一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

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舞台音楽の楽しみ(26)―― F. プーランク『ぞうのババール』

2005-08-15 00:03:26 | CD Review
POULENC
Complete Chamber Music Vol. 5
The Story of Babar, the little elephant
(French and English versions)
L'Invitation au Chateau - incidental music
Leocadia - incidental music
(NAXOS)


象のババールというのは、ご存知のように、フランスの絵本の主人公。
画家・絵本作家ジャン・ド・ブリュノフ(Jean de Brunhoff. 1899 - 1937)が、1931年 に発表した絵本『ぞうのババール』 (L'Histoire de Babar le petit elephant) が第1作です。
元々は、彼の妻セシル・ド・ブリュノフ (Cecile de Brunhoff) が2人の息子ローラン (Laurent) とマチウ (Mathieu) に物語った話で、出版後、フランス人の子どもたちの人気者となり、7冊のシリーズとなっています(Wikipedia「架空の象の一覧」の項を参考にした)。

プーランクは、姪たち11人の子どものために、1940~45年にピアノの音楽をつけました(1962年、フランセによって管弦楽に編曲された)。

今回は、その音楽物語を聴いてみようと思います。
ちなみに、NAXOS盤には英語とフランス語との2ヴァージョンが入っていますが、単に元の形だということだけではなく、ナレーションも、ちょっと舌足らずの男の子がしゃべっている、フランス語ヴァージョンの方がいいと思います(英語バージョンは、ティーンエイジの女の子のナレーション)。

小生、英語もフランス語も堪能ではないので、"Ficelle WebSite BABAR" からストーリーを引きます。
「お母さんをハンターに殺されてしまった小象のババールは、人間の世界で優しいおばあさんに出会い、 学問、マナー、車の運転等様々なことを学びました。ぞうの国に帰ったババールは、 幼なじみのセレストと結婚、ぞうの国の王様に選ばれます。  王様になったババールは、人間の世界で学んだことを活かして「ぞうの国」の街づくりをし、ぞうの仲間たちや子供たちと様々な物語を繰り広げていきます。」

プーランクのこの音楽物語は、冒頭部分―母象が殺される所から、人間世界に行き、また象の国に帰るところまでを作品にしているようです。

プーランクの音楽は、控えめなもので、ストーリーにベタに付けるのではなく、ナレーションを邪魔しないように、また、雰囲気を高めるためだけに徹底しています。

音楽自体は、いつものように小粋かつ軽快。
戦争中なのに、というか、戦争中だからというべきか、とても世界で起っている出来事とは無関係な、音楽だけの世界をつくっているように思えます(内心で何を考え、大人として何をしていたかは別にして)。
この音楽によって、子どもたちはいかに慰められたでしょうか。

一部に過去の自分の作品からの引用のようなところが聴き取れますが、それもご愛嬌。分っている人だけが、ニヤリとすればよろしい。ことさら事挙げすることもありますまい。

あまり聴かれることもない作品かもしれませんが、過剰なところはまったくない、心慰められる楽曲ですので、プーランク好みの方にはご一聴をお勧めします。

   
きょうのJuncoさんのお勧めは、
 Stravinsky: "Renard(きつね)"
「象」→「きつね」と「動物つながり」ですな。

例によって、コメント欄もぜひご覧くださいまし。



それぞれの8月15日

2005-08-15 00:02:20 | Essay
昭和20(1945)年8月15日。
ラジオが正午の時報を告げた。
「ただいまより重大な放送があります。全国の聴取者のみなさまご起立願います」
和田放送員のアナウンスに引き続いて、下村総裁が、
「天皇陛下におかせられましては、全国民に対し、畏くもおんみずから大詔を宣らせ給うことになりました。これより謹みて玉音をお送り申します」
との言を発した。

「君が代」が流れる。
曲が終わり、昭和天皇の放送が始まった。
「朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セント欲シ……」

内田百間は、上着を羽織り、隣家のラジオの前に坐っていた。
天皇陛下の御声は録音であったが戦争終結の詔書なり。熱涙滂沱として止まず。どう云う涙かと云う事を自分で考える事が出来ない。今日の新聞は右の放送後に配達せられる事になり時間が遅かったので今暁の空襲の記事あり。来襲のB29は二百五十機にて福島新潟関東及び東北の各地に焼夷弾攻撃を加え又昨日は大阪広島へも二百五十機が来襲している。(内田百間『東京焼盡』第五十六章)
この日も、東京に空襲はなかったものの、全国各地への空襲は続いていたのである。

