蘇味道
今回は、「摸棱两可」móléng liǎng kě(「模棱两可」と書くこともあります。発音は同じ)です。『旧唐書・蘇味道伝』に出てくる話です。
唐朝的时候,有个士人叫苏味道。这人的文才不错,在当时颇有点名气,做了多年的官,甚至还做了几年大官。苏味道的名字能够流传下来,不在于他这个名字的稀奇,也不是由于他做官时有什么“德政”,而是因为他有一个饶有风趣的绰号,“苏摸棱”。
tángcháo de shíhou,yǒu ge shìrén jiào sū wèidào。Zhè rén de wéncái bùcuò,zài dāngshí pō yǒu diǎn míngqì,zuò le duō nián de guān,shènzhì hái zuò le jǐ nián dàguān。Sū wèidào de míngzi nénggòu liúchuán xiàlái,bù zàiyú tā zhè ge míngzi de xīqí,yě bù shì yóuyú tā zuò guān shí yǒu shénme “dézhèng”,érshì yīnwèi tā yǒu yī ge ráo yǒu fēngqù de chuòhào,“sū móléng”。
唐の時代、蘇味道という名の読書人がいた。この男の文才はすばらしく、当時はたいへん名が知られていて、長年役人を務め、特に何年かは大官に任じられた。蘇味道の名前が広く知れ渡ったのは、彼の名前が珍しかったからでも、彼が役人時代に何か「善政(徳政)」を行ったからでもなく、「蘇摸棱」(どっちつかずの蘇)というユーモラスなあだ名が付けられたからである。
蘇味道(648-705年)、今の河北省石家庄市の出身です。20歳の時、科挙の試験で進士に及第します。則天武后の時、中書侍郎、吏部侍郎(「侍郎」は次官)にまで登りましたが、則天武后の強権政治に対し、保身のため、誰からも恨まれないよう、日和見を決めて立ち回るようになりました。蘇味道はまた詩人としても名高く、初唐の詩壇で活躍した「文章四友」のひとりで、律詩の発展に貢献しました。
彼の四人の息子のうち、次男の蘇份は、蘇味道の死後、四川省眉山に移り住みました。その九代の子孫から出たのが、宋の蘇洵、その子が蘇軾(蘇東坡)、蘇轍の兄弟で、彼ら「三蘇」の故居が、現在の三蘇祠です。三蘇祠には、眉山蘇氏の始祖として、蘇味道の画像が祭られています。
四川省眉山・三蘇祠に祭られた蘇味道像
这个绰号是怎样得来的呢?原来,苏味道做人处世是本着这样一个信条,即“处事不欲决断明白,若有错误,必贻咎谴,但摸棱以持两端可矣”。这就是说:处理一切事情都不要明白地下决断,否则一旦有错误,就必定会招致上级的责备和处分,所以只要含含糊糊,不明确表态就可以了。
Zhè ge chuòhào shì zěnyàng dé lái de ne?yuánlái,sū wèidào zuò rén chǔshì shì běnzhe zhèyang yī ge xìntiáo,jí “chǔshì bù yù juéduàn míngbái,ruò yǒu cuòwù,bì yí jiù qiǎn,dàn móléng yǐ chí liǎngduān kě yǐ”。Zhè jiù shì shuō:chǔlǐ yīqiè shìqíng dōu bù yào míngbái de xià juéduàn,fǒuzé yīdàn yǒu cuòwù,jiù bìdìng huì zhāozhì shàngjí de zébèi hé chǔfèn,suǒyǐ zhǐyào hánhanhúhu,bù míngquè biǎotài jiù kěyǐ le。
このあだ名はどのようにして付けられたのだろうか。蘇味道が身を持し、世渡りするのは、ひとつの信条に基づいていた、すなわち、「事を処するに、決断明白を欲せず。若し錯誤あらば、必ず咎(とが)、譴(せめ)を貽(のこ)さん。但し摸棱にして以て両端を持せば可なり」というものだった。これはつまり、一切のものごとを処理するのに、明確に決断をしてはならない。さもないと、ひとたび間違うと、必ず上司からのとがめや処分を受けないといけない。それゆえ、あいまいにしておき、はっきりとした態度を示さないようにしておきさえすれば良いということだ。
