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創作日記&作品集

作品集は左のブックマークから入って下さい。日記には小説、俳句、映画、舞台、読書、など…。そして、枕草子。

新屋英子さんの思い出

2016-05-10 15:08:54 | 創作日記
新屋英子さんが亡くなられた。
ラジオドラマ「バスが行く」が放送されてから20年経ちます。
私の脚本でした。
プロデューサーの意図は関西の劇団の重鎮でラジオドラマを作ろうということだったらしい。
河東けいさん(うた)、 新屋英子さん(ゆめ)、岩田直二さん(平三郎)、西山義孝さん(おときち)で1995・10・01にFMシアターで放送されました。
脚本は、作品集とブログのラジオドラマから読むことが出来ます。
ドラマづくりは楽しかったなあ。色々教えてもらいました。あの時、新屋さんは四人の中で一番若かったのに……。合掌。

連載小説「もう一つの風景(最終回)」

2016-03-06 10:05:07 | 創作日記
連載小説「もう一つの風景(最終回)」
もう一つの風景

25

 一眠りしろと勧める木田を振り切るようにしてKは病院を出た。
 何事もなかったように街は眠っている。星も月もない、濃紺の空は、ビルの背後や、民家の背後から立ち上がり、球形の内側を這い上がる軌跡を造っていた。Kは自分がうつぶせに置かれた碗のなかに居るような気がした。歩けば歩くぶんだけ碗はずり下がり、果てしなく身体を覆い続ける様だ。
 彼は当て所なく歩きだした。自分の影を追うように歩いた。
 巨大な人影のように立ち竦む街路の木の横を、あかあかと照らし出された空っぽの電話ボックスの横を、時々通り過ぎていく車の横を、残飯をあさり、人の気配に遠ざかる犬の残像を睨みながら歩いた。
 歩きながら、自分はひとりぼっちだと呟いた。誰にも優しくされたことがなかった。誰にも優しくしたこともなかった。
 自業自得だと呟いた。
 あの地獄から逃れた筈だった。
 互いの欠点をあげつらうだけの男と女の生活。いつからそうなったのか分からない。結婚が打算だったからか、ただ人並みの生活の殻を求めていたためなのか。
 ガスの吹き出す音が聞こえてくる。冷静にガスの栓を締め次に窓を開け、妻の死を確認した時、俺は何を思ったか。女とは簡単に死ねるものだ。そして、俺は開放された喜びをその深刻な顔の下に素早く隠しはしなかったか。後は演じればよい。時が忘却の幕を下ろすまで。
 夥しい他人の時間の中で、自分の時間を失い、自分の時間の定義を忘れる。自分の時間も夥しい他人の時間の一コマにすぎないように思えてくる。
 おまえは一時でも人を愛したことがあったか。それが、人の愛を渇望する。なんて喜劇だ。
 Kは、誰も横切らない交差点で信号を待っているタクシーに手をあげた。
「悪いな、もう終わりなんよ」
 人の良さそうな顔を窓から出して運転手は言った。
「頼むよ、困ってるんや」
 Kは、腕を窓から差し込んで言った。
「適当に書いとってくれたらええんやから」
 Kはタクシーチケットを渡した。
 行き先を告げようとして、Kは口ごもった。誰もいない部屋に帰るのがたまらなく嫌な気がした。僅かな時間の後、明日がやってきて、一年一日のごとく自分が動きだす。車の外には誰もいない都会の静寂が流れている。煙草に火をつけた。
「今まで、仕事やってん。飯が食べたいんや。どっかやってるとこしらんか」
