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創作日記&作品集

作品集は左のブックマークから入って下さい。日記には小説、俳句、映画、舞台、読書、など…。そして、枕草子。

連載小説「もう一つの風景(16)」

2016-02-26 07:27:11 | 創作日記
もう一つの風景

16

 一人分ずつプラスチックの盆に飯や汁をのせ配膳のストレッチャーに入れる。配膳係りが重いストレッチャーを押して消えると、朝の一段落がつく。男たちは煙草を吸いに出て行き、鍋や釜を洗う女たちが、つまらない冗談や、噂を始める。房子は床に水を流す。
「そんなんは、昼からでええやろ」
 頭に白いものの目立つ一番古参の女が刺すような目付きで言う。汚れに気がついたら、こまめに水を流せと昨日言ったのは誰だ。房子は黙って女を睨む。
「なんやその目は」
 房子の視線をそらして、女は言い、顔を反転させて、両隣の女に同意を求めるように交互に顔を窺う。二人の女は黙って鍋を洗っているふりをしている。手が止まり、これからどんなやりとりがあるのかと身体中を耳にしている。その時、ふらっと栄養士が入ってきた。病的なほど細い身体と青白い顔が、この病院の栄養士という名にふさわしい。年下の調理師と関係があるという噂があった。秋になって一週間休んだのは、その男との間に出来た子をおろしたのだという噂があとに続いた。
「みんな手洗いだけはちゃんとしてや、いつもいうてるように、ここまで石けんでようあろて、そのあと消毒液で洗う、そして、水でよう流す。手ぬかんといてな」
 ほそい腕を肘までまくって言った。眼鏡の奥の糸のように細い目を見るとどんな顔をして男とやるのだろうと、つまらないことを考えてしまう。
 九時に配膳車が汚れた食器と食べ残しを積んで帰ってくる。
 女二人は調理師と昼の支度を手伝い、房子とUは、洗い場にうずたかく積まれた汚れた食器を洗う。
 Uは殆ど喋らない。黙々と洗い続ける。子供のように小さな身体が何かに耐えるように動いている。二人の女はUを馬鹿にしていて、嫌な仕事を押し付ける。「ゴミやゴミ」「残飯、残飯」女がそう叫ぶと、Uは走って行く。古参は煙草を買いに行かせ、つり銭が違っているとからかう。Uがどぎまぎして、計算をやり直すのが面白いのだ。房子は二人に組しないし、かといってUを庇いもしない。下手な正義感なんてつまらないし、気にいらなければUが女たちに噛みつけばいいのだ。同じ所で働いているだけで、それぞれが他人なんだから。To be continued 

連載小説「もう一つの風景(15)」

2016-02-25 09:13:21 | 創作日記
もう一つの風景

15

 私立の中規模の病院、厨房に続く細い地下へのスロープを下りる。重い戸を引いて中に入ると、早出の調理師が働いている。男の調理師が三人、房子と同じ臨時のまかないの女が四人、その他に滅多に厨房に顔を出さないハイミスの栄養士が一人。調理師のSが鍋にぶつぎりの葱をほうりこみながら、栄養士の悪口を隣の若いNに何度も同意を促しながら喋っている。
 ここには、些細な不満がいつも澱のように沈んでいる。自分の中にある形のない苛立ちが、他人の一寸した言葉や仕草に直結して吹き出してくる。噂もよく似た性質を持っている。誰と誰があやしいと一人が言うと、二人がつれこみホテルから出てくるのを見たと出所の分からない話がまことしやかに動き出す。噂のほうは、房子の知らない人の場合が多い。一日中、この厨房にいて、よく知っていると感心する。
 房子が厨房から見るのは、職員の昼飯を並べる棚の間から、医者や看護婦や事務員らの職員が同一の昼飯を食べている光景だけだ。医師の名前も看護婦の名前も、職種さえ分からない職員も数多くいる。彼らも、おかずの並ぶ棚の向こうにいる房子の存在を一瞬たりとも考えたことがないだろう。病院にいながら、ここが病院だという気が全くしない。お粥や、減塩食、低カロリー食、肝の1、膵の1、患者の様々な食事を配膳しながらも、それらを食べる患者が自分とは全く無縁な人々に思える。それは、巨大な鍋で炊かれた汁やおかずが、人の食べ物と程遠く感じられ、それを食べる巨大な姿のない動物の胃袋を想像するのに似ている。
 厨房の壁ごしに、狂ったように号泣する女の声とその声の背景のようにカラカラと小気味のいい音をたてて通りすぎるストレッチァーの音が聞こえる。食堂の横を通り、右に折れる、迷っても誰も足を踏み入れないであろうその通路の奥に霊安室がある。不思議な通路だ。普段はあることさえ気づかずに見過ごすことが多い。気づいても、何処にも抜けられないのが無意識に分かる。
 今朝も誰かが死んだ。その時、ここが病院であることを突然意識する。患者の数病気があり、苦痛があり、そのなかには、忍び寄る死の跫音もあるのだろう。だが、房子の働く周りの光景はあまりにもそれらと無縁だ。そして、ここで働いている自分にも関係のないことだ。To be continued 

