中国語学習者のブログ

これって中国語でどう言うの?様々な中国語表現を紹介します。読者の皆さんと一緒に勉強しましょう。

沈宏非のグルメ・エッセイ: 麺条=体つきがすらりと美しい

2010年07月20日 | 中国グルメ(美食)
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               体つきがすらりと美しい(“条順”)

 《随園食単》で、袁枚は麺(中国語で“面条”)を“点心”類に入れている。顕かに、麺はメイン・ディッシュでなく主食でもなく、正餐の間の空腹を満たすためだけのもので、食い意地を抑える(“圧圧饞念”)一種の「しばし心を引き立てる」(“且点心”)、心に火をつければ役目の終わる(“点到為止”)美食である。

 しかし、“点”の字はそれを用いて麺と“心”の間の関係を表現するのにはふさわしくない。麺の形状から言っても、麺の美味しさから言っても、それと私の心の間は気持ちが絡み合い(“纏繞”)、三日経っても家の梁の周りを回り続ける(“繞梁三日”)ほど印象の強いすばらしい音楽のようで、たいへん「心を惑わせる」(“繞心”)。成都の人は美女のことを“粉子”と呼び、美女の尻を追ったり(“追美女”)美女といちゃつく(“泡美女”)ことを“繞粉子”と言う。この“繞”の字も、私の麺に対する感情を表現するのに適している。

 加工された日常の食物の中で、その姿形がすらりとして(“苗条”)、しなやかで美しい(“婀娜”)ものといったら、先ず麺を挙げる。麺の前身は、大きくてぶくぶくした(“臃腫”)小麦粉の固まりであるが、切断されることで、“面”から細長い筋(“条”)になり、驚くべき艶めかしい変身を遂げる。だから麺(“面条”)は小麦粉の最も美しい、最も科学的な直線的な展開(“延展”)である。

 70年代の北京の隠語(“黒話”)の中で、美女の評価を高度に濃縮して四文字にした。“盤正条順”。いわゆる“盤”とは“臉盤”、つまり「顔立ち」、「顔の輪郭」を指し、“条”とは“身条”、“身材”、つまり「体つき」のことである。“盤正条順”は見たところ、“名正言順”(「名分が正当であれば、道理も通る」という意味の成語)の焼き直し(“脱胎”)のようである。しかし、“正”の字は決して“正確”の“正”ではなく、“端正”の“正”でもなく、今日言うところの“正点”(定刻、定時)の“正”に近い。“順”の字に至っては、体つき(“身材”)がしなやかで、すらりと美しく(“苗条”)、流線型の曲線を指すに他ならない。麺も同じで、重要なのはこの“順”の字で、“順”は麺の外見(“外在”)であるだけでなく、更にその最も重要な食感(“口感”)であり、まさにこの独特の“順”が、私たちが麺を食べる時、食事の時は本当は出してはいけない、ズルッ、ズルッと続けざまに発せられる快楽の音を、思いのまま(“放肆”)発せさせる。或いは、一人の悪魔の体を持った美女が、“順”繰りに人々にスルッとものを啜る(“吸溜”)音を聞かせると言う。

 もちろん、タンメン(“湯麺”)か、それとも“撈麺”(たっぷりの湯で茹でた麺を湯から引き揚げ、どんぶりに盛って、その上から具や餡をかけたもの)か、箸で食べるのか、或いはフォークで食べるのか、これらの要素は“順”対し、たいへん大きな影響を与え、様子がすっかり変わってしまう(“面目全非”)場合さえある。例えば、スープの無いスパゲッティーは、元々タンメンのあの「美人の風呂上がり」のほんのりと火照った様(“春色”)が欠けているが、更にフォークで巻き取って食べるので、“順”、つまりズルッ、ズルッとリズミカルに食べる快感は少しも無く、どんなに言ってももぞもぞと歯にからみつく(“糾纏不清”)ドーナツ(“軟麻花”)を頬張っているような感じである。それに比べると、嘗てイタリアの貧しい人々が手で麺を引き伸ばし、高いところから「吊るして」口に入れていた食べ方の方が、却って“条”、つまり麺のすらりとした美しさを感じることができる。また、広東人の作る麺はすこぶる不味い。ひょっとすると広東語ではどんな“麺条”mian4tiao2も単に“麺”minと呼ぶのと関係があるのかもしれない。

            人それぞれの麺に対する見方(“面面観”)

