伊藤博文対元田永孚(政府対侍補(じほ))との対立の第一戦は、伊藤サイドの勝利に終ります。
伊藤の「教育議」への反論「教育論附議」は、論議の対象となる前に、元田自身が侍補制度の廃止によって立場を奪われ、幕を引かれてしまうのです(1879(明治12)年10月)。
元田は、侍講(じこう。天皇の知育担当教師)の「位置におしこめられ」、天皇親政運動の同志佐々木高行は宮中を去ることなります。
「侍補廃止とはかなりの荒療治だった。三条・岩倉の各大臣と大隈・伊藤以下の参議が定期的に天皇と政治問題を討議する、というのが妥協して成立した制度だが、こうした付け焼き刃に永続的な保証はどこにもなかった。機構が確立されなければならない。」
ここに問題は、憲法制定へと移り、その後の教育論争の第二戦は、思いがけない人物と元田との論戦という形をとることになります。
その人物とは、大日本帝国憲法や皇室典範の作成に関与したことで知られる、
井上毅(いのうえ・こわし)です。
話題がちょっと離れ、大日本帝国憲法に移りますので、飛鳥井雅道著『明治大帝』を離れ、次回からは八木公生『天皇と日本の近代』のご紹介をしたいと思います。
この項、おわり