連載小説「もう一つの風景(14)」

2016-02-24 07:40:50 | 創作日記
もう一つの風景

14

 光雄は二学期が始まるとすぐに辞表を出した。昼間に帰ってきて、ほっとしたような顔をして、居間にゴロリと横になった。日ごろから自分は教師に向かないと言っていた夫が、引き際の格好の理由を見付けたように、房子には思えた。
 駆け落ち同然でやっと持った、六畳一間のささやかな幸せな日々が、夫のそれ程にまで嫌な仕事の上に成り立っていたのかと房子は思った。その報いだろうか、有り金を持ち出して消えた。
 一ヶ月分の生活費の全てを失った。明日からの食事にも事欠くのは目に見えていた。公園に住みついた浮浪者が自分よりも裕福に見える。病院への道を辿りながら、房子は途方に暮れた。次々に房子を追い越していく男女の背中を見ながら、今の世の中で、明日の食べるものに困っている人間がいるだろうかと考えた。町は物に溢れ、人は空腹を耐えることを忘れたかのように振る舞っている。時々、板塀の上でないている野良猫でさえ丸々と肥っているではないか。
 自分は朝食を抜いた。良一にはひもじい思いをさせたくない。しかし、それも後何日のことか分からない。職場の昼飯を、人目を気にしなが、出来るだけ腹に詰め込む浅ましい自分の姿が目に浮かぶ。病人の残した飯を、隠れて握り飯にしているのを事務員のKに見つかった時の死んでしまいたいような恥ずかしさが生々しく蘇ってくる。Kは人の恥部を覗いたような好奇な目の色をしていた。
 犬の餌にと、取り繕ったが、激しく震える手が空しい言い訳を否定していた。
「犬やったらあそこに汁も残ってる」
 Kの口元に卑しい笑みが浮かんでいた。Kは夜勤の時の酒の肴を物色しに厨房に入ってきたのだろう。房子の前で冷蔵庫を開けるわけにもいかず、なんやかの噂話をしながら房子にまとわりついた。時々故意か偶然か分からぬように房子の身体に触れた。
「なんかいやなことがあったら、わしに相談しいや。二十年もおるんやから、ここでは顔もきくんや」
 顔をよせながら、小さな声で言う。
 房子は帰り支度を始めた。白い上っぱりを脱げばそれで終わりだ。
「おさきに」と、言って、厨房の裏戸を押す時、横目で背後を窺うと、Kが冷蔵庫を開け首を突っ込んでいる姿が見えた。噂と中傷を日々の食事のようにしている同じ職場の女たちの顔が浮かんだ。自分が噂の種にされるかも知れない。
「なんかええもんありました」
 帰ったと思っていた房子の声にKは急いで冷蔵庫の戸を締めた。To be continued 

連載小説「もう一つの風景(13)」

2016-02-23 07:29:43 | 創作日記
もう一つの風景

13

 房子は、突然、眠りから覚めた。近頃、時々、このような事がある。意識がはっきりしていて、眠気などまるでない。今まで、眠っていた事さえ信じられない程、目が冴えている。長い時間みた夢と、今、見渡している現実の感覚の落差があまりにも少ない。夢のような現実に居るとも、現実のような夢の中に居たともいえる奇妙な感覚だった。今は、その隅々まで覚えている夢の内容も数時間で忘れるだろうが、この感覚は何日でも房子の生活の底を這いずりまわるに違いない。夢の中に在ったのは過去のことだった。夢の中で房子は何時も過去に生きている。煙草が欲しくなった。灯りをつけて、布団にだらしなく座る。頭の中を巡るのは過去という夢だった。思い出という言葉からかけ離れた一瞬々の連続に生きてきた。もう、自分に関わって欲しくない、意味の無い時間として忘却の水に流されてもいいと何時も言ってきかせるのだが、そうすればする程、細部まではっきりと白黒の映画を見るように蘇ってくる。内と外があやふやな膜に包まれた奇妙な過去という生き物が房子の中で動き出す。
 流しに立って水を呑む。老人会で勧められた宗教に入ってみようかと、ふと、思う。何かを信じたいが、信じるものはなにもない。只、お金は、自分の意思に逆らいはしない。例え、上面であっても、人は私に好意をよせる。ものを食べ、身体の温度を保ち、生活するためには、なくてはならないものだ。その意味で、他のなによりも信じる事ができる。100円の金は100円の生活を産みだす。お金を汚いもののように言う人はお金になんの意思もないことを知らない。一粒の米がいかにお金と等価なのかを知らない。
 病院の地下の厨房で、人に隠れて、病人の残した飯を握った。良一と私が体温を保つのに、100円の米粒に100円の恥を払った。

