中国語学習者のブログ

これって中国語でどう言うの?様々な中国語表現を紹介します。読者の皆さんと一緒に勉強しましょう。

于丹《論語心得》を読む: 天地人之道(1)

2011年05月06日 | 中国文学

  中国では、数年前から《論語》ブームが起きています。所得が増え、街に物が溢れるようになると、次に求められるのは、精神的な豊かさということになるのでしょう。この《論語》ブームの火付け役が、中国師範大学の女性教授、于丹です。

“心得”とは、学習の結果、会得すること。“論語心得”とは、《論語》を現代人の目線で読み解く、ということで、本当の豊かさとは何か、何の為に働くか、そうした現代人の疑問にぴったり答えることができたことが、このブームにつながったのだと思います。

ところで、ご存じの方も多いでしょうが、《論語》の“論”は、“lun2”と2声で発音されます。4声ではありません。“lun2”と発音するのは“論語”の時だけで、一字で“lun2”と言うだけでも、“論語”の略称になります。

 

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[1]
 宋代の建国の宰相、趙普は、自分は《論語》半冊だけで天下を治めていると標榜したことがある。そこから、《論語》が昔の社会や政治の中で発揮した巨大な作用と、昔の人の《論語》に対する尊敬を理解することができる。この、嘗ては国を治める根本と称された《論語》は、現代の社会、現代人の生活にとって、どのような実際の意義を持っているのだろうか。皆さんは、孔子の《論語》は高尚過ぎて自分たちの及ぶところではなく、現在の我々はこれを仰ぎ見なければならない、などと思ってはならない。この世の中の真理は、永遠に純朴なもので、太陽が毎日東から昇るのと同じであり、春になれば種を播き、秋になれば収穫するのと同じである。



[2] 《論語》が皆さんに訴えるものは、永遠に最も簡単なものである。《論語》の真の意味は、どうしたら私たちの心が欲する快適な生活を送ることができるかを、皆さんに語ることである。わかりやすく言うと、《論語》は私たちが如何にして現代の生活の中で心の安らぎを得、日常の秩序に適応し、個人のあるべき基準を見つけるかを教えてくれる。




[3] それは、次のような一冊の語録である。2500年余り前、孔子が教鞭をとり生活する中でのごく一部のことを、弟子達が切れ切れに記録したものである。これら講義の筆記を主とする記録が彼の弟子達によって集められ編纂され、後に《論語》となった。《論語》には、厳密な論理性が無く、多くが事実に即して論じられ、その中には長篇の論説はほとんど無く、語録の一つ一つが簡単で短い。しかし実は、無言も一種の教育なのである。



[4] 子曰く、「天は何をか言わんや。四時行きて、百物生じる。天何をか言わんや。」(《論語・陽貨》)孔子は弟子達に言った。「ご覧、お天道様は空の上に在って、静かで厳かで何も言わないが、四季は移ろい、万物は成長する。お天道様はまだ何か言う必要があるのだろうか。」




[5] 皆さんがご存じのように、孔子には弟子が3千人おり、そのうちの72名は賢人であった。彼ら一人一人が一粒の種であり、あの生活態度、生活の智慧を広く伝播した。



[6] 私たちは、孔子は聖人であると言う。聖人とは、彼が生活する土地で最も行動力があり、最も人格的な魅力のある人物である。“神聖”神聖と言うが、“神”とは基本的に天空近くにいる人で、李白のような人物である。“聖”とは地面の近くにいる人で、杜甫のような人物である。孔子“聖人”が私たちにもたらしたのは、大地で生み育てられた信念であり、彼のような人は必ずや私たちの生活の中で自然に生み育てられ、また生まれ変わってきたものであるに違いなく、空から舞い降りてきたのではない。



[7] 中国の創世神話では、盤古(ばんこ)が天地を開闢したが、この開闢は、西洋の神話が語るような突然の変化ではない。例えば、大きな斧を手に持ち、パン、と割ると、金色の光が放たれ、様々な天地万物が現れる、というのは、中国人が叙述する情感とは異なる。




[8] 中国人がよくする叙述は、《三五歴紀》の描写のように、ゆったりと、穏やかで、憧憬するに値する長い長いプロセスである。天と地の混沌たること、鶏の卵のようで、盤古はその中で生まれ、18千年が過ぎた。天地が開闢し、陽気は清らかで天となり、陰気は濁って地となった。盤古はその中に居て、一日九回姿を変え、その智慧は天を上回り、能力は地を越えた。天は毎日一丈高くなり、地は毎日一丈厚くなり、盤古は毎日一丈背が高くなった。18千年後、天はたいへん高くなり、地はたいへん深くなり、盤古の背はたいへん高くなった。この話は、最初は「天地の混沌たること鶏の卵の如し」と言い、盤古はその中で18千年じっとしていた。後に、天と地が分かれるが、それは一つの固体が「パン」と真ん中で分裂するのではなく、二つの気体が次第に分裂し、「陽清の気」は上に昇って天となり、「陰濁の気」は下降して地になった。これは天地開闢の完成ではなく、こうした成長がたった今始まったのである。




[9] 中国人は変化を重んじる。盤古は天地の間で「19回変化した」とあるが、ちょうど生まれたばかりの赤ん坊が、毎日微妙に変化していくようなものだ。こうした変化は、最後には一つの境地に達する。それが、“神于天、聖于地” (智慧は天を上回り、能力は地を越える)である。この6文字は、実は中国人の人格の理想像である。理想主義の天空を持ち、自由に飛び回り、現実世界のたくさんの規則や障碍に妥協しない。しかも、地に足のついた能力があり、この大地の上で自分の行為を広く展開することができる。理想はあるが土地の無い人は、夢想主義者であって理想主義者ではない。土地はあるが天空の無い人は、実務主義者であって現実主義者ではない。理想主義と現実主義こそが私たちの天と地である。




[10] 盤古の変化はなお継続し、このお話は次にこう語られる:天地開闢の後、天は毎日一丈高く昇り、地は毎日一丈厚みを増し、盤古も「日に一丈伸び」、天地といっしょに成長を続けた。このようにして18千年が過ぎ、最後には「天の高さはたいへん高く、地の厚さはたいへん深く、盤古はたいへん背が高くなった」。人の意味と、天と地は同じもので、“天・地・人”は“三才”と並び称される。それゆえ、孔子から見て、人は敬い重んじるに値するもので、人はまた自らを重んじなければならない。



[11] 《論語》を読んで、私達は次のことを発見する。孔子は弟子達を教育する時、顔をこわばらせ言葉を荒げることが少なく、彼はいつも穏やかに、順序立って教え導き、人と議論する口ぶりである。これが孔子の教育の態度であり、儒家の一種の態度である。

 

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“天地人之道”とは、要するに人間としての生き方、人と人との接し方は如何にあるべきか、ということがテーマです。次回は、この続きを読んでいきたいと思います。





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