 《随園食単》の“点心単”(点心のメニュー)に挙げている麺には、“鰻麺”、“温麺”、“鱔麺”、“素麺”、“裙帯麺”の五種類がある。「墨を金の如く惜しんだ」(“惜墨如金”)のか、それとも「麺を墨の如く惜しんだ」(“惜麺如墨”。明らかに“惜墨如金”を踏まえたしゃれ)のか定かでないが、全体に少なすぎるような気がする。

  袁枚は八十二歳まで生きたが、行ったことのある場所が少なかったわけでなく、食べたことのある麺はきっと上の五種にとどまらないだろう。それでもこの五種だけを《食単》に収めた由縁は、郷土の習慣や個人の好み以外に、これらの選ばれた麺にはそれぞれ他に比べられないほどすばらしいところ(“独到之処”)があるのだろう。しかし、私はまた、五つの麺には共通点があることを発見した。それはつまり、これらを作る上で、スープやかけ汁(鹵)の役割が何れもたいへん強調されているのである。「鰻麺……鶏のスープは澄んだものを之に加え、鶏の汁、中華ハムの汁、キノコの汁に入れて煮る」「素麺は、先ず前日に干しキノコを水で戻して煮出した汁を澄ましておき、翌日にこのだし汁に、麺を加えて煮立たせる。」ここまで書いてきて、ひょっとすると自分でも偏りに失している(“失之偏頗”)と感じたのかもしれない。そこで一筆を加えた。「およそ麺を作るに、総じて湯(スープ)の多いを佳とし、碗中を望んで麺の見えざるを妙とする。寧ろ食い畢わりて(麺を)再び加えれば、以て人をして佳境に入らしむ。此の法は揚州にて盛んに行われるが、恰も甚だ道理有り。」

 もう一人、清代の美食家、李漁は、袁枚より百年余り前に生まれた人で、祖籍は浙江、生まれは江蘇で、この二人の生涯の「麺食生活区域」はほとんど完全に重複し、人生に対する態度も瓜二つ(“如出一轍”)である。然るに、彼らの麺に対する態度は大きく異なり、轅(ながえ)を南に向け、車を北に走らせているかのようである(“南轅北轍”)。李漁は《閑情偶寄》の中でこう批判して言った。「北人は麺を食するに多く餅にし、予は細長く分けて、一本一本はっきりさせるのを喜ぶ。南人のいわゆる‘切麺’がこれである。南人が切麺を食すに、油塩醤醋を調味料とし、皆麺湯の中に下す。湯に味あり麺に味無し、これ人の重きが麺に無く湯に在る所、むしろ未だ嘗て麺を食さず。」

 李漁は言うばかりでなく、言ったことを実行に移し、彼は二種類の上述の理論に基づく麺を発明し、一つは“五香”と名づけ、一つは“八珍”と号した。その重点は、麺を切る前に「醤油、酢、胡椒の粉、すりゴマ、筍を茹でたりシイタケを煮たりエビを煮た煮汁」、及び「鶏、魚、エビの肉……と新鮮な筍、シイタケ、ゴマ、サンショウ(花椒)の粉末」を悉く麺の中に練り込んだことで、目的は、「諸物を調和させて麺に帰し、麺は五味を備え湯は独り清し、此の如くしてはじめて麺を食すは湯を飲むにあらざる也。」

                        梨花帯雨

 タンメン(湯麺)の忠実な擁護者として、私は、袁枚は李漁より数段優れていると信じざるを得ない。

 麺について言えば、麺自身の味も当然たいへん重要である。しかし、小麦粉自身を除き、すなわち小麦自身の品種と品質以外で、麺の重要な売り物はすなわち噛み応え(“咬勁”)であり、上述の要素を除き、咬み応えはまた麺、切麺、煮麺の技巧により決まる。麺の味わいは、主にスープから汲み取られる。これと同時に、スープはまた麺固有の芳香と融け合う。このように、スープと麺は、柔鋼取り交ぜ、一箸のスープの滴り落ちる麺は、梨の白い花が雨を帯びるように(昔、白楽天は《長恨歌》で、楊貴妃の泣く様を梨の花に落ちる雨の滴に譬えた)美しく艶めかしい。

 したがって、「人の重きが麺に無く湯(スープ)に在る」の説はその根拠の片面を失い、却って「人の重きが湯に無く麺に在る」かのようであり、「麺に五味を備え湯は独り清し」と言うのも独りよがりである。私たちの一碗の美味しい麺の要求は、全てを兼ね備え、麺は美味しく、スープも美味しく、かくの如くしてはじめてタンメン(湯麺)は二つながら素晴らしく、功徳円満である。科学的、市場的角度から見ても、湯(スープ)と麺の“一体化”の優勢は抜きんでている。