千葉県の叔父の元にいた安岡章太郎は、山梨県の身延まで買出しに行くべく駅まで出た。
市川駅までくると、また空襲警報が出て、しばらく駅の構内で足止めをくったが、十二時少し前に解除になった。僕は、最初の上り電車に乗ったが、亀戸までくると、車掌が臨時停車するから乗客は全員下車するようにと言いに来た。焼け落ちて屋根もないプラットフォームの電柱にスピーカーが着けてあり、乗客はそのまわりに集った。
 初めて聞く天皇の声は、雑音だらけで聴き取り難かった。それが終戦を告げていることだけはわかったが、まわりの連中はイラ立っていた。突然、僕の背中の方で赤ん坊の泣き声が聞こえ、頭の真上から照りつける真夏の太陽が堪らなく暑くなってきた。重大放送はまだ続いていたが、母親は赤ん坊を抱えて電車に乗った。僕も、それにならった。(安岡章太郎『僕の昭和史 I 』)

鎌倉在住の高見順は、黒い灰を目撃する。
黒い灰が空に舞っている。紙を焼いているにちがいない。――東京から帰って来た永井君(永井龍男)の話では、東京でも各所で盛んに紙を焼いていて、空が黒い灰だらけだという。鉄道でも書類を焼いている。戦闘隊組織に関する書類らしいという。(高見順『敗戦日記』八月十六日)

成蹊学園の高校生(旧制)だった宮脇俊三は、米坂線の今泉駅前で、玉音放送を聴いた。放送が終わると、女子の改札係が列車の到着を告げた。
坂町行きの列車がホームに入ってくる。
彼は、
「こんなときでも、汽車が走るのか」
と信じられない思いだった(宮脇俊三『時刻表昭和史』『私の途中下車人生』)。

宮脇が驚いたように、国鉄内部でも8月15日に、混乱はなかった。
上野駅前の焼け残りの街はいつもと同じで静かだった。人通りも車もほとんどなく、走っているのは都電だけだった。夕方、私は広小路まで新聞を買いに行った。舗道に折りたたみの台を置いた売り子から新聞を買った私は、読みながらゆっくり帰った。西郷さんの銅像の下は高い石垣だったが、その前の舗道を歩きながら私は朝日新聞一面の、『戦争終結の大詔煥発さる』『畏し、万世の為太平を開く』『国体護持に邁進』『新政厳たり随順し奉る』『大方針決した刹那の尊きその光景を拝察する時』『われわれは皇国に生を享けた感激に鳴かざるを得ない』という字を読んだ。(向坂唯雄『機関車に憑かれた四十年』)
しかし、翌16日になると一転して、
十五日すぎの乗務員交番はもうめちゃめちゃだという。運休するダイヤもあるし、出てこない乗務員もいるし、発車時間になったらそのへんにいる者をつかまえて乗せる感じで、誰がどのダイヤに乗ったか、分っちゃいない。(同上)
すでに、《戦後》の混乱が始まっていた。

16日の新宿は、
きのうは自粛していた尾津組の露店が、きょうは表の電車通りに沿って立ち並び、そのまわりに盛り場の活気めいたものが、何とはなしに漂っていた。(中略)
 もう一度、表通りにもどって、焼ける前のおもかげの残っていそうな店を探しながら歩いていると、伊勢丹が店をあけているのが眼についた。べつに買い物をする気はなかったが、通りを横切ってなかに入った。勿論、ロクな商品らしいものは何もなかった。昔、呉服ものや洋服生地が並べてあったショーウインドウには、水に濡れるとすぐ紙のように溶ける代用繊維の作業衣やカッポウ着が、陰気に所在なげにブラ下がっているだけだった。(安岡章太郎『私の昭和史 II 』)
世田谷の陸軍病院では、陸軍軍曹中井英夫が、腸チフスの疑いで入院していた。彼は、8月15日に起ったことも知らぬまま、高熱による昏睡状態で9月まで過ごすことになる(中井英夫『彼方より〈戦中日記〉』)。
彼が目を覚ましたとき、見知らぬ《戦後》はとうに始まっていたのである。

*写真は濱谷浩の撮影した昭和20年8月15日の太陽。
「コノ日マコトニ晴天雲悠々 寫眞機ヲトリテ、コノ太陽トコノ雲ヲワケモワカラズ寫シテイタ」