 一つの光景が蘇ってくる。土曜日の昼下がり、晩秋には珍しい光が満ちていた。六畳一間の家も、そのおこぼれに与っている。それは、昨日のことのように鮮明な光景だった。
 光雄が良一の宿題を教えている。茶袱台を間にして向かい合っている。肘を台に置き、正座を崩した良一に、背筋を伸ばした長身の光雄は正座を崩さずに良一と対面している。光雄の涼しい表情には罪悪感のかけらも感じられない。
 房子は途方にくれて、部屋の隅で膝を崩し二人の様子を見ていた。彼は良一の宿題を教えながら、教員の頃を思い出しているのだろうか? それとも、房子の攻撃を避けるために、ふと思いついた演技なのだろうか?
「あんまり、勉強出来る方やないなあ。手に職もたした方がええ」
 房子を見ずにいつもの平坦な口調で言う。 電車の音が、光雄の次の小さな言葉をかき消して遠ざかっていく。
 一瞬静けさがもどると、隣の赤子が火のついたように泣きはじめた。
「多武峰のお母さんに泣きついたらええのに。可愛いあんたのためなら、ぎょうさん出してくれはるやろ。あんたのいうてる大きな勝負ができるやろ。なんで、家からお米になるお金をなんで持ちださなあかんの」
「お前と一緒になるんやったら、家の敷居またぐなと、あの時、言われた」
「あの人は、どうしてうちを嫌うんや。顔を合わしたんも何回もあらへん。一つ年が上やからなんて、それだけやったら、あほみたいな理由や」
「さあ、わしにもわからん。まあ、分かってもしやないんちゃうか」
 良一が二回あくびしたのを見定めるようにして、光雄は立ち上がり奥の硝子戸を開けた。一尺少しで朽ちた板塀が迫っていた。そこから首を出し、掌にはいるような空を不自由な姿勢で眺めている。
「あっ、雀がいるわ。秋の雀はほんとにきれいな色しているわ。よう肥えて、つやつやした羽して、他のどんな鳥よりきれいなあ」
「どこや、どこに見える」
 良一が光雄の脇の下をくぐるように頭をつきだした。
 硝子戸に一瞬、雀のはばたく影が踊った。
 良一の寝静まるのを待っていたように、光雄が房子の横に身体を滑りこませてくる。房子は、身を強ばらせて小さく言う。
「いやや」
 光雄の手が乳房を揉む。房子の中の女が次第に開いていく。光雄が闇に向かって射精するのが分かる。捉え所のない不安を一瞬の快楽に重ねようとしている。
 私には彼の闇が分からない。女の業のような深い快楽になんの理屈もなく落ちていく。
 光雄は、彼の持つ闇に性の行為が無意味なのを知りながら性懲りもなしに繰り返している自分を深い虚脱感の中で見つめている。
 二つのサイコロが光雄の目の前に浮かんでくる。それは全てを可能にする魔法の鍵だ。金が金を産むように次々に目の前に積まれていく。それは明日必ずやってくる。今まで、散々つぎこんできた金が何十倍にもなって返ってくる。房子は目の前の生活しか考えないから文句をいうが、それも後しばらくの間のことだ。自分は単に博打に狂った男ではない。人が蔑む行為を論理的に完成しようとしている。そこに出る目は一つしかない。それは人間がつくる目だ。はられた金を計算し、時間を計り、瞬時に偶然を引きよせる。指が僅かにサイコロの角度と力のバランスを変え、壷を数ミリ動かし、サイの目がつくられる。そうでなければ、二つの目には、負けるものと勝つものが等分にいる筈だ。いや、賭場自体が成り立たない。何度も自分はそんな眼で観察した。そして、そのからくりを見破った。人間がつくる偶然は、種をあかせば、必然なのだ。十万あればそれで十分だ。いや、その半分でもいい。全ての条件が揃うのを辛抱強く待つ。壷の上の掌が僅かに水平の方に動いた時、サイの目を動かすのは不可能になる。その方法で一つ勝てばあとは倍々になるのは当たり前のことだ。
 いつも誰かの影のような人生で終わってしまってたまるものか。こどもの頃は両親の影のように育ち、教師になれば同僚のなかに紛れて、自分の顔を失い。僅かな金で、負いきれない程の教師という虚像の責任を被り、挙句の果てが、何人もの責任を一人で背おわされ、教師という虚像まで剥ぎ取られた。そんな俺が、これからも、自分の子供や妻の影になって生きていけというのか。あたふたと自分の前の一歩の安全ばかりを一生の目的にして生きるなんてのは、もう、まっぴらだ。
 サイが振られる時、間違いなく自分の血が身体を駆け巡っているのを感じる。誰のものでもない俺の血だ。
 あの茶筒の中だ。房子の視線が時々あそこにいくのが分かった。もう、これ以上お前には迷惑をかけられまい。最後にする。万が一負ければ二度とこの家に姿を見せない。お前が泣いて頼んだ通りにしてあげる。僕は決して無頼漢ではない。また、そうはなれない人間なのだ。だから、ものの程というものを心得ているつもりだ。
 そこまで、一気に考えて、光雄は沈黙した。深い闇に向かいながら、それに顔を背けている自分を意識する。彼の今の生活は、あの生徒の死から逃げるための単なる理由としてあるのかもしれない。自分は犠牲者だ。生贄だと納得させてきた。房子も、まわりの好意的な人間は皆そう言った。
 伊勢の海での出来事。
 生徒を浜辺に集めて彼は何度も言った。あの赤いブイから先は行くな。
 海のない奈良県に育った彼は、ふと、人から離れて海を一人で見たくなった。他のクラスの担任の若い男の教師に声をかけた。彼は気軽に引き受けてくれた。それでも念を押して、もうひとり手持ち無沙汰に浜辺に腰を下ろしている女の教師にも頼んだ。
 岩場に腰を下ろし、煙草をふかしながら、何気なく、子供らの方を見た。小さな点のように見える子供たちが、尋常でない動きをしはじめた。一斉に浜辺に上がり、点は何かにつかれたような不自然な動きをしていた。誰かが手を振っている。早く来いと、激しく振っていた。
 U君のことは大変悲しいことです。しかし、先生だけを責めるのは間違っていると思います。赤いブイから先は行くなと、先生は二度も注意されました。それを守らなかった私達クラス全員が反省しなければならないと思います。また、U君がここにいてもそう言うと思います。
 大人の手垢のついた児童の作文が彼をたまらない気持ちにさせた。今まで動いていた気持さえ、自責の材料になった。二人の教師は彼から頼まれたことをおくびにも出さなかった。自分を彼等の立場にはめこめばすぐにわかることだ。
 結果は一つだった。彼の受け持ちの生徒が、彼の目の届かない所で溺死した。
 いくら悩もうと糸口さえ掴めない事実という心の闇に、残された算段は逃げることしかなかったのかもしれない。それも、意識することなしに。To be continued 

