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『福沢諭吉の真実』を読む。(12)

2005-08-09 00:11:24 | Book Review
「従来の研究ではしばしば『脱亜論』では日本による大陸分割政策が提唱されているとみなされてきたが、当時の読者と同様にこの時期の論説を一連のものとして読んでみると、むしろ西洋諸国からの侵略の脅威におびえる『時事新報』社説子『我輩』の姿が浮かび上がってくる」というのが、平山氏の見解である。

しかし、その『脱亜論』も同時代の読者には、「日本人の危機意識を高めるためにパターン化され何度も繰り返し掲載されていた論説の一つに過ぎなかった」のであるが、それが有名になったのは、戦後のことであると、平山氏は指摘する。

まず、今まで詳述してきた石河編纂による(今はもう「悪名高き」と呼んでもいいであろう)『福沢全集』であるが、意外なことに収録されたのは、昭和版になってからである。
真偽に関しては、「井田メソッド」によっても、平山氏の感触でも、真筆ということである。それではなぜ昭和版で初めて収録されたのか。
普通考えれば、侵略主義者としての福沢像を示すために収録された、と考えられるのだが、石河の『福沢諭吉伝』にも『脱亜論』には触れられていない。それならば、特にそのような意図もなく、真筆であるが故に石河は収録せざるを得なかった、と捉えるのが素直な考え方であろう。
逆に言えば、石河とても、発表当時の読者同様に、この論説は侵略主義者としての福沢像を示すものとは、考えてはいなかった、ということになる。

侵略主義者としての福沢像を証明するものとして、この論説を紹介したのは、前に一度触れたように、歴史学者の遠山茂樹である。その流れとして、中国文学者の竹内好、歴史学者の服部之総、思想史家の鹿野政道がいる。
これに対して、途中での転向を認めつつ、基本的に市民的自由主義者として捉えていたのが丸山真男であるが、どちらも、テキスト・クリティークなしに、我が田に水を引いている感がある。

ここまで、記事を読まれてきた方には明らかであろうが、福沢像を正しく描くためにはテキスト・クリティークを行うことが、まず必要であることを、本書は示している。
その上で描かれる福沢像が、侵略的絶対主義者であろうが、市民的自由主義者であろうが、それは各自の価値観や判断力に関わってくることであろう。
もっとも、かなりの確度で、後者に傾かざるを得ないことになることも、また自明の理であるように思える。
その意味で、本書のテキスト・クリティークを具体的に批判することは建設的であっても、それなしに、本書で描かれた福沢像を批判することは、党派的な発言としか思えないのであるが、如何であろうか。
(了)


平山洋
『福沢諭吉の真実』
文春新書
定価:本体756円(税込)
ISBN4166603949