訳し難い。気息などとも訳されたりするが、日本語にある気息は息(いき)や呼吸のことであって、同じではない。無理に訳さないでプネウマとそのままにした方がわかり易いということになる。ではプネウマとは何か。ある哲学者はこういう。ストア学派によると、それは内在的なものであり世界の根源的な力である。また根源火・根源のプネウマ・世界霊とも呼ばれ、同時に世界理性(ロゴス)、世界法則(ノモス)、予見(プロノイア)、運命(ヘイマルメネ)などと言い現わされる。プネウマによって質料に形が与えられ、軌範と法則にしたがう運動が起こされる。もう少しわかりやすく表現すれば、プネウマは、無機的自然においてはただ存在するだけで、植物界においては成長の段階に高まり、動物界では魂として現れ、人間においては理性として現れる。だが、根本的にはプネウマは至るところにあり、それは物体的なものの側面に他ならない。すべては物質であり、いわゆる生命力も物質である・・・ということになる(ヒルシュベルガー『西洋哲学史』1古代、高橋憲一訳より)。これはヒルシュベルガーが、プリニウスの世界観に関連づけて説明した文章の一部である。それは中国における気とは異なる。中国人は気を描こうとしたが、西洋人はプネウマを描こうとはしなかったし、プリニウスもそんなことは書いていない。彼は輪郭の線描は描いたというが、影自体を描いたとも言っていない。影の役割などは書いていない。ギリシアの絵は多くが失われて壷絵ぐらいしか残っていない。しかしローマの絵はある程度残っている。それらの絵を見ると、巧まずして影が描かれているものがある。たとえば、先のマイヤーは「アルドブランディーニの婚礼」(前一世紀ローマの作品)を高く評価しているが、そこでの見事な陰影について言及している。だが、その陰に何か特別な精神的なものを与えようとはしていない。

 しかし宇佐美氏がいうように、「世界は気でできており、その気のはたらきによって、花が咲き葉が色づく。人間もまた気からできている。人間の心もまた気の働きにすぎない」というのが中国人の思想ならば、プネウマの思想とどう違うのだろうか。さらに氏は、中国の自然観では、現代の我々がいう自然観、つまり自然は人間に対立するものという自然観とは違い、自然の中に人間もすっぽり含まれると説明している。

古代ギリシアやローマの思想の多くはそれと同じく、人間も自然の一部分であったという。『博物誌』はそういう思想のもとで編集された。では、プネウマと気はどう違うのか。西洋の「影」は鑑賞者の誰にでも見えるし、それがその絵の主人公になったりする。しかし、中国画の「気」は士大夫・文人でないと見てとれない、感じとれないとも言われてきたが、果たしてどうなのだろうか。

 

(五)プリニウスの絵画論から

 

ブタテス伝説の真偽

 プリニウスは、自分が報告したブタテス伝説が、絵画の出発点のように扱われているのを知れば、きっと当惑するに違いない。 彼は、最初の<引用A>のように、絵画芸術は人間の影の輪郭線をなぞることから始まったとは言っている。あくまでもそれは線なのであり、影ではない。プリニウスは、これが第一段階だという。いま少し精巧な方法が発見された第二段階では一色で描かれ、それは単色画と呼ばれる。それは今日(プリニウスの時代)でも行われているという。一方で「線描はエジプトのフィロクレスあるいはコリントスのクレアンテスによって発見された。しかし最初にこれを実行したのはコリントス人アリデイケスとシキオン人テレファネスであった。これらは色彩を用いない時代の人々だ。とはいっても、輪郭内のあちこちに線を加えたという。そして、コリントスのエクファントゥスは、これらの線画に土器を粉末にしてつくった絵具を塗りつけた最初の人であるといわれている」と述べている。

 彼はこの後すぐ思い切ったことを言う。つまり、上記のような絵画技術はすでにイタリアでは完成していた、アルデア(ローマ南方の町)の諸神殿にはローマ市よりも古い絵画が今でも残っていて、たった今描いたような新鮮さを保ってきたと彼はいう。ローマ市の建設は、伝説であるが西暦前七五三年である・・・これは驚きだ。とにかくプリニウスの叙述には乱れがある。

 一方、線画ということになると、中国の伝統絵画は線画が中心だ。彩色をしても一色か二色程度、線が最重要な要素である。プリニウスは線画の重要性を下記のようなエピソードで伝えている。