「今ごろやってる店かいな。オイルショックで深夜営業してるとこのうなったし」
 空腹感はまるでないが、酒が欲しかった。
「運転手仲間の集まる店やったら一軒知ってるけどな」
「そこでええわ、行ってえな」
「阿部野やで、かまへんか。わしも、そこで飯くって会社へ帰るけど」
「かまへん」
「女も呼べまっせ」
 運転手は、卑猥な笑いを浮かべた。
 Kの目に霊安室の女の顔が浮かんだ。妻と同じ顔だと思った。その時下半身に小さな欲望がを感じた。Kはふかぶかとシートにもたれ掛かった。車は反動をつけるように、勢いよく動き出した。
「この時間に、酒のんでへん客乗せるんは珍しいことや」
 運転手から話かけてきた。
 Kは、前部座席のシートに掛かっている、タクシー運転手募集の広告を目の高さで見ていた。
「タクシー乗務員募集か? これ、あんたの会社のんか?」
「ああ、そうや」
「わしも、タクシーの運ちゃんになろか」
「あかん、あかん、しんどいだけや。やめときなはれ」
「せやけど、外へ出たら、うるさいやつもおらんし、気楽でええがな」
「まあな、それだけが取り柄や」
 運転手はチラリとKの顔をみて人の良さそうな笑いを浮かべた。
 Kは自分でも不思議な程饒舌だった。
 昼間は車でひしめいている道路も閑散としている。車は滑るように、複雑な道を走り過ぎていく。
「都会ってこうして走ったら、遠いとおもとっても、意外と近いもんでしゃろ、もう、弁天町や、ちょつと、ゆっくり走りまっせ。道路に寝とるやつが時々おるよって」
 電車の走らない高架の線路は都会にかかった細長い橋だ。夜は汚れものを隠し、光は生き物になっている。誰もがねぐらにおさまり、まだこない明日を信じている。Kは不思議な気がした。生きるということの正体は、知っているようで誰もしらないのかもしれない。まるで、樹液を吸い鳴くだけ鳴いて、次の瞬間には木から落ちていく蝉のようだ。鳴く意味も、樹液を吸う意味も、落ちる意味も知らない。一瞬々が、生の表現以外の何物でもない。
 浮浪者が一人道端で座り込み、酒を呑んでいる。ライトに照らし出された男は、躊躇することなく、反射的に持っていた瓶を投げた。
 運転手は意にかいした様子もなく男のそばを通り抜けた。
 無視された男に代わって瓶の割れる音が、静寂な街に響いた。
 Kの見知らない街が窓の外を流れていた。大阪に四十年住んでいても、知らない場所ばかりだ。車窓から覗く線路沿いの光景しか知らないのかも知れない。確かに、そういう意味で都会は深く広いのかも知れない。
 車は商店街に入った。
「昼間は人ばっかりで、とおれんけど、今時はすいすいや。ゴミ箱あさりにくる、犬や猫ももう寝たんかしておらんわ」
 犬、この街に犬の記憶がある。
 路地で頭を割られていた犬。棒を振り下ろしていた男。
 いつの頃だったのか、忘れている。夢の中の出来事かもしれない。殺されている犬にも、殺している男にも自分はなっていたように思う。
 車が急に止まった。
「ここから先は車は入られへんよって、お客さん、降りてもらえまっか」
 路地の中程に、明かりの点いている家が、一軒見えた。
「ほんまに秋やな、時間遅いと、季節がよう見えるわ」
 運転手は大きなのびをして言った。
 Kは、彼の顔半分に大きな痣があるのに初めて気づいた。
 立て付けの悪い引き戸を開けると、店は意外にたてこんでいた。