連載小説「もう一つの風景(12)」

2016-02-22 08:15:39 | 創作日記

もう一つの風景

12
 
 夜の十時、店を閉め、早見家の遅い夕食が始まる。
 家族が各々の場所に座り食卓を囲むと、一日の終わりの安らぎの雰囲気が自然と生まれる。
 家族の取り留めもないお喋りが行き交う。話題の中心は二人の孫になることが多い。伸子が子供の行儀の悪さを叱る。芳江がそれをとりなす。男二人はいつもの光景に一種の安堵を感じ酒を呑む。
「ごちそうさま」と、孫二人が同時に声を合わせ、直ぐに庄三の横にへばりつく。庄三は酒の肴を両脇の孫の口に順番に箸で運ぶ。伸子は顔をしかめるが、いくら言っても仕方のない事なので黙っている。
「そんなにとったら、おじいちゃんのがなくなるやないか。ええかげんにしとけ」
 信也が遠慮がちに口を挟む。
 時計が十一時を打つと、伸子の決まり文句が飛び出す。昨日も一昨日も、いや、庄三がそれを意識しだしてから、一言一句違わない台詞だ。
「はよう寝な明日起きられへんよ。はよう歯磨いておしっこ行って。はよう、さっさとしなさい」
 その言葉を酒の潮時にして、
「ほな、ご飯にしょうか」と、
 庄三は茶碗を芳江の前に突き出す。
「ほんなら、ぼくらも…」
 信也が腰を上げかけた時、
「あ、そうや、みんなに言うとかなあかんことあった」
と、庄三は言った。
「私になんの相談もせんと、勝手に話進めて。私はもう気つかうことはいやや」
 芳江は語気を荒げた。
 信也は二通の釣書を熱心に読んでいる。
「敏子さんはともかく、男の人の方はお父さん会ったこともないんやろ。どちらもそんなによう知らんのに、一寸無責任と違う?」
「せやから、釣書交換して、ちゃんと手続き踏んでるんや。それに房子さんは立派な人や。老人会のだれに聞いてもそう言うわ」
「親が立派でも子が立派とは限らへん」
 伸子は向きになって言う。
「私等今まで、何回仲人やりました。もう十分私らの分は返しましたで。それになんやかやと面倒な事もありましたがな。よかれと思てやったのに却って恨まれる。うまくいって当たり前や。もう、私らも年なんやし、堪忍して欲しいわ」
「なんやかやいうて、結局わしのやることは、お前等はなんでも反対なんや」
 庄三の煙草を吸う手が小刻みに震えた。昔ならもっと鷹楊に構える事が出来たのに、此の頃は短気になり自分を押さえる事が出来なくなった。それを知っている家族は庄三の興奮が収まるのを黙って待った。
「なんか見たことある顔や、聞いたことある名前や思うたら、彼、僕と中学の同級生ですわ」
 信也が手を叩いて言った。
「そういうたら、あなたは、布施のほうやったんや」
 伸子も釣書を覗き込んで言う。
「ほう、信也君とも同級生か。これはなんかの縁や。二人とも片親やし、伸子なんかとちごて苦労している境遇もよう似てる。前世から縁があるんかもしれへん」
「うちも苦労してるわ」
 伸子がふくれた。
「あほらし、あんた、なにが前世や。いつから仏さん信心にならはりましてん。信也さん、それはそうと、どんな人やった」
「顔知ってる程度ですから、あんまり覚えてへんけど、大人しい奴やったですわ。それに、からはあんまり大きいないけど、走りが速ようて、いつも、選手やったなあ」
「あああ、確かになんか因縁感じるわ。まあ、私らにはあんまり関係ないし、お父さんの好きにしたら」
 大きなあくびをして伸子が言った。
 いつから、親の家と自分の家とをこんなにはっきりと分けて物を言うようになったんだろう。一つ屋根に住んでいても、間借りしているような気になって淋しさがふと胸をよぎった。
 娘夫婦が上にあがってしまうと、居間は急に静けさをました。
「嫁に出した方がかえってよかったかもわからへんなあ」
 庄三は呟いた。
「なにを言うたはりますね。贅沢な、今時信也さんみたいな人、そうおらしませんで。私は自分の息子や思てます」
 なにを勘違いしているのか、芳江はそう言った。
「ほんなら、わしらもあがろか」
 芳江が電気を消すと居間は闇の中に沈んだ。ついいましがたまでこの部屋にあった家族の団欒という幸せは一体なんだったんだろう?川口の後家さんのことが、もしかして本当なら一瞬にして地獄に変わる性質のものかもしれない。房子と敏子が顔を合わせている居間が見えた。ひょっとすると、自分はとんでもないものをつくるために動いているのかもしれない。余計なお世話というような言葉で簡単に逃げることのできないような。
 芳江が寝息をたてるのを待って、庄三は枕元の電気スタンドの紐を引いた。
 俯せになって煙草を燻らせながら、灯りを見ている。こうして一人でいる時、時々感じる不安が庄三を捉える。年がいったからというのではなく、物心ついた時からあったものだ。
 俺が死ぬということは、俺を意識する俺がなくなるということだ。
 怖い、たまらなく怖い。近ごろ、朝、新聞を開くと、決まって有名人の死が報道されている。あっちは知らないだろうが、こっちは知っている。写真を見て、この人は、もういないのだ、自分を自分と意識できないのだと思うと、胸の底が締められたような、痺れたような気妙な感覚に襲われる。知識のある頭のいい人は、この無学な酒屋を納得させるような答えを持っているのだろうか?
 70年も生きてきて、もう一つ、分からないものがある。それは、女だ。70年という年月が女を理解するのに長いのか、短いのか分からないが、女房さえ、ある部分は謎なんだ。さっき考えたこととも関係があるが、死についても、それを考える現実がきてから、考えればいいというふしがあるように思う。まあ、自分の周りにいる女しか知らないのは確かだが。
 誰がいっていたのか忘れたが、男は人生という壷にものを入れるのに生き、女は人生という壷からものを出すのに生きている。
 庄三が女を知ったのは、16の時だった。問屋の番頭に、
「庄さん、だんなさんには、内緒やで、ええとこいこ」と、
 松島新地に連れて行かれた。
 三段腹の女にのって、訳のわからんうちに終わってしまった。
「ぼんも、これで一人前の男や」と、頭を撫でられたが、なんの感慨もなかった。
 男が女を理解しているのは、案外、その程度のものかもしれない。三階から微かに、ドラゴンクエストの音楽が聞こえてくる。ファミコンは孫に買ってやったはずなのに、近頃は夫婦が夢中だ。まあ、孫にそんな時間もないのも確かだが。
 心地よい眠気を感じる。身体が浮いて、そして、安らかな闇の中に落ちていく。手を伸ばし辛うじて探り当てた枕元の灯りを消す。騒々しかった町も静かになった。町も眠りについたようだ。To be continued 

