中国語学習者のブログ

これって中国語でどう言うの?様々な中国語表現を紹介します。読者の皆さんと一緒に勉強しましょう。

于丹《論語心得》2.心霊之道(3)

2011年05月26日 | 中国文学

  (写真は、鈴木大拙)

 私達の心の真の勇気とは何か。それが今回の話の主題です。それは心の持ち方であり、大らかな気持ちを持ち、前向きに人生を捉えることだとしています。

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 (クリックしてください。中国語の原文と語句解説が見られます)
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 □ この話は、私達一人一人に当てはまる。考えてごらんなさい。私達は同じようにこの世の中で生活しているが、何人かの人はうれしそうに心安らかに暮らしているのに、何人かの人は毎日毎日あれこれ非難し不満に思っているのはどうしてだろう。彼らの生活の本当の格差はそんなにも大きいのだろうか。実は、これは私達の眼の前に瓶に半分の酒があるのと同じである。悲観主義者は、「こんなに良い酒があと半分しか残っていない」と言い、楽観主義者は、「こんなに良い酒がまだ半分も残っている」と言う。言い方が異なるのは、心情や態度が異なるからである。今日のように競争の激しい時代には、良好な心持ちと態度を保持することが、これまでのどんな時代よりももっと重要になっているのである。 
 孔子は言った。「君子は泰らかにして驕らず、小人は驕りて泰らかならず」(《論語・子路》)。君子は心持ちや態度が穏やかで、安定していて、勇敢であるので、彼が落ち着いていて心が安らかなのは、内から外へ自然に滲み出てくる。小人が表現するものはわざと作った姿勢であり、傲慢で驕り高ぶり、内心は多くがせっかちで、その人柄はのんびりしたところが少ない。

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□ 私は嘗て鈴木大拙の本の中で一つの話を読んだことがある。物語の主人公は江戸時代の有名な茶人で、この茶人はある羽振りの良い主人に付き従っていた。皆さんご存じのように、日本で提唱されたのは茶と禅の一体化で、茶道と座禅は「二が一に融合する」プロセスである。
 ある時、主人は都に行かなければならない用事ができたが、茶人と別れるに忍びなく、それでこう言った。「私といっしょに行きましょう。そうすれば毎日私に茶を点ててもらえますから。」しかし当時は社会が不安定な時期であり、浪人や武士が強い力を頼みにのさばり、憚ることがなかった。この茶人は恐れて、主人に言った。「私には武芸の心得もありませんから、万一途中で面倒なことに出会ったらどうしたらよいのでしょうか。」主人は言った。「刀を差して、武士の恰好をすればよろしいでしょう。」茶人は仕方なく武士の服装に着替えると、主人に付き従い都に行った。
 ある日、主人は用事で外出したので、茶人は一人で外出した。この時、向こうから一人の浪人がやって来て、茶人に因縁をつけて言った。「おまえも武士なら、我ら二人、剣の腕を比べようではないか。」茶人は言った。「私は武芸を存じません。唯の茶人に過ぎません。」浪人は言った。「おまえが武士でもないのに武士の装束を身につけているのであれば、武士の尊厳を辱めたことになる。それなら、なおさら拙者の剣の下で死なねばならぬ。」茶人は思った。避けようにも避けきれまい。そしてこう言った。「それでは私に少々時間をいただきたい。私は主人にお渡ししなければならないことをやり終えましたら、今日の午後、池の畔でまたお会いしましょう。」浪人は少し考えて承知すると、それでは必ず来いよ、と言った。

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□ この茶人はまっすぐ都で最も有名な武術の道場に行くと、道場の外には武術を学びに来た人が集まって列を成していた。茶人は人ごみをかき分け、直接武術の大先生の前に行くと、先生に向かって言った。「どうか私に武士として最も面目が立つ死に方を教えてください。」大先生はたいへん驚き、言った。「ここに来る人たちは皆、生きる糧を求めて来られますが、死に方を教わりに来られたのはあなたが初めてです。いったいどうされたのですか。」茶人は浪人と出会ったいきさつをもう一度話すと、言った。「私は茶を点てることしかできませんが、今日は人と決闘をせざるを得ません。どうか私にやり方を教えてください。私は多少なりとも尊厳を守って死ぬことしか考えていません。」大先生は言った。「分かりました。それでは私に一服、茶を点ててくれませんか。それからあなたにやり方を教えましょう。」茶人はたいへん感傷的になり、言った。「これは私がこの世で点てる最後の茶になるでしょう。」茶人はたいへん注意深く、落ち着いて山の泉の水が竈の上で湧き立つのを見ていたが、その後茶葉を投入すると、茶葉を洗い、濾し、再び少しずつ茶を注ぎ出すと、茶碗を捧げ持って大先生に渡した。大先生はずっと茶を点てる一部始終を見ていたが、茶をひと口味わうと、言った。「これは私が生まれてから飲んだ中でも最高のお茶です。私はあなたに申し上げる。あなたはもう死ぬ必要はありませんよ。」茶人は言った。「あなたが私にお教えになりたいのはどういうことですか。」大先生は言った。「私が教えるまでもありません。あなたは茶を点てる気持ちでその浪人に対すればよいことを憶えておきさえすればよいのです。」