 コス島出身のアペレスは、彼に先立つすべての画家、彼の後に来るべきすべての画家を凌ぐ画家だとプリニウスはいう。『博物誌』に登場する人物の中で最も多くの紙幅を費やしたのがアペレスである。そこにあるエピソードのひとつ。アペレスは日ごろからロドス島のプロトゲネスの手腕に敬意を表していた。彼は海を渡ってプロトゲネスの仕事場を訪ねたが留守だった。留守番の老女が、あなたは誰ですかと聞くと、そこにあった新しい画板に絵の具で極めて細い線を描き,この者だと告げなさいと言って去った。帰宅したプロトゲネスは、こんな完全な仕事はアペレス以外に出来るものではないと言い、今度は別の絵具を使ってアペレスが引いた線の上にさらに細い線を引いた。そして老女に、その客が引き返して来たら、それを見せなさいと言って立ち去った。引き返してきたアペレスは、自分が負けたことを恥じ、また別の絵具で、前の二線を横切って、もうこれ以上細かく書きようのないような線を描いた。再び戻ってきたプロトゲネスはそれを見て、自分が負けたことを認め、その客を捜しに波止場へ飛んで行った。そしてプロトゲネスは、この画板をそのまま後世に伝えることに決めた。

 プリニウスはこうも言っている。この画版は、カエサルの宮殿の火災のとき焼失したと聞いているが、それ以前にはわれわれは大いに鑑賞したものだ。広い画面には目にもとまらぬほどの線以外には何も描いていないので、他の多くの作品の中で一つの空白のように見えた。そして、どんな傑作よりも重んじられていたと。またプリニウスはアペレスについて次のようにも書いている。「彼は絵では表せない事物をも描いた。雷鳴、電光、雷電などで、その絵はそれぞれプロンテ、アストラベ、ケラウノボリアというギリシア語の題で知られている」。このような話を聞くとわれわれは、中国の伝統的な画法を思い出さざるを得ない。

さらにプリニウスはいう。「四つの絵の具だけが、あの高名な画家たち、アペレス、アエテティオン、メランティス、そしてニコマコスによって、彼らの不滅の作品を作り上げるのに用いられた。白はメリヌム、黄土色はアッティカの、赤はポントスのシノピス、黒は油煙である。彼らの絵はどれひとつでも一つの町全体の富くらいの値で売れるのに・・・実際、資源が今よりも乏しかった時代には、すべてが今より優れていた。その理由は、人々が今日探し求めているものは材料の価値であって、天才の価値ではないということだ」と。彼は他の箇所で、ローマの彫刻が作品の内容よりも、その素材の高価なことが自慢の種になってきたと嘆いている。絵画についても同じなのだ。

 

現代の考察

 中国でも清時代の後半になれば西洋絵画の手法が導入され、影、陰影、遠近法などを用いた絵が生まれていた。端的にいえば気を描くという伝統的な画法が凋落したようにも見える。だがしかし、今も観光客相手の土産店の店頭には、伝統的な山水図の掛け軸などがところ狭しと飾られていた。それを中国絵画の沈滞とか発展・進歩とかに結びつけることはできない。そもそも芸術に直線的な進歩というものがあったのだろうか。「古代の人々の作った作品がたとえ子どもたちの努力と比べられる程度のものであったとしても、古代の芸術の創始者を稚拙な精神や未熟な精神の持ち主だと非難するわけにはゆかない」というマイヤーの言葉を思い返してみよう。

 

人類がもっともすばらしく発育したその歴史的幼年時代は、二度とかえらぬ一つの段階として、なぜ永遠の魅力を与えてはならないだろうか? わんぱくな子供もいればませた子供もいる。古代民族の多くはこの範疇にぞくしている。正常な子どもはギリシア人であった。彼らの芸術が吾われにたいしてもつ魅力は、それが生い立つ基礎をなした未発展な社会段階の結果であって、むしろ芸術がそのもとで発生し、しかもそのもとだけで発生しえた未熟な社会的条件がけっしてふたたびかえってこないということと、不可分に結合しているのである」(カール・マルクス『経済学批判』)。

 

西洋で発達した科学は一直線に発展しているように見える。「徒歩から車、車から馬車、馬車から汽車、汽車から自動車、それから航空船、それから飛行機へ」、まさに止まることをしらない。今はこれに宇宙船を加えなければなるまい。

だが芸術はその限りではない。一直線に発展するわけではない。人間のつくった社会構造もその文明もそうである。ホメロスの時代も、史記の時代も、源氏の時代も、浮世絵の時代も帰ってはこない。「影」で陰影を深めた近代西洋絵画も役割が終わったかのように退いてゆく。縦三メートルほどもある大きなキャンバスに、白の絵の具をただ塗っただけの現代絵画を展示会で観たことがある。近年では影のない西洋画も見受けるが、この絵には「影」も「形」もない。この現代の先端を行く絵は、新しい世紀を切り開く象徴なのだろうか。「出来事の一つの周期が終わると、世界火はすべての出来上がったものを再び消し去り、それを莫大な量の燃える霧にして根源火に返し、次いで根源火は新たにもう一度それを自己の許から解き放つ」(ヒルシュベルガー前掲書)。このストア学派の理論を肯定するわけでも信ずるわけでもないが、近年の事象を見ていると、世界にとって、一つの周期が終わりつつあると思わせるものがあることも事実である。