由于苏味道实践了上面的这些信条,对任何事情从来都不作主、不负责,也从不得罪人,一味看上司和皇帝的脸色行事,因此,他虽然为官多年,但政绩平平,没有任何建树。
Yóuyú sū wèidào shíjiàn le shàngmian de zhè xiē xìntiáo,duì rènhé shìqíng cónglái dōu bù zuò zhǔ,bù fùzé,yě cóng bù dé zuì rén,yī wèi kàn shàngsī hé huángdì de liǎnsè xíngshì,yīncǐ,tā suīrán wéi guān duō nián,dàn zhèngjì píngpíng,méiyǒu rènhé jiànshù。
蘇味道はこうした信条を実践したので、如何なる事にも自分で決めたり、責任を負ったりすることをせず、また他人の恨みを買うこともなく、ひたすら上司や皇帝の顔色を見て処理を行った。このため、彼は長年役人を務めたが、在職中の業績は良くも悪くも無く、大した功績も上げることもなかった。
他在家里也是这样一个摸棱两可的人。有一次,他弟弟苏味玄请求他帮忙做一件事。苏味道还是拿出他那一套“看家本领”来对付,既不拒绝,又不答应。说了半天,还是含含糊糊,没有一个肯定的答复。味玄再也忍耐不住,就大声地斥责他。说也好笑,这位苏味道却神态自若,毫不恼怒,既不对弟弟分辩解释,也不责怪弟弟无礼,只是含含糊糊地不了了之。苏味玄被他弄得哭笑不得,无可奈何地走了。
Tā zài jiā li yě shì zhèyang yī ge móléng liǎng kě de rén,yǒu yī cì,tā dìdi sū wèixuán qǐngqiú tā bāngmáng zuò yī jiàn shì。Sū wèidào hái shì ná chū tā nà yī tào “kàn jiā běnlǐng” lái duìfù。Jì bù jùjué,yòu bù dáyìng。Shuō le bàn tiān,hái shì hánhanhúhu,méiyǒu yī ge kěndìng de dáfù。Wèixuán zài yě rěnnài buzhù,jiù dà shēng de chìzé tā。Shuō yě hǎo xiào,zhè wèi sū wèidào què shéntài zìruò,háo bù nǎonù,jì bù duì dìdi fēnbiàn jiěshì,yě bù zéguài dìdi wú lǐ,zhǐ shì hánhanhúhu de bù liǎo liǎo zhī。Sū wèixuán bèi tā nòng de kūxiàobude,wú kě nài hé de zǒu le。
彼は家でもこのようにどっちつかずで何も決めない人間であった。ある時、弟の蘇味玄が彼にあることを手伝ってほしいと頼みに来た。蘇味道は例によって彼の「相手の技量を見てみる」方法で対応し、拒絶もしないが、承知もしなかった。さんざんお願いしても、やはりはっきりせず、明確な回答をしなかった。弟の味玄はもうそれ以上我慢できず、大声で彼を叱責した。言うのも可笑しいことだが、この蘇味道は顔色一つ変えず、少しも腹を立てず、弟に言い訳もしなければ、弟の非礼をとがめることもせず、ただうやむやのうちに用件を終わらせてしまった。弟の蘇味玄は、彼のために泣くに泣けず、笑うに笑えず、仕方なく帰って行った。
由于苏味道对任何事情都是这样含含糊糊,于是人们干脆把他的名字改为“苏摸棱”了。
Yóuyú sū wèidào duì rènhé shìqíng dōu shì zhèyang hánhanhúhu,yúshì rénmen gāncuì bǎ tā de míngzi gǎiwéi “sū móléng” le。
蘇味道は何をするにもこのようにどっちつかずであったので、人々はいっそのこと、彼の名前を「蘇摸棱」(どっちつかずの蘇)と呼び変えるようになった。
後に人々は、蘇味道のような処世術を「摸棱两可」(或いは「模棱两可」)と言い、どっちつかずではっきりしない態度を表す成語として使うようになりました。