慈禧在頤和園仁寿殿前
三、園外の情勢(風雲)と園内での歳月(春秋)
頤和園の完成後、西太后慈禧は毎年大部分の時間を園内に居住して過ごすようになった。一般には旧暦4月に頤和園に入り、10月に誕生日を過ごすと、紫禁城の宮廷に戻った。彼女は頤和園に来る度に、大勢の女官を随員として連れ、前方では道を開けるよう叫び、後ろでは彼女を取り囲んで守った。途中通過したところでは、「水を街に撒き、黄土を道に敷き」、当地の役人が跪いて出迎えた。慈禧は頤和園内で湖や山で遊び、芝居や音楽を楽しみ、6、70歳の老婆は、時には観音菩薩の舞台衣装を引っ掛けて写真を撮って楽しんだ。
しかし、もしこの権威欲の亡者が一心にここで「頤養天年」(身体を休め、天寿を全うし)、国事を問わないかと言うと、それは大間違いだった。実際は、慈禧は頤和園で暮らしていたが、彼女の心腹爪牙(腹心)の大半は朝廷内の重臣で、依然として国家の実際の権力を握っており、朝廷内の政(まつりごと)は大小を問わず、やはり頤和園内で政に「復帰」した太后が首を縦に振ってはじめて有効と認められたのである。このように、頤和園は実際には清代の最高権力の決裁センターになっており、1896年以降の清末の歴史上のどの重大事件にも、ほぼ全てここが密接に関係し、国内外の政治の舞台の上で、どの政治上の変化も、ここの湖のほとりや山のふもとで痕跡を残したのである。
人々の記憶になお新しいのが、先ず1898年(光緒24年)、慈禧が頤和園内で指揮を執り、中国近代史上に積極的な意義と深遠な影響を残した戊戌変法運動を残酷に鎮圧したことである。
甲午戦争(日清戦争)の失敗後、北洋海軍は全滅し、「馬関条約」(下関条約)での領土割譲、賠償金支払いという、一連のこの上もない恥辱は青天の霹靂の如く、幅広く中国の民衆を政治的に目覚めさせた。ごく短い時間内に、「4億人が一斉に涙を流し」、救国の声が国の内外で叫ばれ、生存を図ろうとの議論が北京中に広まり、早くも1870-80年代にはもう維新思想が密かに流行し、間もなくそれが変法、革新を要求する激しい波濤に発展した。1895年(光緒21年)5月2日、広東の挙人、康有為が、各省から北京に入った挙人1300人余りを率い、連名で光緒帝に上書し、戊戌変法運動が幕を開けた。この時、若い光緒帝も、民族の危機、国家の悪運に揺るがされ、彼は康有為が上書の中で提起した政治主張に賛成し、朝野の有識者の支持と実行の下、1898年(光緒24年)6月11日、国家大政方針を確定する詔書を公布し、正式に変法を宣言した。この日から同年9月21日に慈禧が政変を発動するまで、合計103日の期間が、歴史上言われる「百日維新」である。
変法の開始以後、光緒の頭の中ははっきりしていて、朝政の実権は相変わらず頤和園に隠居した慈禧の手中にあり、変法の成果を少しでも得ようと思っても、最後は慈禧の意向によって決められるのである。このため、光緒は変法の百日の中で、12回頤和園に出向いて慈禧にご機嫌をうかがい、太后のお伴をして「駐蹕」(ちゅうひつ。帝王が行幸中に一時乗り物をとどめること)し、彼女の賛同と支持を得ることを希望した。而して朝廷内のあくまで祖宗の定めた決まりを守るべしとする保守派の大臣たちも、再三頤和園に飛んで行って、慈禧に光緒の行状を告げ口し、甚だしきは涙を流しながら太后に「垂簾聴政」の復活を訴え、光緒の「不軌」(違法)な行為を制止せよと断固として要求した。
しばらくの間、紫禁城から頤和園までの20里余り(10キロほど)の道を、変法を決意した皇帝と、変法に反対する大官僚が互いに往き来し、たいへん賑やかであった。総じて、人々は頤和園に注目し、園内にいる慈禧に注目することとなった。
而して慈禧本人は、この時極めて平静で、沈黙を保っていた。この封建保守派の親玉は、如何なる進歩的意義を持った改革にも極端な恐懼(きょうく)と憎しみの心理を抱き、光緒が実行した変法に対し、彼女はとっくに甚だしく憎しみ、ただ甲午戦争敗戦後の国内輿論の圧力に迫られ、また国際的にとりわけ英米帝国主義の光緒へのある種の支持により、彼女はまだ直ちに関与するのは具合が悪かったので、それで更に狡猾な一手を打ち、これを「欲擒故縦」(完全にとりこにするため、まずわざと放つ。後で手綱を引き締めるために、まずそれを緩める)と呼んだ。