 もちろん、乾麺、和え麺(“拌麺”)、上海冷麺、新疆の“大盤鶏”(鶏肉とジャガイモを炒めて甘辛く味付けした料理)の中のあの「幅広の」麺も、たいへん美味しい。しかし私はわざわざ他のものを麺に入れて食べるのは嫌いである。広東人は湯麺も乾麺もうまく作れない。却って李漁の教義を継承、発揚させ、技量を全て麺に何かを混ぜ込むことに費やし、蝦子麺、鮑魚麺といった俗悪な麺を作り出した。

 湯麺に対する態度では、李漁が一方の極端とすると、張愛玲は別の面で極端である。すなわちスープは好きだが麺は食べない。「私はちょうど湯麺が一番嫌いだ。‘スープはたっぷり、麺は少し’(“寛湯窄麺”)が好く、(麺は)いっそ無ければ一番好く、ちょっと麺の風味が残っていれば、スープは清々しく、より濃厚になる……杭州で旅行ガイドが皆を楼外楼に連れて行き、螃蟹麺を食べるよう手配した。当時、この老舗の料理屋はまだ上海のレストランのように‘大衆向け’でなく、値段は低く抑えられ、手抜きや材料のごまかし(“偸工減料”)で質も落ちていた。この店の螃蟹麺は確かに美味しかったが、私はやはり具だけ食べて、スープを飲み干したところで箸を置いた。自分でも、大陸の今の情勢下でこのように自然の物を無駄にする(“暴殄天物”)ことは、罰当たり(“造孽”)なことをしていると感じた。」

 私の家の部屋に書きつけ(“帖子”)がある。「湯麺を食べる時は、必ず特大のどんぶり(“海碗”)を使い、どんぶりの縁はできれば自分の顔より大きいこと。五官が燻されて湯気が立つほど熱々になり、ズルッ、ズルッと麺をすする感動が顔を伝って立ち上る。

                         南人北相

 袁枚が記録した麺は、皆南派で、基本的に江蘇、浙江の二省を出たことがない。麺は何れにせよ北方起源の食物であり、李漁が《閑情偶寄》の中で言っているように、「南人は米を飯とし、北人は麺を飯とするが、常なり」。

 もし袁枚の文章が関を越えて、都、北京の官吏になっていたら、彼は北方人の主食である麺を“点心”に入れることはなかったし、そうすることはあり得なかったろう。北方人の日常生活の中で、麺を点心と見做すことはあり得ないし、貧しい人について言えば、それは一種の精緻を称えることのできる麺食である。それと同時に、北方の麺は日常的で、たいへん普及しているだけでなく、スタイルや種類もたいへん多く、山西省一省だけでも、麺の種類は百を超え、当地の家庭の主婦は「三百六十日、毎食の麺食が重複しない」という腕前(“本領”)がある。もし袁枚が三十三歳で「官を辞し郷里に帰」っていなかったら、《随園食単》に収めた麺食メニューは五種類だけということはあり得なかったろう。

 したがって、江蘇・浙江一帯の中国で最も美味しい麺を盛んに生みだす由縁は、第一に、広義の南方に在って、上述の地区は戦乱の災いと運河による船上輸送の便により、歴史上、中国の北方の精緻な文化の最も奥深く、最も持続的な影響を受けたこと。第二に、北方の麺がはじめて南渡し、江南の精緻な飲食はまた最初のうち、「北の麺」の薫陶を受けた。この故に、呉越の麺は実に「北人の顔を持った南人」(“南人北相”)と称えることができる。

 反対に北方に残った麺で、比較的代表的な北京の炸醤麺を例にすると、文人が「雪のように白く柔剛整った手打ち麺。四月の柳の若葉のような緑鮮やかなキュウリの細切り。卵、さいの目に切った豚肉、キクラゲ、マッシュルーム、黄韮を油で揚げた味噌」といった修辞でこれを賛美したとしても、私個人の経験で言うと、南城の“老北京”人の家であろうと、東城の五つ星ホテルであろうと、炸醤麺は何れもたいへん不味い。そして特に不味いのは、その味噌である。