 不揃いなテーブルが四つ、カウンターの中に、中年の女がいた。天井の隅に消えたテレビが店内を見下ろしていた。一番端のテーブルに陣取っているのは、様々な制服を着たタクシーの運転手仲間だった。テレビの下で黙々と飯を食っている女は、年老いた売春婦に思えた。戸口には、派手な服を着た女が、大声で喋りながら、さかんに男の背中を叩いていた。
「ノンちゃん、どうや景気は?」
 ノンちゃんと呼ばれた運転手は例のひとなつこい笑みを浮かべながら、
「あかんわ、もう、今日は店じまいや」
と、言って、背もたれを抱え椅子に逆に座り仲間と話始めた。仲間はKに一瞬好奇な目を向けたが、直ぐに、反らした。
 Kは品がきに目をやりながら、尻を向けている運転手の前に腰を下ろした。
 カウンターの中の女が注文を促す様にKをみている。
「酒もらおか」
「一級、二級?」
「特級や」
「特級? やめとき、水混ぜよるで」
 尻を向けている運転手が痣のない方の顔を見せて言った。
「ノンちゃんしょうもないこといいなや」
 女が初めて笑いを見せて言った。
「ほんまのこというてなにが悪いんや。二級に水混ぜて、特級やいうて、ばれたことないいうてたやないか」
「あほ、あれはな二級の燗冷ましに混ぜるんや」
「そうやそうや、二級の燗冷ましを特級の瓶に入れておいときよるんや。それにな、ちょつとだけ砂糖いれるんや」
 仲間が口々に言う。
「あほいわんといて、お客さんほんまにしはるやんか」
 Kは黙っていた。
「特級なんて、酒やないわい。なにもひがんでいうてんのちがうで」
 後ろで、声がした、振り向くと、長身の男が、身を屈めるようにして、入ってきたところだった。かなり、酔っているのか足元がふらついていた。
 彼は店内を見回し、一斉に見られたことを恥じるように身体を小さくした。
 酔った身体を確かめるようにしながら、男はKのテーブルに近づいてきた。
「ここよろしおましゃろか?」
 Kは黙ったまま身体を少し動かした。
 自分と同じ年配だろうが、頭がかなり禿ていて、頭髪に白いものが目立った。
 男は自分の位置を確かめるように、両手を伸ばしてテーブルの上に置いた。長くて細い指だ。箸よりも重いものを持ったことのない手だと思った。
 男の目はすっと伸ばした指先に落ちている。小心そうな目をしているが、落ち着いた目の色をしていた。いらつきもなく、澄んだ目で自分の指先を見ている。男は自分が逃げ出した家の事を考えていた。思い詰めるという風でなく、ふと、思い付いたという風に指先に重ねていた。
 運転手は、飯をかきこんでいる。一人二人と仲間は席を立った。
「ノンちゃん、おさきに」
 男達は、決まって痣とは逆の肩を叩いて、店を出ていった。
 顔の痣なんて、なんてことないと、人は言うだろう。だが、それは痣のない人間の言葉だ。時として、痣のない半分の方の顔を見せて笑っている彼の言葉だ。
「その痣、どうしゃはったんですか?」
 指先を見ていた男が急に顔を上げてポッリと言った。
「生まれつきや」
 運転手の目に、一瞬狂暴な色が流れ、直ぐに消えた。
「初対面で、赤の他人やのに、そんな事聞いたんは、おっさんが初めてや、夫婦げんかしても、嫁はんも言うたことないのに」
 Kは酒をコップに注いだ。
「どや、一杯」
 銚子を運転手の目の前に上げた。
「あほかいな、車やで」
 彼は笑いながら手を振った。
「せやけど、うまそうやな。ちょっと車、会社へ入れてくるわ。お客さんかまへんか」
 Kは呆気に取られて、出て行く運転手を見送った。彼は、ここが、Kの行き先だと思ったのだろうか?