※ 于丹教授は日本の茶道の抹茶を点てるのを見たことがなかったか、或いは中国の聴衆に抹茶道を説明しても分かりづらいと思ったか、その何れかだと思います。ここで説明している茶の淹れ方は、“工夫茶”そのものですよね。

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□ 茶人は大先生の話を聞くと、約束の場所へ行った。浪人は既にそこで待っていた。茶人を見ると、すぐに剣を抜くと言った。「おぬしが来たからには、我らは武術の腕比べを始めよう。」茶人はずっと大先生の話のことを考え、茶を点てる気持ちで浪人に対した。茶人が微笑みながら相手をじっと見つめているのが見え、その後ゆったりした動作で帽子を脱ぎ、きちんと横に置いた。ゆったりした上着を脱ぐと、一か所一か所きっちりと折りたたみ、帽子の下に押しつけて置いた。帯紐を取りだすと、内側の着物の袖口をきつく縛り、それから袴をきつく縛った……茶人は頭から足まで慌てず騒がず自分の身づくろいをし、その間ずっと気を静め、落ち着いていた。相手の浪人はこの様子を見れば見る程緊張し、見れば見るほど呆然となった。なぜなら、相手の武術の技がいったいどれ程深いものであるのか、見当がつかなくなったからである。相手の眼差しと笑顔は浪人を益々恐れさせた。茶人は服装を全て整えると、最後には剣を抜き、剣を空中に向け振ると、そこで動作を止めた。というのも、彼はこの後それをどう使えばよいか知らなかったからである。この時、浪人はパタンと茶人に向け跪き、言った。「どうか助けてください。あなたは私がこれまで見てきた中で最も武術の腕前のある方です。」

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□ 実のところ、どのような武術の技で茶人は勝利することができたのだろうか。それは心の勇気であり、あのゆったりした、落ち着いた、精神の力である。だから、技巧は最も重要なものではなく、技巧の他のものを私達は心で感じて悟る必要がある。もしあなたの心が広々として明るく、思いやりがあって寛大で、ある種の率直さと勇気があるなら、あなたはたくさんの思いもしなかったものを獲得できるかもしれない。誰でも皆、良いことを言いたがるが、もしあなたがそれと正反対に悪いこともはっきり言うなら、たとえどんな人にも等しく教えを授ける孔子であっても、彼が教えることが馬の耳に念仏になってしまうことがなくなるだろう。
 孔子はこう言ったことがある。ある人があなたの説く道理を聞くことができても、あなたがその人に話をしなかったら、それは“失人”といって、あなたはその人と交わる機会を失したのであり、よくない。それと反対に、もしその人が根本的に理を説いても理解できないのに、あなたがそれでもその人に道理を説き続けるなら、それは“失言”といって、それも良くない。あなたが、他人があなたと是非交流したい、あなたと交流してもよいと思ってもらえる人になりたいなら、最も大事なのはあなたが広々として明るい心を持つことである。これこそが《論語》の中で提唱されている「心が純潔でさっぱりとした」心境なのである。こうした心境や心持ちは、先天的な欠点を補うことができるだけでなく、後天的な過ちも補うことができる。同時に一定の力を与え、真の勇気を与え、生命を豊かにし、充実させ、大きな喜びを与え、人生に最大の効果をもたらす。毎日新鮮な息吹を見ることができ、こうした新鮮な養分が他の人の下にも流れていく。
 《論語》が私達に教えてくれるのは、変わることのない人生の一連の動きであり、私達は勝手に抜粋してその一部だけ理解してはならず、こちこちの頭でそれを理解してはならない。こうした古(いにしえ)の聖人君主の思想の精華は、自然に体の血液の中を流れるようになった時に、喜びの態度を示すことこそ、私達現代人のこの古典に対する最高の敬意となるのである。

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