一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

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『落語家の居場所―わが愛する藝人たち』を読む。

2005-08-22 00:00:55 | Book Review
藝人は、余計者であるといった「負け犬的コンプレックス」といえばいささか恰好がいいが、そんな屈折した表現にたよる自己主張が、逆に自己を社会から逸脱させ、あえて奔放無頼な生き方に逃避しながら、それを自分の藝へのエネルギーに転化させているように見えた。
などの、藝人論を読むと、やはり、この人〈浪漫主義者〉なんだなとの感を強くする。
ネガティヴな〈浪漫主義者〉、これがひっくり返ると、天才藝人を誉め讃えるポジティヴな〈浪漫主義者〉に変る。
例えば、こんな一節。
「古今亭志ん生は、彼の口をついて出る言葉そのものが落語であった。なにを、どうしゃべっても落語になってしまうようなところがあった。」

語り口は客観的ではあるのだが、ところどころに顔を出す、このような表現に、そのような感想を抱かせる。
いかにも「寄席はおろか日曜日に子供連れで浅草に足をむけることすらしない」山の手のサラリーマン家庭に生まれ育ち、「私立の中学に入って、放課後の肩鞄をさげたまんまの恰好で寄席をのぞくのが、ひそかな娯しみになった」経歴を持つ著者らしい。

その点、根っからの下町育ちの小林信彦や、古いところでは安藤鶴夫(父親は義太夫語り)などとは異なる(小林信彦『名人―志ん生、そして志ん朝』については、こちら)。
小林や安藤の場合、藝や藝人というものが、既に生活の中の一部としてあったため、あらためて自らに確認をする必要はなかった(強いて言えば、美意識を知的なことばで語るための努力か)。
――色川武大は、どちらのタイプなのであろうか(色川武大『なつかしい芸人たち』については、こちら)。

人気はともかくとして、若い人たちにとって、どちらが分り易いのか、といえば、矢野誠一のタイプなのではあるまいか。
なぜなら、小林や安藤には〈藝談〉にも似て、分る奴には言わなくとも分る(分らない奴には、何を言っても分らない)、といった下向きのヴェクトルを持った〈エリート意識〉があるからだ。

これから落語をまともに聴こうと思い始めた方には、矢野の一連の書物をお勧めしたい(矢野誠一『圓生とパンダが死んだ日』については、こちら)。

矢野誠一
『落語家の居場所―わが愛する藝人たち』
日本経済新聞社
定価:1545円(本体1500円)
ISBN: 4532162106