一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

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倫理観と「美/醜」感覚

2006-05-06 13:02:35 | Essay
H. ボッシュ (Hieronymus Bosch, c.1450 - 1516)
『快楽の園 地獄』(部分)

"Fair is foul, and foul is fair. "
(「きれいは汚い、汚いはきれい」)
とは『マクベス』3人の魔女のせりふ(福田恆存訳)。

言うまでもないが、"fair/foul" は対になったことばで、野球ならば「フェアとファウル」だ(「野球規則」によれば、打球が「塁線」より内側なら「フェア」、外に出ると「ファウル」ということになる)。
また、スポーツでは「フェア・プレイ」'fair play' の精神などということばも、よく使われる。

ことほどさように、"fair/foul" には「正/不正」という意味がある。
しかし、その用法も、魔女のせりふのように、当然のことながら「きれい/汚い」という美醜の感覚が元になっていると思われる。

とすれば、前回述べたような「美意識」に基づく倫理観というものは、R. ベネディクトのいう「罪の文化」圏にもあると考える方が妥当だろう(全人類的なものかどうか、速断はできないが)。

もう1つの例としては、宗教を荘厳(しょうごん)する藝術がある。
普通は神を讃えるものとして、そのような藝術が生まれたとされているが、実際のところどうだろうか。
むしろ、「正/不正」という観念が「美/醜」に裏づけされているからこそ、「正」を直覚させるために「美」を必要としたのではないのか。

逆の例としては、「不正」に属する邪悪なものは「醜」の形態を取って表される。
H. ボッシュの絵画にある「地獄」は、魅力的なほど「醜い」。

さて、今「魅力的なほど『醜い』」と思わず書いてしまったが、「醜いもの」「不正なもの」に引付けられる傾きが、人びとにないわけではない。また、藝術も、宗教に帰属していた中世を過ぎると、そのような魅力をも表すようになる。

そのような時代に、「美/醜」感覚が、必ずしも宗教的・倫理的な「正/不正」観念と一対一に対応しているのではないことを語ってしまっているのが、冒頭のシェイクスピアのせりふではないだろうか。