頤和園に挨拶に来た光緒に対し、彼女は黙って顔色ひとつ変えず、いかにもわざとらしく世話を焼き、祖制に背かない限り、国事は自分で決裁ができた。光緒の行状を告げ口に来た保守派の大臣に対し、彼女は見ていないか、或いは見ても明確な態度を示さず、ただ「笑って語らな」かった。泣いて出て行こうとしない者がいると、彼女は厳しく責めて言った。「おまえはなぜこんな余計なお節介を焼くのか。道理でわたしの見立てはおまえに及ばない訳だ。」
その実、深思熟慮を重ねた慈禧は、とっくに密かに手はずを整え、兵を準備し将校を派遣していた。彼女は先ず、光緒の先生で、光緒が自ら政(まつりごと)を執行するのを支持していた大学士(清代の大学士は、中央の最高官署である内閣の長官である)、翁同龢(おうどうわ)を故郷へ帰らせ、朝廷の中で光緒を支持する勢力の力を削いでいた。続いて、また全ての二品以上に任命された全ての官吏に命じて、頤和園に来て太后の面前で恩に感謝させ、人事の大権を抑えた。最後に、彼女は自分が信任する栄禄を文淵閣大学士兼直隷総督(清代の総督は、最高の地方長官で、一省或いは二、三の省の軍事、民政の重要事項を統轄した。直隷は、今の河北省全体とそれに隣接する河南、山東、内蒙古の一部に相当する)に任命し、北洋軍隊を統率し、軍権を掌握した。こうして、光緒は実際は依然として慈禧が掌中でいつでも取ることのできる獲物で、「その跳躍に任」されてはいたが、結局のところそこから逃れ去ることはできなかった。
光緒は四方至る所に潜んだ殺意を感じた。9月16日、頤和園玉瀾堂で、当時天津小站で北洋新軍を訓練していた袁世凱を引見し、彼になんとか救い出してくれるよう要求した。9月18日、変法派の譚嗣同はまた光緒の密書を帯て袁世凱に会い、彼に栄禄を殺し、変法運動を救うよう要求した。1898年9月21日早朝、慈禧は栄禄の報告を受けると、直ちに頤和園から宮廷に戻り、再び朝政に臨むことを宣言し、積極的に変法に参与していた譚嗣同ら六人を残酷に殺害し、光緒までも頤和園玉瀾堂に投げ込み(城内にいる時は中南海の瀛台に幽閉した)、慈禧の「階下囚」(囚われた捕虜)とした。戊戌変法運動はこうして失敗に帰した。
1900年(光緒26年)、義和団運動が爆発し、慈禧は頤和園内で自ら指揮を執り、先ず利用し後で扼殺(やくさつ)する手段を取り、義和団に対して血生臭い鎮圧を行った。後に、八ヶ国連合軍が北京に迫ると、慈禧は光緒を連れて慌ただしく西安に逃れ、頤和園は再び侵略者の魔の手に落ち、最初にロシア軍の破壊を受け、その後イギリス、イタリア軍駐屯の兵舎となった。
1901年(光緒27年)、慈禧は慶親王奕劻(えききょう)と李鴻章を表に立て、八ヶ国連合軍と、中国近代史上最も屈辱的な『辛丑条約』を締結し、4億5千万両の銀子の巨額賠償、その他の条件を代価として、帝国主義勢力の保護下でその反動統治の地位を維持することができた。慈禧は一度損をしたことで、売国の技を学ぶようになった。列強各国の銃剣の下で自分の玉座に安心して座っているため、彼女は何があっても帝国主義を頼みとし、「中国の国力に依り、できるだけ列強を歓ばせる」という旗印を掲げ、全面的な売国活動を始めた。頤和園は、また各種の活動の重要な拠点となった。
