一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

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『武家と天皇―王権をめぐる相剋』を読む。その5

2005-08-30 00:05:38 | Book Review
上述したような武家と天皇との相剋は、過去のエピソードに過ぎないのか。

その疑問には、間接的に次のような記述が答えているだろう。
江戸期の天皇は、鎌倉や室町以上にシステムのなかに織りこみずみのようにみえる。武家の首長(ないし候補)を将軍に任官し、大小の武家に官位を授与する手続きは無論のこと、東照大権現という武家の祖神形成まで、神号授与・例幣使というかたちで天皇が関わっている以上、天皇なる存在は、武家政権の不可欠の補完物であったと断定せざるをえない。

そのシステムが機能しなくなるのが、19世紀初めから始まる外国勢力の圧力である。
この事件(一風斎註・ロシアによるサハリンやエトロフ島の攻撃)が契機となって、幕府はみずからの軍事力に自信を喪失したとき、天皇の権威に依存するという体質が、ふたたびあらわれたのである。

天皇権威の回復運動(尊王運動)が、このようにして始まる。
以降、明治維新までの動きについては、よくご存知のとおり。

以下は、本書の記述から離れる。

明治政府が確立する過程で、2つの顕著な動きがあった。
1つは、天皇の権威を新政府に取り込んだシステムづくりであり、もう1つは天皇親政の復活を図る動きである。

前者は、いわば江戸幕府とは異なる形ではあるが、天皇(権威)を薩長閥の有力者が、自らの政権(権力)の中にシステムととして織り込む、という方法である。これは後に「天皇機関説」として明示されることになる。

後者は、当初は宮廷における反主流勢力(元田永孚・土方久元・佐々木高行ら)を中心にして行なわれたが、昭和に入るまで、主流となることはなかった。
これは、元田らとは関係なく、後に「昭和維新」として過激な運動となる(しかも、「天皇」を梃子とした、反主流派(隊付将校)による巻き返しとして)。しかし、江戸時代とは異なり、天皇家が、この天皇親政運動の主体となることは決してなかった(「2・26事件」における昭和天皇の反応を想起)。

と考えていくと、本書で述べられたことのスパンは、意外と遠くにまで達していることが分るであろう。
また、戦後においても、天皇(権威)は、民主国家としてのこの国のシステムに織り込まれていることを、忘れてはならないであろう(「日本国憲法」や「皇室典範」のみならず、不文律としても)。

*図は明治天皇の江戸遷都を描いた錦絵(尅斉芳年筆『武州六郷船渡』)。