 カウンター越しに、柱時計が二時を回ったのが見えた。一晩変わった場所で、変わった時間を過ごすのも悪い気はしない。成り行きに任せて、時を枕に、ぼんやりとしているのが、今の自分に一番合っているように思える。眠気が全く襲ってこないのも好都合だった。Kは、二本目の酒を頼み、隣の男をチラッと盗み見た。
 男は背筋を伸ばして、飯を食っている。酔っていると思ったのは、彼の錯覚だったのだろうか? その姿には、毅然としたものさえ感じられる。この男は育ちがいいんだ。箸の持ちかた、口の動かし方、俺のような下品な育ちではない。しかし、育ちが上等でも、下品でも、この場所で飯を食っていることには変わりはない。いや上品だからこそ、みじめさが強く浮き上がる。
 だが、男はそんなことを一向に気にしている風には見えない。貧しい食事を楽しんでいるように思える。
「猪口一個、まわしたってんか」
 Kはカウンターの中の女に言った。
「一杯どうでっか?」
 猪口を男の前に置いて、Kは銚子を出した。
 男は、Kの言葉に身体をビクリと動かした。悠然としているようで、小心なのかもしれない。二度と会わないであろう他人を一々観察している自分が、ふと、いやになった。
 隣あわせて酒を呑み合うのに理屈は必要ないだろう。しかし、彼は、今何故ここで酒を呑んでいるのだろうか?
 忘れてしまいたい過去と、なんの希望もみいだせない未来、自分はそれが、唯一の生きている証明のように苛立っていた。酒を呑むと少しずつ鱗が剥がれ始める。まず、今の職場を去ることが、既成の事実のように思えてくる。その時は、あの男を只で済ましておかない。惨めな笑い者にして、今までの復讐をしてやる。その為の方法を酔った頭で考える。全てが実現可能な簡単なことに思える。
 しかし、その元凶は、あの白い建物だ。なんて陰気な職場だ。病人の吐き出す金に群がり、蛭のように血を吸う。病人の為になんて、少なくとも俺には関心のないことだ。俺の周りの何処に病人がいる。あるのは病人の吐き出した金と等価の書類だけだ。院長は俺たちを、必要経費だと呼び、必要は最小限度を理想とすると言ったという噂だ。
 あの女は病院に復讐をしたのではないだろうか? Kはふと思った。その理由は考えないが、何故かそれが一番合っているように思った。
「えらいすんまへん」
 男は杯を啜った。
「わしからも、一本つけさしてもらいますわ」
 いつの間にか、男も新しい銚子を持っている。
「ねえちゃん、なんかつまみとってな」
 男が言う。
「ここにあるもん勝手にとっていったらええやろ」
 女がうるさそうに応える。
「そこまで行くのんおとろしいがな」
「あんた奈良の出か?」
 Kが口を挟んだ。
「ええ、そうですねん」
 光雄は、急に話しかけてきた小男の胸あたりに視線を落として言った。今日一日の日当を全て無くしてしまった後だったが、彼には奇妙な満足感があった。一日の汗の分が、一瞬に消えた時、後悔よりも、壮快さを感じた。自分の食べる分だけの金があればいい。それさえなくなった時は、路地の残飯をあさることも気おくれしなくなっていた。
 なんやかやいうても生きていけるんや、死ぬ時の事を考えてもしやない。彼は、四六時中呟き続けていた。人がどう思おと構わない。そうも呟いた。
 胸の奥に黒い固まりがある。その存在に気づく時彼は呟き続けた。
 二人は無言で酒を交わし続けた。
 お互い相手を語る言葉も、自分を語る言葉も失っていた。
 酒が神経を麻痺させていく。つまらない明日を忘れさせる。