連載小説「もう一つの風景(11)」

2016-02-21 08:00:32 | 創作日記
もう一つの風景

11

 あれから毎年、豊美がやってきた。良一を林の家に貰いたいという話だった。房子は涙が出る程笑って断った。
 豊美の話は少しずつ調子が変わっていった。離れに二人で住めばいいという話になり、夏休みに良一に遊びに来て欲しいと哀願するようになった。相手が段々と年をとり、弱っていくのが分かり、房子には小気味がよかった。
 あの人は光雄と私達の生活がどんなものだったか全く知らない。また、知ったところで、それは私の所為(せい)だと言い張るに違いない。あなたの学者タイプでかっては優秀な教員であった筈の息子は、浮浪者の姿で、病院の廊下で、点滴の管をつけたまま死んでいたのだ。私達の前から姿を消し三年間も行方不明になった末の出来事だ。
 房子の態度が変化したのは、俊(しゆん)徳(とく)道(みち)の駅のホームで義母を見かけた時からだった。目を細め幸せそうな表情で立っていた。
 案の定家に帰ると、良一が真新しいラジオを持っていた。房子はその様子をぼんやりと眺めていた。駅の売店で昼間働き、夜は小銭の金貸しをやり、金の感覚や生き方が少しずつ変わってきた頃だった。なんにもならない意地が馬鹿らしくなった。あの人も利用できたら、した方が私等の得だと思った。
 その年、豊美がきた時、出来るだけ恩ぎせがましく、夏休みに林の家に行くのを認めた。
「おばあちゃんとこ行ったら、おいしいもの食べさしてもらえるし、いろんなもん買うてもらえるんやから」
 豊美の前でそう言って送り出した。   
 それから五年経って、義母は死んだ。
 良一と二人で行って、貰えるものは貰わなくてはと房子は思った。
 その日、豊美から二度目の電話があった。 良一を迎えに行くという。自分も行くからと断ると、言いにくそうに死ぬ間際の義母の言葉を豊美が伝えた。
 自分が死んでも、あの女を家に入れるな。良一はいい子だが光雄の子ではない。
「良ちゃんのことは誰も本当やと思もてしまへん。光雄さんによう似たはるんやから」
「なんや、知ったはったんかいな。良一には林の血なんか流れてへん」
 叩きつけるように受話器を置いた。
 あほやったなあと後で思った。あの時、算盤いれちがえた。
 あれから、林の家からはなにも言ってこない。しかし、良一の仕草に光雄を見る時、あれでよかったんだとも思う。そして、房子の身体にのしかかる光雄の姿に良一が重なり、ふと、目を逸らす。To be continued 

連載小説「もう一つの風景(10)」

2016-02-20 07:24:05 | 創作日記
もう一つの風景

10

 ガード下にぶら下がった看板の「桁下制限2M」と書かれた文字。所々ペンキが剥げ、錆びがあらわな赤い文字に見詰められていた頃の生活。
 三軒続きの長屋のもっともガード寄りの六畳一間の家だった。
 光雄の葬儀の時、僅かな数の樒(しきみ)さえ並ばずに、隣の間口を借りた事を思い出す。細かい雨が絶え間なく降り注いでいた。近所の人が参列者の殆どだった。家の外で雨を話題に談笑し、敷居を跨ぐと急に神妙な顔になり、殆ど顔も知らないであろう光雄の写真に手を合わせ、一仕事終えたようにそそくさと帰って行った。
 火葬場まで行ったのは、房子と良一の二人だけだった。係りの人の言う通り骨を拾った。貝がらのように白く、そして軽かった。箸でつまむと崩れそうな気がした。
 雨が霧のように細かく流れていた。係りの人にバス停までの道を聞き、良一と長い坂を下った。胸に当てた箱の中で、骨がカサカサと音をたてている気がして、時々立ち止まり耳を澄ました。
「おかあちゃん、なんで、昨日あんなことしたんや」
 房子より背が高くなった良一が呟くように言った。
 房子は立ち竦む足を、ただ動かすことにだけ集中した。
「なんのことや」
 房子は、骨がカサカサと音をたてるのを聞いた。
 良一は口を噤んだ。
「昨日はなんやかやあったから、うちは一睡もできなんだ。あんたもえらいうなされてた。よう寝てへんねやろ」
「なんか寝言いうてたか?」
「いや、何回も寝返りしてた」
「そんなら、夢か、なんちゅう夢みたんやろ」
「どんな夢や?」
「夢の話、聞いてもしゃないやろ」
 晩秋の霧雨の中を、二人は一度も振り返ることなく歩いた。
 家に辿り着くと、既に樒は片付けられていた。
「えらい遅うなって、すみません」
 肩の雨を拭いながら、中にいる豊美に声をかけた。
「しんどかったやろ。なにもかも一人やから」
 多武峰から義母の使いでやってきた豊美が房子と良一を塩で浄めながら言った。
 祭壇や花輪はとり払われ、白布をかけた焼香台と生花を飾った小机が用意されていた。
 小机の位牌の横に骨壷を置いた。
「ほな、預かってきたもん渡します」
 豊美は現金の入った封筒を畳の上に置いた。
「必ず早い内に返しますと、お母さんに言うて下さい」
「おかみさんは、返してもらわんでもええ言うたはった。房子さんもろといてええのんちがう。そのかわりいうたらなんやけど、あれを、うちが持って帰るんやから」
 豊美は横目で位牌と骨壷を見た。
「これで、完全に林の家とは縁が切れました」
 房子がそう言うと、
「ほんまにそやろか?」
と、豊美は良一の方を見た。
「うちの命かけても、あの子は、あの人にさわらさへん」
 房子は豊美の顔を真直ぐに見て言った。To be continued 

