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最近の拾い読みから(32) ― 『戊辰戦争―敗者の明治維新 』

2006-07-29 11:40:34 | Book Review
多かれ少なかれ、戦前までの歴史観は、明治維新を正しいものとするために、必要以上に徳川幕府の制度や、江戸時代の文化を貶める傾向にあった。
そのため、幕藩体制は完全に行き詰まっていた、との評価がほとんど。

江戸文化についての見直しはあるものの、政治・経済に関しては、現在でも、なぜかほとんど変わらずに、
「幕府の外交の失敗――急激な自由化と通貨処理の失敗――は、国内政治とくに農村および開発途上にあった農村工業――それが工業の大部分であった――に壊滅的打撃を与えた。当時の飢饉もあって幕末の日本をいちじるしいインフレと経済不況におとしいれ、武士階層の生活を危殆にひんさせた。」(伊部英男『開国―世界における日米関係』)
との評価が、その典型だろう。

しかし、幕末から維新までの歴史を見ていた外国人にとっては、必ずしもそうとは言えない、との観察もあった。
幕末に来日したイギリス人ジャーナリストの J. R. ブラックは、遺著『ヤング・ジャパン』で、ほぼ次のように書いている。
「幕府のシステムは改革すればかなり使えるし、キーマンもいた。新構想*もすでに出ていた。だから、幕府が新しい政治を実施していたとしても、内戦の流血なしにできたであろう」(小島慶三『戊辰戦争から西南戦争へ』の紹介による)。

*〈新構想〉:オランダ留学帰りの西周(にし・あまね、1829 - 1897)をブレインとして立てられた構想(『議題腹稿』による)。
「慶喜は上院議長(一風斎註・諸大名による「上院」と、各藩1名の藩士による「下院」との二院制)と行政府の長を兼ねることになっている。大政奉還後に予定されていた諸侯会議が、慶喜を議長に選び、さらに新国家体制は旧幕府の行政機構を活用すると決めれば、議会制を加味した」(松浦玲『徳川慶喜』)

この路線以外にも、「諸藩連合政権」路線が選択肢としてはあった。
これは、
「公議政体論が現実化したものといえ、権力のあり方としては、天皇を形式的に頭部におき、諸侯会議が国政を決定するという形である。」

この路線は、西周・慶喜の〈新政権構想〉とも微妙に交錯する。
もし、この「諸藩連合政権」によって、一時的に西周・慶喜の〈新政権構想〉=大君独裁路線が後退したとしても、力関係によっては、元の構想へと揺り戻すことも可能なのである。
「この中での慶喜の占める位置は、諸侯会議のリーダーとなって強い権限を持つか、あるいは一大名としての立場しか与えられないか、かなりの幅があり、政局の推移、力関係によって流動的」
だったから。

しかし、倒幕派としては、上記いずれの路線も取らせるわけにはいかなかった。
なぜなら、彼らは薩長主導の「有司専制」路線をとっており、政治的な敗北は、自らの破滅を意味するからである(政治的主導権を奪われるだけではなく、軍事的な報復もありうる)。

倒幕派は、幕府を挑発しても(江戸および関東での、相楽総三による治安攪乱)、武力行使で他の路線を潰す、という手を取らざるを得ない。
時間を置けば、フランス軍事顧問団による幕府陸軍の増強整備が完成するのである。そうなれば、薩長二藩による軍事力では、幕府に拮抗できなくなる。

こうして、薩長二藩主導の、天皇権力/権威を前面に押し立てた「王政復古」クーデタが、実施されるのである。
「天皇など媒介にせず、だれがいま支配する力を持っているかについて、武家のあいだで赤裸々に争われたら、どんなにわかりやすかっただろう。武家ばかりではない。武家支配そのものに疑いを持つ下級武士や草莽層の活動も、天皇と結びつくというような厄介な思想構造を持たなければ、近世の武家支配の本質とそれへの対決という現実が、はっきりと目に映ったはずである。百姓一揆や都市の打ちこわしも、ええじゃないかも、政治目標をはっきりとつかみえたかもれない。それが、天皇などという面倒なものを引っぱり出したため、なにがなんだかわからなくなり、その混迷は、いまだに続いている。」 (松浦玲『徳川慶喜』)

佐々木克 (ささき・すぐる)
『戊辰戦争―敗者の明治維新』
中公新書
定価:本体735円(税込)
ISBN 4121004558