 店の構造がKの目の中で普段の場所に変化していた。カウンターの向こうに三畳ほどの板の間があり、眠っている子供の頭が見えた。
 カウンターに直に並べられたおかずの皿に、時々秋の蠅がたかるのだろうか、女は思い出したように蠅を追う手の動作を繰り返していた。その横に大きな鍋が湯気を立てていた。カウンターの上や壁に張られた品書きは、くろずみ、滲み、剥がれているものもあった。店は、静かになり、Kと光雄の二人になったらしい。
 運転手は帰ってこない。やっと、逃げたのだと分かった。女に聞いても無駄だろが、 
「運転手帰ってこんな」
 と、話かけた。
「あたりまえや、今ごろは、夢のなかや、よっぱらいにいつまでもつきおうてられへんからやろ」
「どいつもこいつも」
 Kが吐き棄てた。
「あいつの家どこやねん」
「しらん、せやけど、聞いてどうするんや」
「家に火つけたる」
「しょうもない、それより、もう店しまうよって」
 女がカウンターから出てきた。
 いつのまにか、男は膝に顎を乗せた犬の頭を撫でている。犬が何時店に入ってきたのか、Kは知らなかった。
 男は、掌に小さな肉片を乗せ、犬の長い舌に、嘗めさせている。そして、片方の手が、執拗に犬の頭を撫で続けている。
「あんた、このへんに、泊まるとこあるか」
 Kは言った。
 男は、犬を撫でる手を止めずに、
「なんぼでもある。今やったら、公園に寝てもええ気候や」
と、言った。
 二人は坂を下っている。
 深い闇の中にどんどん落ちて行く気がする。底なしの闇に、どんどん落ちて行く気がする。
 高い石塀に、手を添えて歩く。
「女郎が逃げんように、造ったんやて、なんで、今ごろまでのこってんのやろ」
 光雄がKの背後で言った。Kは無言で歩き続けた。
「森之宮の、焼け跡と一緒なんやろか」 「おっさん、しょうもないこというてんと、はよ、寝るとこつれてえな。俺ねむたいんや、ものすごうねむたいんや」
 Kは甘えるように言った。光雄は、男の背中が闇の中で小さく揺れながら、坂を落ちていくのを見ていた。この小男は怒りを身体一杯に含んでいる。また、それを爆発させないように、怒りを抱いたまま、誰も知らない彼の闇に落ちていく。
「わし、犬が好きや。餌やったら、尾を振ってくれよる。一日飼うたら、すぐになつきよる。かいしょなしやいうて、なじったりせえへん」
 そう言いながら、光雄は道路を睨み、吸い殻を素早く拾って火をつけた。
「わしは、犬が嫌いや。とくに繋がれている犬みたら、吐き気がしょる。繋がれとる犬は、こっちが睨んでも逃げようとしよらん。俺は安全やから、勝手になんでもさらせいうよな顔しとる。俺は家の前に繋がれとる犬殺したったことある。朝起きた時の飼い主の顔見たかったわ」
 喋りながら、あいつが犬を自慢していたのを思い出した。五つも年下の上司。あいつの犬の頭を砕いている自分の姿が浮かび上がった。
「つながれてる犬は逃げられへんの分かってるから、じっとしとるんや」
 光雄が言った。
 Kは振り向いて言った。
「俺ねむたいんや、ものすごうねむたいんや」
 それ以後、二人は喋るのを止めた。
 公園で眠る人間は、沢山いているだろうに、その気配が全くしない。
 ちいさな明かりに、思い出したように浮かぶ薄い影を引きずりながら、二人は歩いた。闇の底から聞こえてくる、動物たちの啼き声は、風の音に混じり、どこか悲しげに聞こえた。それは、男たちの息の音に似ていた。動物園の高い塀に沿って、二人は、闇に落ちていくように歩いた。
                           