連載小説「もう一つの風景(9)」

2016-02-19 09:38:27 | 創作日記
もう一つの風景



 近鉄鶴橋駅のホームで電車を待ちながら、房子は取り留めもない不安を感じた。
「あの日何があったか、はっきりと言ったらどうだ」
 突然声がした。振り返るが、房子の周りには声の主と思われる人間は誰もいない。その声が男か女かさえ分からない。
 休日の駅は様々な風体の人々で賑わっていた。誰もが房子に無関心に通り過ぎていく。
―誰も私の事など知らない。それでいいのだ。私もすれ違う誰もしらない―
 しかし、駅で生活する人もいる。売店のなか、駅員、掃除夫、ベンチに長々と横たわる昼間の酔っ払い、日曜出勤の男。眼を凝らすと彼らが見えてくる。彼らが私の中を覗こうとしている。
―私にだけは言ったらどうだ。あの時、おまえはなにをしたんだ―
 私は彼らに無言で答える。
―あんた達は一体なにを言っているの? どうして、私には分からない。本当に分からないんだから、どうしょうもないでしよ。私が知っている事なら教えてあげる。知らないことをいいようがない―
 彼等の眼を避ければ避ける程、絡みつくように水晶体のゼラチン質のようなものが纏わりついてくる。
 目の前に電車が入ってきた。
 房子は髪に手をやり深く息をついた。
 見慣れた風景が車窓にある。それらは、次々に視界から去っていく。そして、消えても、消えても、それらは連続していて途切れることはない。房子はぼんやりとその流れを見ていた。
 一人になると安心する。何もかもがうまくいっていると思う。
 良一は、房子の予想した通り、居間で横になり、頬杖をして彼の好きなお笑い番組のテレビを見ていた。
 房子が横を通っても、知らん顔をして、時々大笑いをする。
「只今、お帰りくらい言うたらどうや」
「なんや、帰ってたんかいな、おもろいはこのテレビ」
 また、大笑いをする。
「ほんまに、ええ年して、昼間からテレビみて笑ろとったら。ほんで、昼ご飯はたべたんか?」
「そこいらのもんで、すました」
 ふと、不吉な気がして冷蔵庫を開けた。今晩にと楽しみにして、冷蔵庫の一番奥に入れておいた鯛の造りが案の定、かけらもなくやられていた。ボサーとしていてもこういう事には良く鼻がきくんだからと、房子は呆れた。
 房子の様子に気づいたのか、
「あんまりうまいもんばっかり食べてたら、はよ死ぬでえ」
と、良一が憎まれ口を叩いた。
 流しの乱雑に置かれた茶碗や皿を洗いながら、食べたいと思えば、鯛の刺身でも口に入る事を喜ばなくてはと、思った。
「誰もこうへんだ?」
「誰もこうへん。ちよっと家あけると、誰もこえへんだか? 変わったことなかったか? いつもや。誰か来たらいいますよって。変わった事あったら伝えますよって。そんな気になるんやったら出ていかんだらええのに」
「まあ、なんにもなかったんやったらええわ」
 房子は煙草に火をつけた。男になめられるないようにと無理して吸い始めた煙草だが、その必要のなくなった今も、手放せなくなっていた。光雄も煙草を吸わなかった。良一も吸わない。そして、女が煙草を吸うのを最も嫌っていたのは房子自身だった。
「話があるの。ちょっとテレビ消して」
「おもろいとこやね。ちょっと、待って」
「大事な話なんや」
 房子はテレビのスウィッチを切った。良一は不貞腐れて、身体を起こした。大事な話、房子の普段あまり使わない言葉に、良一はすこし怪訝な表情を浮かべた。
「なんや話して?」
「おまえに縁談があるんや」
「そら不思議やない。若うて、男前やから。そらあるやろ」
「どこが若いね。もう二人目の子がいてもええ年して。そんで進めてもええんか?」
「まあ、どっちでもええわ」
「ほんなら、釣書を書きや」
「適当にやっといて、よきに計らえや」
 話にならない。いつもこの調子だ。それで、お膳立てすると、必ず女の方から断ってくる。言い訳は少しずつ異なるが大同小異だ。 
ーいい人だと思うんですが、少し私とは性格が合わないと思いますのでー
「まあ、嫌われたんやないからええわ」
 三度目まではそう言って自分を納得させていたが、それが体のいい断りの文句だと気付くと、今度はあの文句、俺が言ってやるといきまいたが、未だにその台詞を使ったことがない。
 話が御破算になると、房子は何故か安心する。また、それがいけないんだとも同時に思う。
 庄三さんには悪いが今度の話も駄目だろう。良一だけの責任ではない。私の所為(せい)もある。嫁がくれば、自分は、一人で住もうと思ったりもする。だが、ここは、私と良一の家だと考え直す。To be continued 

