一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

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1937年7月7日、日中戦争始まる。

2006-07-07 11:44:25 | Essay
盧溝橋 
北京市の南西郊外を流れる永定河にかかる石橋。
1192年に建造されたこの橋は、
マルコ・ポーロの『東方見聞録』に紹介されていることから、
「マルコ・ポーロ・ブリッジ」の名もある。

今から69年前、1937(昭和12)年の今日、7月7日、日中戦争開始のきっけとなった盧溝橋事件が起こった。
「北京郊外の盧溝橋で銃撃があって、日中両軍――当時は中国を支那といっていました――日支両軍が銃火を交えたという第一報が届いた時に、時の総理大臣近衛文麿は『まさか、また陸軍の計画的行動ではなかろうな』と、また海軍次官山本五十六中将は『陸軍のやつらは何をしでかすかわかったものではない。油断がならんよ』と言ったといいます。つまり上の方の人たちが、事件の第一報を聞いた時点で、陸軍の陰謀だ、また満州事変と同じようなことをやったな、と思ったのは事実のようです。」(半藤一利『昭和史』)

実際のきっかけは、単に偶発的な、日本の駐屯軍(第一旅団第一連隊第三大隊。大隊長は一木清直少佐)が盧溝橋近くで演習中に、銃弾が撃ち込まれた、という事件に過ぎない。
「最初の弾丸数発、その後の十数発については、現在の調査の範囲では、意図的か誤射かはわからないが中国軍側が撃ち込んだのは間違いないようです。国民政府軍が近くで演習中で、日本軍のいる方に撃ち込むつもりはなく、別の目標に対するはずのものがとんできたと。」(半藤、前掲書)
だから、7月9日には、日中両軍の間で停戦協定が成立、これで事件は終るはずだった。

ところが、それを拡大してしまったのが、天津駐屯の第一旅団第一連隊の連隊長、牟田口廉也(むたぐち・れんや)大佐。
「停戦協定を知らされ承知しながらも『中国側が協定を守るはずはない。危険性はかなり高い。その時に遅れをとってはいけない』と部隊に前進を命じたのです。」(半藤、前掲書)

牟田口連隊長の上官である第一旅団長河辺正三(かわべ・まさかず)少将も、その行動を無言で認可。
「部隊は命令に従って攻撃を開始しました。この瞬間に日中戦争は既定の事実としてはじまり、日本軍は攻撃に次ぐ攻撃で、宛平県城を奪取し、中国軍を完全撃破します。」(半藤、前掲書)

いわば、アジア/太平洋戦争における縮図のようなもので、現場の強硬な姿勢を上は押さえられず、先の見通しもないまま追認するというおそまつさである(おそらく、追認したことに対しての責任も感じていないのではないのか)。

これに付け加えるに、7月11日には、近衛首相は、
「今次事件はまったく支那側の計画的武力抗日なること、もはや疑いの余地なし」
として、朝鮮・満州・内地から計5個師団(7万数千人の兵力)を送ることを決定しているのである。

無責任体制は、軍部だけではなかったようだ。

参考資料 半藤一利『昭和史』(平凡社)