中国語学習者のブログ

これって中国語でどう言うの?様々な中国語表現を紹介します。読者の皆さんと一緒に勉強しましょう。

莫言: 講故事的人 (物語を語る人)[4]

2012年12月16日 | 中国ニュース

  莫言のスウェーデンアカデミーでの講演、第4回目です。原文は、以下にリンクを貼っておきます。

http://culture.people.com.cn/n/2012/1208/c87423-19831536-4.html

  自らの生い立ちから、自分の作品と、延々と自分のことを述べてきたため、さすがに聴衆の気持を気にしてあやまっておられますが、それはともかく、現実の社会の問題そのものを述べると小説ではなくルポルタージュになってしまう。小説は人間を描くべきだ、という指摘は、おもしろいと思います。

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  作家の創作過程には、それぞれ特徴がありますが、私が書いた本一冊一冊の構想、インスピレーションが触発された点も同じではありません。ある小説、例えば《透明なニンジン》は夢で見たことが基になっています。ある小説、例えば《天国のニンニクの芽の歌》は現実の生活の中で起こった事件を発端にしています。けれども、夢で見たことを基にするにせよ、現実を発端にするにせよ、最後は個人の体験と結合してはじめて、鮮明な個性を持ち、無数の活き活きとした、細かいディーテルまで刻まれた典型的な人物の、言葉が豊富で多彩で、構造に創意工夫が凝らされ、個性的な文学作品に変わるのです。特に申し上げておきたいのは、《天国のニンニクの芽の歌》の中で、私は本物の講談師を登場させ、本の中で重要な役柄を演じてもらいました。私はたいへん申し訳ない気持ちで、この講談師の実名を使わせてもらいました。もちろん、彼の本の中での全ての行為はフィクションです。私の書いたものの中では、このようなことがしばしば起こります。書きはじめの時には、私は彼らの実名を使うことで、一種の親近感を得ようと思うのですが、作品の完成後に、彼らのために名前を変えてあげようと思っても、もうそれは不可能だと感じるのです。ですから私の小説の中の人物と同名の人が父を捜し出し、不満を漏らすということがありましたが、父は私の代わりに彼らに謝ってくれました。けれども、同時に彼らにそれを真に受けないようアドバイスしてくれました。父はこう言いました。「彼は《赤いコウリャン》で、最初にこう言いました。「おれの親父のあのヤクザ者」。でも私は気にしません。あなた方は何を気にするのですか。」

   私は《天国のニンニクの芽の歌》のような社会の現実にごく近い小説を書く時に、直面する最大の問題は、実は社会の暗黒現象を批判する勇気があるかどうかではなく、ここで燃焼させた激情や怒りのために、政治が文学を押し倒してしまい、この小説がある社会の事件のルポルタージュになってしまうことです。小説家も社会の中の一員なので、当然自分の立場や観点があるのですが、小説家がものを書く時には、必ず人間の立場に立って、全ての人を、人として描かなければなりません。

  このようにしてはじめて、文学は事件を発端としても事件を超越することができ、政治に関心があっても政治を超えることができるのです。おそらく私が長い年月苦しい生活を送ってきたので、私は人の性に対して深い理解をすることができます。私は、本当の勇気とは何かが分かりますし、本当の憐憫とは何かも分かります。私は、どの人の心にも、是非、善悪をはっきりと決められない朦朧とした部分があり、この部分こそ、正に文学家がその才能を展開すべき広大なフィールドなのです。この矛盾に満ちた朦朧とした部分を、正確に、活き活きと描きさえすれば、必然的に政治を超越し、優秀な文学的な素地を備えることができるのです。

  だらだらと休みなく自分のことを述べた作品は、読む者をうんざりさせますが、私の人生は私の作品と密接に関連しており、作品を述べずして、話のしようがないと感じています。だから、その旨お許しいただきたいと思います。私の初期の作品では、私は現代の講談師として、文章の背後に隠れています。けれども、《白檀の刑》という小説からは、私は遂に舞台の背後から舞台の前に飛び出しました。もし初期の作品は自分で独り言を言って、読者を無視していると言うなら、この本からは、私は自分が広場に立って、たくさんの聴衆を前に、様々な脚色をしながらお話をしているように感じています。これは世界の小説の伝統であり、わけても中国の小説の伝統であります。私は嘗て積極的に西洋の現代小説から学び、また嘗ては様々な叙事のスタイルを弄んだことがありますが、遂には伝統に回帰したのです。

  もちろん、今回の回帰は永遠不変の回帰ではありません。《白檀の刑》の後の小説では、中国の古典小説の伝統を継承し、また西洋の小説技法も借りた、混合の文体です。小説の領域のいわゆる新たな創造とは、基本的にはこうした混合の産物なのです。本国の文学の伝統と海外の小説の混合だけでなく、小説とその他の芸術ジャンルとの混合でもあり、ちょうど《白檀の刑》であれば、民間の演劇との混合であり、私の初期の幾つかの小説であれば、美術や音楽から、とりわけ雑技(曲芸や軽業)の中から栄養分を吸収しているのと同様です。


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