連載小説「もう一つの風景(8)」

2016-02-18 09:02:39 | 創作日記
もう一つの風景



「おせっかいかも、ひょっとしたら迷惑かもしれへんけど」
 庄三は目を窓の外に向けたまま話をきりだした。房子も同じように目を窓の外の、時々舞い落ちる花びらを見るとはなしに見ていた。
「えっ」
と、思わず叫んで庄三を見た。色彩のない記憶の光景。何もかもが白と黒の濃淡の中で動いているモノクロの写真のような記憶のネガ。房子は過去の光景から現実に戻った。
「知り合いと言えるほどやないんやけど、娘さんを一人知っているや」
 房子と同様に老人会の世話をしている若い女性がお茶を二人の前に置いた。
 房子は両手で挟むように湯のみを持った。手に伝わる暖かさが次第に色のある世界の生気を取り戻し始めた。
「息子さんは独身や聞いたけど」
「へえ、それが?」
 房子らしくないもの分かりの悪さに、庄三は唖然となった。
 *
 すこし遠いが敏子の家に寄ろうと思った。先ずは釣書を交わさなければならない。歩きながら、要らぬ世話を焼いているのかもしれないと思うが、何故か敏子をこのままにしておけないと思う気持の方が強かった。自分が動かなければ、二人は一生知らないで終わってしまう。それなら、知り合ってからでも遅い筈がない。
 今日は日曜日だから、敏子は家にいるだろう。不在なら又電話でもしてなるべく早く話をしなければならない。
 庄三の放った石を、房子はこう言って受けたのだ。
「気にとめてもうておおきに。よろしおたのみます」
 そして、突然目頭を押さえた。
「おかしいでっしゃろ。うちみたいもんに気い遣てもうて」
 老人の世話をする房子は全てにてきぱきとしていた。妙な遠慮もなくはっきりと物を言うので、かえって老人に受けがよかった。
「家は俊徳道やったな」
「そうです。学校の前で文房具店してます。夫は死別で、お話もろた息子と二人暮らしです」
 それは、前から知っていることだった。そして、庄三が房子について知っている全てだった。                 
 敏子は庄三を見て一瞬不思議そうな顔をした。
「突然よせてもうて、忙しかったら、出直してきますけど」
「いいえ、忙しいことなんかあらへんけど、ちょつとびっくりした」
 居間にあった道具はきれいになくなっている。
「今、新婚旅行にいってますね」
「何処へ」
「ハワイ」
「へえ、それは豪勢やな」
 敏子とは二三言葉を交わすと直ぐに打ち解けることが出来る。十年以上会う事がなく
ても、そうだった。少し人見知りする性格の庄三には不思議な相手だった。
「色々と大変でしたやろ」
「もう、気ばっかりつこて、ドジなことばっかりしてましてん。花嫁、花婿よりあがってたいうて笑われてます」
 女一人の家で長い無駄話はいけないと思い、話の腰を折るように少し改まって言った。
「今日寄せてもうたんは、縁談の話をさせてもらおと思いましたんや」
「縁談? 誰の縁談ですの?」
 敏子は動揺の間を言葉で繋いだが、目には狼狽の色を隠せなかった。
「突然こんな話をして、非常識や思うたんやが、前からええ人いてたらと、頼まれていたんで、つい、敏子さんどうやろと思って。今日、その人、お母さんなんやが、おおて話したら、向こうさんはよろしい頼むということになって、そんなら、こちらも、はよう話せなあかんと」
「お茶いれます」
 敏子は庄三の言葉を遮るように言って、居間の奥に消えた。
 庄三の話には、後先の嘘があったが、彼の中だけのものだった。しかし、何故か後ろめたい気がした。
「ちらかってますけど、どうぞ、上がって下さい」
「いや、ここでよろしおます」
 庄三は上り框に腰を下ろした。
 気を落ち着かせる為に、煙草を吸った。そして、灰皿がないのに気付き、慌てた。
 敏子がお茶と一諸に灰皿を置いたので、ほっとした。
「急にやから、うちなんてなんていうたらええか」
「そらそや、しかし、昔とちごて、気楽に考えてもええのちがうな」
「話もってきてくれはったん、私、本当に嬉しい思います。弟夫婦は何にも言わへんし、色々と気をつこてくれます。せやけど、私のひがみやと思うけどやっぱりいにくうなった」
 そう言って、敏子は他人に言うことではなかったと後悔した。
 庄三はゆっくりと、煙草をくゆらせた。
「うち、なんや、しょうものないこと言うてるわ。弟にお嫁さんがきて、ちょっと嫉いてるんかなあ。うちの縁談となんにも関係あらへんのに」
 住みにくくなったから、もの欲しそうな目をして縁談に飛び付く、そう思われるのが死ぬほど嫌だった。
「十年以上も会わんと、わしがひよっこりあんたの前に現れたんもなんかの縁や、ここでこうしてこんな話してんのもなんかの縁や。こんないい方したないけど、年寄りの顔たてて、釣書だけでも書いてくれへんやろか。相手さんのを見てからでも遅うないと、思うんやけど」
「釣書?どう書くんかわからへん」
「履歴書みたいでええんや。生年月日と家族、勤め先、趣味、それに写真。写真は改まったんやのうてもええ。自分の感じがよう出てると思うんが一番や」
「両親いてへんの知ってはりますか?」
「知ってはる。相手さんも片親なんや」
 二人は黙った。表を子供達が騒ぎながら通り過ぎて行くのが聞こえる。耳を澄ますと、微かに機械の音がする。色々な音が混ざり、それらがこの町に溶け込んでいるように思う。大阪の下町の角を曲がれば、何処にでもある場所だ。To be continued 

