朝日新聞2013/9/27(金)の夕刊に掲載された批評に対して書きます。沢木氏は「これは宮崎駿の作品ではない。と」最初に書いている。過去の作品とかけ離れているということだろう。後に続く文もその論証に過ぎない。人は年齢とともに変化する。一つのテーマを深める人もいれば、テーマを広げる人もいる。異なる分野に向かう人もいるだろう。宮崎駿監督はアニメ以外に自分の道を探ろうとしているように思う。次作がないのを一番よく知っているのは監督自身だと思う。終わったのだ。沢木さんは72才の監督に「となりのトトロ」を期待しているのだろうか? 私は「風立ちぬ」を完成させた監督に喝采する。沢木氏の言う「物語の階段」や「段差」を内蔵させることによって物語の悲惨さを際だたせている。私は素直に「風立ちぬ」に感動した。
ios 7 をインストールしました。ソフトが動かなくなったり(問い合わせ中)、戸惑ったり、あまりいいことがなかったけれど、一つよいことがありました。App Store をタッチするとソフトのアップデートができました。AdbeReader もアップデート。なんとAdbe Reader で注釈が読めるようになりました。メモを開くをタップします。ちょっと面倒です。「枕草子読み語り」の注釈も読めます。私には大事件です。iBooksでもと思いましたが、だめでした。
「想像ラジオ」のパーソナリティアークは高い杉の木に引っかかっている3.11の死者です。アークはあの世とこの世の間に宙ぶらりんな状態でぶら下がりながら、DJ(ディスク・ジョッキー)をしています。リスナーも死者。「想像ラジオ」は想像によって聞こえるラジオ。なんかややこしくなりました、小説を2,3ページ読めばこの構図は分かります。小説家として3.11に正面から取り組んだ作品だと思います。3.11の立場は死者から傍観者まで様々です。奈良県に住む私は地震を感じなかった。だが、一日中テレビは見ていた。何にも出来なかった。いや、しなかったのかもしれない。そして、今も、喉に刺さった小骨みたいに、折に触れて痛みます。3.11は日本人の共通の経験だと思います。この作品が芥川賞を取らなかったのは残念です。でも、作者は芥川賞よりも、この作品を書き上げたことの方が嬉しかったと思いますよ。私は震災を取り扱ったNHK土曜ドラマ「キルトの家」・山田太一について感想を書いています。「3.11はあなたにとって何だったか」。皆さんの意見を聞きたいですね。
薬師寺・「東塔水煙降臨展」へ行ってきました。昨日(2013/09/16)から始まってますが、初日は台風で大変だったでしょう。東塔はいますっぽりとシートに覆われています。修理が終わるのは2018年。あと5年です。水煙とは、九輪の上にある火炎上の装金具で火災、水難から守るためのものらしいです。61年ぶりの特別公開。水煙には飛天が描かれています。写真に目を凝らすと下から、下段は笛を吹き、中段は皿(華籠(けこ))を持ち、上段は合掌するように蓮の蕾(?)を捧げ持っている天女が浮かび上がってきます。まさしく飛天降臨です。実物を見ると感動します。次に地上の人が見るのは何年後か。間違いなく私はいません。金属製ミニチュアレプリカのコーナーがありました。これを買うのも目的の一つ。でも、売り切れということで、予約して、自宅への配送を待つことにします。せっかくの薬師寺、仏像を拝んで家路につきました。
失敗。いつもうまくいってたのに。焼きすぎました。タイマーをセットして、ほっておいたのが原因。「いろいろと条件が違うから、途中で見なければいけないよ」。妻からいわれました。油断大敵。カチン、カチンのを二人でかじりました。写真? おなかの中です。しょうもないと思いながらも、失敗も書かなきゃね。失敗ばかり集めたのもおもしろいかも。こんなのがありました。思わず笑ってしまった。
雨です。庭に出ると、思いがけなく朝顔が一つ咲いてました。ツルだけが伸びるだけで全く花が咲かなかったのに。可憐です。雨と朝顔はよく似合います。自然の紫です。
爪と目には短編が二つついている。「しょう子さんが忘れていること」と「ちびっこ広場」である。この二編が「爪と目」と決定的に違うのは小説が閉じていないことです。小説として終わっていない。犯人が最後まで分からない推理小説みたいに読者は宙ぶらりんな空間に放り出される。具体的に言えば、「しょう子さんが忘れていること」は彼が誰なのか(三人称で書かれていますから)、「ちびっこ広場」て゛は母子でちびっこ広場に行かなければ小説は閉じない(終わらない)。
一方、未完の小説が読者に限りなく想像をかき立てるのは、どこで終わっても小説が閉じているからで、または、そのように書かれているからです。そういう意味では「爪と目」はどこで終わっても、小説として閉じたでしょう。小説は短編長編にかかわらず「閉じる」ことが要求されます。そうでなければ独り言になります。
一方、未完の小説が読者に限りなく想像をかき立てるのは、どこで終わっても小説が閉じているからで、または、そのように書かれているからです。そういう意味では「爪と目」はどこで終わっても、小説として閉じたでしょう。小説は短編長編にかかわらず「閉じる」ことが要求されます。そうでなければ独り言になります。
不思議な書き方である。語りは一人称(わたし三才)だが、視点は二人称(あなた父の愛人)。これは二人称小説というのだろうか。「アフターダーク」・村上春樹も奇妙な視点を持った作品だった。僕はブログでこう書いている。
「村上春樹は「海辺のカフカ」の後に、正確に言えば2004年に「アフターダーク」を書いている。これはとても不思議な作品で、視点は映画のカメラのようだ。シナリオのト書きのようにシーンの説明だけが語られる」。
「爪と目」は基本的には三人称小説だと思う。「わたし」の視点はとても三人称に近い。ただ、その視点はひたすら「あなた」向けられている。文章は平易で読みやすい。所々にドキッとする鋭い表現に出会う。ブログの世界は女性の感性が見事に表現されている。この小説自体がブログかもしれない。ブログも視点はひたすら「あなた」に向けられている。不特定多数という「あなた」だ。ふと、そう思った。
「村上春樹は「海辺のカフカ」の後に、正確に言えば2004年に「アフターダーク」を書いている。これはとても不思議な作品で、視点は映画のカメラのようだ。シナリオのト書きのようにシーンの説明だけが語られる」。
「爪と目」は基本的には三人称小説だと思う。「わたし」の視点はとても三人称に近い。ただ、その視点はひたすら「あなた」向けられている。文章は平易で読みやすい。所々にドキッとする鋭い表現に出会う。ブログの世界は女性の感性が見事に表現されている。この小説自体がブログかもしれない。ブログも視点はひたすら「あなた」に向けられている。不特定多数という「あなた」だ。ふと、そう思った。