1902年、慈禧は西安から北京に戻ってすぐに、咸豊帝時代以来の皇帝、皇太后は外国使節に会わないという前例を破り、正式に各国の北京駐在使節を引見した。彼女は外交を主管する外務部に示唆し、毎年3、4月と8、9月を外国使節に頤和園を遊覧してもらう日と規定した。これより、これら使節と彼らの夫人などの家族が頤和園に出入りする「常連客」となり、しばしば慈禧に「湖の遊覧」、「招宴」などの名目で、頤和園に招待され、園内で遊覧した。同時に、慈禧はまた自分の身辺の婦女子、公主、格格(清代の貴族の女子の呼称。位は公主以下)たちを外国大使館での宴会に参加させた。西洋の招待客のご機嫌を取るため、頤和園内での外国使節招宴で出す料理は園内の厨房では作らせず、特に北京城内の外務部に頼んで西洋料理のレストランの厨房で作った料理を運ばせた。その出費は巨額、宴会はたいへん豪華で、遂には西洋料理を得意とする料理人の余某はこれにより立身出世し、彼は「家財が富み栄え」、「宮廷とつながり、富豪たちと通じ」、ひいては「料理人界の大総統」と呼ばれるようになった。
慈禧が外国公使夫人を接見
ことばのコミュニケーションの利便のため、慈禧は人を上海に派遣し、フランスから帰国していた清政府駐フランス公使の裕康のふたりの娘、徳齢、容齢を頤和園に招聘し、「御前女官」に任じ、専ら慈禧が外国使節やその夫人を引見する時の通訳をさせた。
1903年、アメリカ駐華公使エドウィン・ハード・コンガー(Edwin Hurd Conger。康格)夫人がキャサリン・カール(Katherine Carl。卡尔)という女性画家を紹介し、宮廷内で慈禧の肖像を描いた。
キャサリン・カール
慈禧は元々人に肖像を描かれるのを好まなかったが、西洋の大人の推薦であるので、二つ返事で承諾した。事前に取り決めて、絵はアメリカに送られ、外国人の面前で彼女の「聖容」を展示することになっていたので、慈禧はこの画家をあれこれと可愛がった。「御前女官」、容齢が後に書いた『清宮瑣記』での回想によると、このアメリカ人画家は清朝宮廷内の決まりを知らず、頤和園内をあちこち勝手に走り回っただけでなく、慈禧が暮らす楽寿堂の前の樹木に実った、誰も恐れ多くて触れることのなかった果実を摘んで食べ、彼女のお伴で控えていた人はびっくりして冷や汗をかいたが、慈禧はそれを知っても別に怒らず、却って笑って言った。「彼女に食べさせればいいわ。」
慈禧は一心に自分が永遠に若さを保つことを切望し、この点は彼女がカールの絵の中で満足した。なぜならカールは彼女を正装し華やかに化粧した姿で描き、あでやかな姿が目の前にあるかのようであったからである。慈禧は大清朝の領土が永遠に保たれるよう望んだが、この望みはかなわなかった。清朝の統治者が帝国主義者たちと頤和園で賑やかに交わっている時、広範な民衆たちは日一日と覚醒し、彼らは、中華民族がこの半世紀以来受けて来た虐げは、その根本が全て腐敗し尽くした清封建王朝にあり、清朝の反動的な統治者たちが投降的な売国政策を行ったからで、中華を振興するには、清朝の反動統治を打ち倒さねばならなかった。それで、中国近代史上の偉大な辛亥革命がはぐくまれ始め、最後には爆発したのだった。
カールによる慈禧肖像画
辛亥革命は皇帝を宝座から追い出し、中国で2千年以上続いた封建専制制度を終結させ、同時に頤和園を皇室の庭園とする200年の歴史を終結させた。しかし、当時の北洋軍閥の首領、袁世凱と清皇室が締結した条件により、頤和園は依然位を降りた宣統皇帝溥儀の所有に帰した。1914年、この庭園は彼の私有財産として、切符を売り開放した。1924年、溥儀は天津に逃げ、頤和園は当時の北京政府が受け継ぎ管理し、公園に改めたが、入場料はたいへん高価で、一枚の入場券の価格で当時は数十斤の小麦粉を買うことができ、しかも北京城から比較的遠く、また便利な交通手段も無く、したがって一般の庶民は依然として行くことができなかった。
これ以後の数十年、頤和園はまた日本帝国主義や国民党政府により接収された。
頤和園が民衆の手に戻ったのは、1948年12月、人民解放軍の砲声が北京城外にゴロゴロと響いた時で、頤和園は先ず北京市に入り、新たに生まれ変わった。万寿山の東麓の景福閣で、人民解放軍の代表と国民党の有識人士が歴史的意義のある話し合いを行い、北京の平和解放の協議が成立した。
頤和園の歴史に、新たな1ページがめくられた。
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