連載小説「もう一つの風景(7)」

2016-02-17 14:30:06 | 創作日記
もう一つの風景



「まさか、酒の呑み方教える訳にもいかんし」と、
 順番に指名されて、庄三は少し緊張し、頭を掻きながら言った。車座になった老人達は大笑いした。中には手を叩いて笑っているものもいる。
「まあ、まあ」
 世話役が笑いを静めるように両手をひらひらとさせた。
「みんな、ちよっとたいそに考えてんのと違うやろか。わしらは、体力やもの覚えや、その他にも色々と若い者にはかなわんことが、ぎょうさんありますわな。せやけど、若い者にはないもんもある。その一つが経験や、長い時間かけて掴んだもんや。今の子供等が学校で習わへんもんやと思うんや。孫に話したるようにしたらええと思うんや。始めの頃は戦争の話が多かったけど、もう四〇年近く前のことやしなあ」
 いっちょかみ(なんでもかんでも首を突っ込んでくる人(関西弁))の万吉が満を持して口を挟んできた。
「時間が経ったから言うて忘れてもええもんとちゃう」
 得意そうに座を見回した。世話役は黙ってしまった。庄三も戦争に行った。「炭焼きの出来る奴」と言われて、一番に手を挙げた。炭焼きが出来たわけではない。そういう時はなんでも、一番に手を挙げろと教えてもらっていたからだ。その為か内地が殆どだった。部隊の移動もなかった。ただ、最後には、外地の命令が出た。準備をしているうちに終戦。人並みに戦争の苦労をしたが、死んだ奴に比べると屁でもない。しかし、戦争を思い出すことが殆どないのも確かなことだった。
「体力やもの覚えでも、今の若い奴には負けへんけどな。相撲大会でもしょうか。老人会対子供会や」
 金物屋の幸助さんがいっちょかみの言葉を無視して言った。耳が遠くて聞こえずにお茶を啜っているのもいる。その音が、会話の合間合間に聞こえる。
「あんたとやったら、うちの三つの孫でも勝つわ」
 肉屋の清三さんが憎まれ口をたたく。
「なんやて」
 幸助さんが色をなす。
「まあ、まあと」と世話役が取りもつ。
「世話役さん遊びでもええかな。例えば、いまの子供等がしらんし、せんようになった石蹴りなんか」
「それでもええと思うわ。せやけど石蹴りする場所あるんかいな。それにルールもあったし。誰か覚えてるか」
 誰も答えない。
「石蹴りはせがれとよう遊んだなあ。せやけど今ケンケン(片足跳び)出来るか」
「できへん。杖ついてるしな」
「それやったら、うちはおじゃみやなあ。小豆いれて上手につくれる」
 話に乗って色々な昔の遊びの名前があがる。すると、座から一人離れ柱にもたれていた老人会の長老が大声で言った。
「わしは夜這と、後家ごろしを教えたる」
 ばあさん連中が喜んだ。隣のばあさんと、肩を叩き合って笑い転げる。
 長老は何年も世話役をしたことがあり、此の頃は自分は疎外されていると、僻んでいる。だから、座が盛り上がると、突拍子もないことを言い出し、話の腰を折るのを唯一の楽しみにしている。
「子供等が年寄りの話なんか喜んできくかいな。そうやろ、家の中でも年寄りの話は嫌がられんのにや、ぎょうさん子供集めて老人の話を聞く会なんかやってもしゃないで。子供もかわいそうや」
「それもそうや」と頷くものもいるので、収拾がつかなくなった。
 房子がお茶を運んで来た。
「えらいにぎやかで」
「にぎやかなだけで、いっこも話進みまへんね。一応は町の代表さんに来てもうてますんやけど」
と、世話役が言った。
 一応というのに引っ掛かったのか、長老が世話役を睨んだ。
 世話役は身体を小さくして、小声で、  
「南や北は決まりましたんかいな」と、房子に聞いた。
「詳しいは知りまへんけど、南では環状線の歴史というのを話さはる人がいたようですけど」
「ふうん、環状線の歴史か」
「ながいこと国鉄に勤めてはったんですて。うちも知らなんだけど、色々な人がいたはりますねんなあ」
「ここにはいてへんな。揚げ足とりのじいさんと、嫁いびりの上手な人やったらいてるけど」
 房子にだけ聞こえる小さな声で世話役は言った。
「庄三さんなんかどうやろ」
 急に房子の口から名前が出たので、庄三は狼狽えた。
「とんでもない。わしは口下手やし、それに、喋ることもなんにもあらへん」
 庄三は慌てて手を振る。房子がそれでも何か言おうとした時、いつの間にか車座の中央に出てきた長老が喋り出した。
「誰もいてへんねんやったら、しゃないな。あんまり気進まんけど、わしがやろう」
 今度は世話役がうろたえた。
「どんな話です」
「三光神社の歴史。これやったら子供も喜ぶやろ。真田幸村や。真田十勇士もおもろい」
 誰か手の叩く者がいて、それにつられて、話し合いに飽きていた老人が手を合わせ、呆気なく幕が下りてしまった。
「なんや、結局、自分がやりたかったんかいな」
 呆れて世話役が言った。
「三光神社って、真田山のとこにあるあれかいな」
 誰かが座布団を片付けながら言っている。
「あんまり時間かからんように言うとかな、それにあんまり歴史から離れることは言わんように釘さしとかな」
 世話役は苦虫を噛をかみつぶしたような顔をして言った。
「ほんまに、急に名前出すよって、びっくりしたわ」
 せっせと湯のみを集めている房子に庄三は声をかけた。
 ふと、目をあげ庄三を見る。
 輪郭のはっきりとした顔だちと、大きな目は、若い頃の美貌を想像させるのに十分だった。
「えらいすみません。ちよっと出すぎたこと言うてしもて」
 庄三の目を真直ぐに見ながら房子は言った。庄三はその目に押されて、視線を外した。
「いや、いや、そんなんかまへんね」
 手をふりながら、庄三は房子に何か話すことがあったと思った。
「なんか房子さんに話あったんや」
「へえ、なんやろ。そういうたら、先月うちを捜したはったでいうて冷やかされてましてん。てんごいうたはんのやばっかり思うてたんやけど」
「あ、そうやあの話や、歳とると物忘れがひどなって」
「中村さん」
 房子を呼ぶ声がした。
「はーい」と、返事をして、房子は腰を上げた。
「いそがしそうやな。ほんなら今度にするわ」
「いいや、もうすぐおわるんですけれど。庄三さん時間大丈夫やったら娯楽室でちよっと待ってもらえたら」
 口早にそう言って、庄三の返事も聞かず、声の方に立って行った。
 娯楽室の窓際の椅子に腰を下ろした。憩いの家の周りに植えられたかぼそい桜の木に、それに見合った数少ない花が開いていた。敷き詰めたように咲く桜も好きだが、花の枝を一つ二つと数えられる小さな木もいいもんだと、庄三は目を細めた。
「もう桜の日なんやわ」
 房子が声をかけるかわりにそう言って、庄三の前に腰を下ろした。
「そうや、一日一日が桜の季節やから。房子さん風流やなあ」
「そんな、めっそうもない」
 房子は慌てて手を振りながら、胸の底を冷たい風が一瞬通り抜けていくのを感じた。今は無関係で、日ごろは忘れている筈の時間が、何気ない自分の言葉の中に、身体の中で無意識のうちに飼育していた生き物が不意に現れるように蘇っている。
 罵倒の限りを言った後、畳に顔を擦りつけて哀願を繰り返す。
 光雄は無表情な目を戸口の方に向けている。良一は母の剣幕に怯えて、両足を抱え身体を丸め時々窺うように両親に目をやる。
 地獄を振り払うように房子は叫ぶ。
「お願い、出て行って」
 何度も、何度も叫ぶ。
 後に来る重苦しい沈黙の中で、光雄は、あの時も、平静な声で、
「もう、外は桜の日やで」
と、言った。To be continued