 ネット上で広く流布している長編小説「包子・麺大戦」の中で、炸醤麺を主人公とする一節があり、ここでもう一回繰り返して、北京人を怒らすことを恐れなければ、「さて、小籠包は訳も無く殴られてから極めて不愉快で、肉まん、小豆餡の包子、近い親戚の餃子、遠い親戚の月餅といっしょに、仇を取りたいと思った。死のうと思っても死ねず、道で炸醤麺に出会った。皆は取り囲んで、炸醤麺を息も絶え絶えになる(“半死不活”)まで殴りつけた。帰り道に皆は小籠包に言った。「あなたは本当にそんなに麺を恨んでいるのですか。あんなに半殺しで片端(かたわ)になる程殴るのだから。」小籠包は言った。「本当は、私もただ適当に何発かかましてやれば良いとしか思っていませんでした。彼がなんと全身に大便を塗りたくっているなんて思いもしませんでした。そのようにしていれば、私が恐れをなして彼を殴らないと思ったのかもしれません。うまいことを考えついたもんです(そうは問屋がおろさない)。このような意気地なしな奴を見て、私はかっとなり、殴りだすと、抑えが利かなくなりました……。」  

 実際には、炸醤麺が最も不味いという訳ではない。広東人の麺、とりわけあのワンタンメン(“雲呑麺”)のような物を口にすれば、本当に「なんて悲惨な人生に直面しているんだ」と叫びたくなる。

                       ラーメン(“拉麺”)

 蘭州ラーメンは既に一杯の麺から神話になってしまい、流行(はやり)の言い方を真似るなら、ラーメン(“拉麺”)は蘭州の「町(都市)の名刺」である。

 蘭州ラーメンとほとんど同時期に神話になったのは、日本のラーメンである。蘭州と日本は、地理上は遠く離れていて、両地の飲食文化は更に全く異質であるが、しかし、この二つのラーメンと、その形成するラーメン文化の間には、微妙に似たところがある。

 蘭州ラーメンと日本のラーメンは何れも湯麺であり、「濃厚スープ」(“重湯”)の麺で、何れもスープの味が勝っている。前者は牛肉や羊の肉からスープを採り、後者は醤油、味噌、豚骨、及び澄んだスープを四つの基本的なスープのベース(“湯底”)としている。もちろん、牛肉、ネギ、ニンニクの芽(“蒜苗”)、香菜、唐辛子を除き、蘭州ラーメンの材料や名称は日本のラーメンのように多くはない――このような喩えをすることができる。蘭州ラーメンを“Windows”とするなら、日本のラーメンは“Linux”のようなものである。後者は基本コードが完全にオープンなプラットフォームで、およそ思いつく材料なら、何でも加えてやることができる。この意味において、日本のラーメンは実は集団創作の成果のようなものである。

 日本ドラマ(“日劇”)とSonyを除き、日本人のものの絶対多数は、中国よりもたらされたと信じられており、ラーメンも例外ではない。ある説によれば、中国拉麺は三百年余り前に日本に上陸したと言われている。当時、“反清復明”を一心に唱えた中国人、朱舜水(字は魯璵、舜水と号す。明浙江紹興府余姚県の人。南京松江府の儒学生)は七度海を渡り、長崎で資金を集めたが、事成らずの已む無しに至り、1659年、長崎に寄寓した。水戸藩第二代藩主、徳川家康の孫、水戸黄門は儒学を熱愛するあまり、一年の時間を費やし、家臣を派遣し、三顧の礼をとり(“三顧茅廬”)、遂に朱舜水を招聘し江戸水戸藩邸宅に客居させた。朱老師は水戸黄門に儒学の講義をしただけでなく、彼に中国の麺を食べさせた。《朱文恭遺事》の記載によれば、朱舜水は自ら厨房に立ち、水戸黄門のために作ったのは、“藕粉扁条麺”、つまりレンコンの粉で作った平たい麺で、スープは豚肉と中華ハムを煮出して作ったものであった。

 もう一つの説は、現代日本のラーメンは日本に居住した浙江籍の華僑、潘欽星が大正時代(1920年代初期)に創始したと言われている。

 何れにせよ、蘭州ラーメン、日本ラーメン、呉越湯麺、及び、李漁、袁枚、朱舜水、潘欽星という既に亡くなった江蘇・浙江人の間には、ある種の麺が結びつける関係が、歴史と美味の霞の間に隠れているように、私には感じられる。

【原文】沈宏非《飲食男女》江蘇文藝出版社2004年から翻訳