中国語学習者のブログ

これって中国語でどう言うの?様々な中国語表現を紹介します。読者の皆さんと一緒に勉強しましょう。

于丹 《論語心得》 3.処世之道(1)

2011年06月01日 | 中国文学

 “豪猪的哲学” ヤマアラシの哲学とは? ―― 本文参照のこと。


 中国師範大学・于丹教授の《論語心得》の第三話は、処世の道、人間関係についてである。キーワードは、“過憂不及”、「過ぎたるは尚及ばざるが如し」。

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  (クリックしてください。中国語原文と語句解説が見られます)
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□ 現代の社会は、人と人の関係がより近くなったと言えるし、より疎遠になったとも言える。しかし何れにせよ、対人関係は全ての人ひとりひとりが対面する問題である。公正でない待遇を受けた時、私たちはどのような気持と態度を保たなければならないのか。自分と親しくなった人に対し、私たちはどのような原則を持たなければならないのか。入り組んで複雑な社会環境の中で、私たちはどうしたら対人関係をうまく処理できるのだろうか。《論語》という本は、私たちに多くの処世術や礼儀作法を教えてくれる。これらの道理は見たところたいへん素朴で、これらの方法は時には原則の中に多少の融通も垣間見えることがある。簡単に言うと、それが私たちに語るのは、物事を行う原則と、原則を保つ上での頃合いである。 
 私たちはしばしば、「こういう事はやるべきだ、こういう事はやってはならない」、或いは「これは良いことだ、これは良くないことだ」などと言う。しかし実際は、多くの場合、一つの事を判断するのに、決して簡単に「べき・べからず」、「良い・悪い」の区分をすることができない。いつこの事を行ったか、この事をどの程度行ったかが、この事の性質に直接影響を与える。孔子は物事を行う頃合いを特に強調しており、「やり過ぎ」と「不十分」は極力避けるべきとする。孔子は仁愛を提唱しているが、彼は決して原則を失した仁愛の心で全ての人の過ちを許すべきとは考えていない。

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□ ある人が尋ねた。「徳を以て怨みに報いるは、如何。」孔子の回答は、「直(率直さ)を以て怨みに報い、徳を以て徳に報いる。」孔子が出した回答は、私たちはちょっと聞くと意外に思うかもしれないが、実はこれは正に孔子が私たちに教えてくれる処世の「頃合い」なのである。孔子がここで提唱しているのは一種の人生の効率と人格の尊厳である。彼はもちろん怨みで以て怨みに報いるのは賛成でない。もし永遠に一種の悪意や、一種の怨恨で以て別の不道徳に対するなら、この世界は悪性の循環に陥り、それが止まったり休んだりすることがなくなる。私たちが失うものは、自分の幸福に止まらず、子孫の幸福も失ってしまう。徳を以て怨みに報いるのも同様に採用できない。つまり、恵みや慈悲を与え過ぎても、値打ちの無い思いやりで自分がするに値しない人や事に対するのは、ある意味、人生の浪費である。これら二つの他に、三つめの態度がある。それは、公正で、率直で、正直で、大らかで細かい事にこだわらない態度。つまり、高尚な人格で、平然と一切の事に対することである。孔子のこうした態度は、私たちに、限りある思いやりの心、限りある優れた才能を、最も使うべき所に残しておくべきであると、教えてくれる。
 今日、私たちは誰でも資源の浪費を避けようと言うが、心の荒廃と自分自身の生命エネルギーの浪費に注意していない。物質文化の繁栄、生活テンポの加速は、より一層、私たちが一つの事に対処するのに、迅速に判断を下し、自分のできる、最も価値のある生活方式を選択するよう求めている。

