中国語学習者のブログ

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頤和園史話(5)

2024年03月23日 | 中国史
万寿山周辺、昆明湖の景観

 昆明湖の万寿山の前山に面して、東宮門内の宮殿区とは異なる形式の一組の建物群がある。ここは清代の最高統治者が盛大な典礼を行い、神に向かい仏を拝む場所であったので、殿宇は壮麗で、高閣が空高く聳え、更に石の壁が切り立ち、勢いが荘厳で、設計上、園全体の要害の高地で、園内で最も雄壮で豪華な建築群である。ここは昆明湖畔の雲輝玉宇牌坊から、順に排雲門、排雲殿、徳輝殿、佛香閣、更に山頂の智慧海まで、一本の明らかな中軸線を構成している。

 この中軸線の中部にある 排雲殿は、慈禧が誕生日を過ごした時に、皇帝と群臣のお祝いを受けた場所で、またこの建築群の中で最も堂々とした殿堂である。その前身は、清漪園時代に乾隆が彼の母親の長寿祝いに建てた大報恩延寿寺の大雄宝殿で、1861年英仏連合軍の砲火で破壊され、1887年の再建後、排雲殿と改称された。排雲殿は宗教的な建物である 佛香閣の下にあり、また正に封建地主階級の「君権神授」(君主の権利を神が授けた)思想を体現していた。



排雲殿

 排雲殿の後ろ側には、高さ60数メートルに達する基壇がある。これは平らに削られた巨石を山に沿って積み上げ、見る者に、切り立ってそびえ立ち、壮麗な感覚を与え、八角三層、四重の軒を持つ佛香閣は、この基壇の上に鎮座している。その全身は金色を散りばめ色鮮やかで、頂上部分は八角の尖塔で、色調や形体は一般の宗教建築の紋切り型の規範を超越している。佛香閣の前に立って欄干から四方を眺めると、湖の水面がきらきら輝き、遠くの山が幾重にも重なり合い、好天に恵まれれば、南東の北京城の風景もかすかに見ることができ、本当に見る者を良い気持ちにさせる。佛香閣の西側には小さなあずまやがあり、この建物は梁、棟、窓、たる木、瓦から佛案に至るまで、皆黄銅の鋳物で作られていて、それで人々に「銅亭」と呼ばれている。これは一種のたいへん独特な建築手法である。万寿山の最高地点に位置する智慧海は、全てレンガを積んで作られていて、全体に一本の木材も使っておらず、それゆえ「無梁殿」とも呼ばれている。これは清漪園が焼かれた後、残された数少ない乾隆年間の建築物の一つである。


佛香閣


銅亭


智慧海

 もし万寿山の前山は気迫のある建物が良いと言うなら、その後山は清らかで物静かな風景が優れている。ここは、山道がぐるぐる回り、古松がまっすぐ立ち、水の澄んだ蘇州河の水が山すそをくねくねと流れていた。川に沿ってゆっくり歩くと、山が窮まり水が尽き、柳が鬱蒼と茂る中、花がぱっと明るく咲いていた。この川のほとりには、元々他に売買街、蘇州街など川に沿って建物が建てられていて、江南の水郷の独特の風情を再現していた。当時、慈禧はここを遊覧し、宦官たちに商人に扮させ、川べりで呼び売りをさせた。彼女は気が乗ると小さな腰かけに座り、これらにわか商人と値段交渉をし、虚々実々にものを買ったりした。これらの建物は1860年と1900年の帝国主義侵略軍の二度の破壊を経たが、1986年に再建された。


蘇州街

 万寿山の南側は、人々が心惹かれる昆明湖である。昆明湖は青い波が起伏し、絵のような景色で、自らの自然の美でこの地の景観に無限の魅力を加えただけでなく、北京の水利開発史上重要な地位を占めてきた。早くも10世紀初め、昆明湖の前身は、西山の諸泉の流れが集まってできあがった甕山泊で、これは北京北西郊外の貯水量最大の水源であった。しかし地形の影響により、ここの水は北東を経て清河に流入し、北京城とは何の関係も無かった。後に封建帝王が北京に建都し、都市用水の需要は益々増大した。金朝は一本の水路を掘削し、水を甕山泊から北京(当時は中都と呼ばれた)に引いたが、水量が限られ、効果はあまり大きくなかった。元朝になり、有名な学者で大科学者である郭守敬が実地に調査測量し、名を白浮堰と言う人工の大堤を設計、修築し、先ず北京北西の全ての山泉をひとつに合流させ、甕山泊に引き入れ、その後泊の水を北京城に引き、城内の用水問題の解決に成功した。しかし、もし昆明湖を北京城最初の人工ダムと呼ぶのも、あまり名誉なことと言えなかった。もちろん、北京の水源を解決する措置として、昆明湖はとっくに今日の需要を満足することができなかったが、景勝地遊覧の面から見て、ここは依然として観光客たちが最も愛し、遊びにふけって帰るのを忘れる景色のひとつである。

 昆明湖沿岸の景色も、丹念に設計され、景観の配置もたいへん趣があり、適切である。とりわけ湖の西岸を南北に貫く西堤と堤の上の六本の橋は、全て杭州西湖の蘇堤を真似て作られた。その中で最も有名な玉帯橋は、全体が真っ白で、高く聳えるアーチ形の橋身はハスの群生と緑の柳の間に突き出ていて、遠くから見ると、あたかも青い玉盤上の一粒の真珠のようである。陽春3月、堤の歩道の上に、枝垂れ柳が水面をかすめ、緑の柳がもやを含むのが見え、本当に江南の水郷に身を置くような感じがした。西堤と堤の上の柳の枝は、巧妙に頤和園西側の塀を隠し、こうしてあたかも園全体の景観が尽きることなく、西側の折り重なる遠くの山と玉泉山上の塔影が皆視野に納まり、画面の中にあるかのような感覚がした。これは、正に中国伝統の造園芸術の中の「借景」手法が成功し、独自の境地に至ったものだ。


玉帯橋

 昆明湖の北西の岸辺には、漢白玉石で作られた大船、石舫(せきほう)がある。これは元々乾隆時代に清漪園用に作ったもので、慈禧が頤和園を再建した時に、元の船台の上に二層の西洋式の楼閣を増築し、現在の姿になった。慈禧は更に建て直した石舫にめでたい名前をつけ、「清晏舫」(せいあんぼう)と名付けた。その意味は、大清朝の山河が永遠に安定し太平であることを希望するというものだった。しかし、歴史は無情なもので、遂には清王朝を歴史のゴミだめの中に掃き入れてしまった。


石舫

1950年代初め、国家の経済建設がまだ完全には回復しておらず、財政収支がたいへん困難な状況下、人民政府は専用の予算を配分し、頤和園の修復を行った。人々がもっと明確に頤和園の過去を理解できるよう、園内の大多数の殿堂や遊覧区は、当時のまま陳列や配置を回復させた。1961年、国務院は正式に頤和園は第1期全国重点文物保護単位に属すると発表した。

 今日の頤和園は、生気にあふれ、万象新たである。万寿山の前や、昆明湖の上には、世界各地から来た旅行者や中国の民衆が一緒に休暇を過ごす光景が見られる。


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