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 □ 私たちは生活の中でしばしば次のような困惑に陥ることがある:父母の子供に対する関心、愛情は至れり尽くせりであるのに、しばしば子供の反感を招く。昵懇(じっこん)の間柄の親友であるのに、しばしば互いに傷つけあうような事態になることがある。時にはいろいろ知恵を絞って上司や同僚と親しくなろうと思うのだが、しばしばその反対の結果になることがある。どうしてそうなるのか。どのような関係が「良い関係」と言えるのか。孔子は、疎遠すぎるのも親密すぎるのも良くなく、いわゆる「過ぎたるは尚及ばざるが如し」であると考えた。どうして二人の間が大変親密であるのが、人と付き合う最も良い状態ではないというのか。
 孔子の弟子の子遊はこう言った。「君に事(つか)えるに数(たびたび)すれば、斯(そ)れ辱められん。朋友に数(たびたび)すれば、斯(そ)れ疎(うと)んじられん。」(《論語・里仁》)“数”shuo4は「しばしば」という意味である。もしあなたが用事があっても無くてもいつも国王(或いは上司)の傍に居るなら、如何に親しみを表しても、自分が辱めを受ける可能性が大いにある。あなたが用事があっても無くても友人の傍に居るなら、たとえ親密に見えても、あなた方二人が疎遠になる可能性が大いにある。

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□ ある哲学的な寓話があり、その名を《ヤマアラシの哲学》という。ヤマアラシは、体中に鋭い刺(とげ)が生えており、集団で寄り集まって暖を取って冬を越す。彼らは群れの中でどのような距離を保てばよいか分からず、お互いが離れていると、互いに熱気を受けることができないので、いっしょに寄り集まる。一旦寄り集まると、鋭い刺が互いに体を刺すので、また間隔を開けて離れる。しかし離れ過ぎると、皆がまた寒く感じる……何度も失敗を繰り返し、ヤマアラシ達は遂にちょうどよい距離を見つけ出す。それはお互いが傷つけ合うことのない前提で、群れ全体が温かさを保てる間隔である。
 私たちの今日の社会、とりわけ都市では、元々の寄り合い住宅は撤去され、集合住宅が建設され、中庭を挟んだ一軒が餃子を作ると、隣近所にお裾分けするなどという事はもうなくなってしまった。同じ敷地の隣人同士一緒に年越しをすることはもうなくなり、大人、子供それぞれ別々にテーブルを持つようなご時世である。一つの集合住宅に三四年住んでいても、隣近所を全て知っている訳ではないということがしばしばある。周囲の人との交流が疎遠になったことにより、人と人の間のコミュニケーションの障害が益々増えてきている。こうした障害が多くなると、どうなるのか。自分たちが信頼する数人の友人の身にかかる負担が更に重くなる。あなたはこう感じるかもしれない。私の親友は私にもう少し良くするべきだ。私も彼にもう少し良くするべきだと自覚している。あなたはこう感じるかもしれない。あなたの家で何かプライベートな事件が起こったら、例えば夫婦喧嘩をしたら、どうして私に言ってくれないの。私はあなた方の間を仲裁してあげる。多くの人は皆このように考えている。
 皆さんは真剣に子遊のこの言葉に耳を傾けるべきだ:「君に事(つか)えるに数(たびたび)すれば、斯(そ)れ辱められん。朋友に数(たびたび)すれば、斯(そ)れ疎(うと)んじられん。」距離が近すぎると、必然的に他人を傷つけてしまう。それでは、どのように友人と付き合うべきなのか。

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□ 子貢は嘗て彼の師の孔子に質問したところ、孔子はこう答えた。「忠告して善く之を道(みちび)く。可(き)かざれば則(すなわち)止む。自らを辱められること勿れ。」(《論語・顔淵》)友人が正しくない事をしているのを見たら、真剣に忠告し、善意で指導するべきである。しかし、もし彼がそれを聞いてくれないなら、仕方がない。それ以上説得する必要はない。さもないと自分が厭な思いをする。だから、親友とお付き合いするのも節度がなければならず、どんな事でも一切合財引き受けてしまってはならない。


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