  平成二十八年三月六日(日) 了

お読みいただいてありがとうございました。何なりとコメントをいただければ幸いです。

連載小説「もう一つの風景(24)」

2016-03-05 09:43:05 | 創作日記
もう一つの風景

24

「おっさん、忘れとってんな」
 うっかりしていれば、行き過ぎてしまうような通路だ。時々荷物の搬入に、行きどまりになっている扉を開ける事があるが、そうでなければ、霊安室の場所さえ彼は知らなかっただろう。
 病院には彼の知らない場所が無数にあるように思う。また、彼の知っている場所を知らない者もいるだろう。房子は、事務室の奥の、すえた匂いのするカルテ室を知らない。一部の医者は、臓物の標本を運ぶ男の事を知らない。患者は自分の臓器が炭酸ガスの装置の中で標本として生き続けるのを知らない。麻酔にかかった男は自分が切り刻まれる様子を知らない。
 いやな場所のドァが開いていたもんだ。気づかなければ、通り過ぎたものを。Kは、ドァに声をかけた、
「出てこいよ。誰かいるんか」
 通路に踏み入れた足が動こうとしない。大の大人がと苦笑するが、顔の筋肉が少しひきつっただけだった。
 目を凝らして、人の気配を窺う。
 Kの耳に、また、モーターの音が帰ってきた。彼は、気持を落ち着かせる為に、大きな呼吸を一つして通路に足を踏み入れた。ドアの中に深い闇が見えていた。そっと、ノブを押す。ドアはなにか柔らかい物を鋏み込んでいる。それは、弾力のあるものだった。
 柔らかい物体の弾力。
 Kは身体を斜めにして、部屋に滑り込んだ。その拍子に、ドァは音をたてて閉まった。ドアの裏側にドアの揺れに小刻みに揺れながら、女が浮いていた。
 遠くで、Kを呼ぶ木田の声がする。それは、違う時間から聞こえてくるようだ。Kは煙草に無意識に手を伸ばしていた。指先が激しく震えるのが分かった。
 ノブに手を伸ばした。女の足が頬に触れた。Kは、ゆっくりと、ノブを回した。そして、這いながら外へ出た。木田の声が、また、聞こえた。
「Kはん、Kはん」
 Kは、訳の分からない声をあげなが、木田の声の方向に駆け出した。
「首吊っとるわ」
「どこでや」
「霊安室や」
「へえ、また似合いの場所でやな」
 木田はノロノロと歩き出した。
「Kはん、医者呼んで来て」
「もう、死んどるわ。冷とうなっとる」
「それはどうでも、なんしか医者呼ばなあかんね。見付けるまでがわいらの仕事や。医者呼んだあとは、人にいわれるようにうごいたらええんや。せやけど、Kはん、えらい震えてまんな」
「そんなことあとで人にいうたら承知せえへんで」
 木田を睨みつけて、言った。
「いわへん、いわへん、それより、はよう医者呼んできてえな」
 そう言って、木田の姿はふっと、通路に消えた。
 当直の医師は若い男だった。
「へえ、よりにもよって、霊安室でなあ」
 医師は冷たくなった腕の脈をとり、見開いた目を木田の持っていた懐中電灯で、覗き込
んだ。
「縊死や。死亡は確認した」
 医師が後ろを向くのと同時に、木田が医師の身体に隠れながら、右手を女の大腿の間に差し込むのをKはぼんやりと見ていた。
「首つりははじめてやな。あんまり、ええ死にかたやないな。学生実習で、これは首吊りやいうて騒いでた死体見たことあるけど、こんなにもろに見るのははじめてですわ。それで、この人誰?」
 ついてきた看護婦がおもわずクスと笑った。
 ドァの角に不安定に紐が掛かっていた。ずれて落ちなかったのが不思議な位置だった。首に掛けた浴衣の紐を二回結んでいることと奇妙な対照だった。
「こんな顔したはったんかいな。べっぴんさんやのに」
 木田が言った。
「なんや、おっちゃん顔しらんだん」
 看護婦が眠そうな目をして言った。
「しらんだ。病院中捜して、わしが疲れた頃には、この人も疲れたんやろな、病室に帰ったはったから」
 警察の立ち会いや、家族への連絡やらで、Kは二時間以上も病院に留まった。
 守衛室で家に電話をしたが、家族への連絡は取れなかった。どんな場所で電話のベルは鳴っているのだろう。受話器を耳に当てながら、単調な音の中に、女の家を思い浮かべようとしたが、なんの飾りもない黒い電話機しか彼の頭の中に浮かんでこなかった。何回も執拗にダイアルを回すKの背後で、老人は半分眠りながら言った。
「Kはん、明日、いや、もう今日か、だんなの会社に電話するよって」
「帰るわ」
「こんな時間にかいな」
「チケットくれや」
 Kは言った。To be continued   次回は最終回です。

連載小説「もう一つの風景(23)」

2016-03-04 08:41:49 | 創作日記
もう一つの風景

23

 取り次ぐ電話の数も徐々に少なくなった。
 Kはテレビを見続けた。木田が忙しそうに、電話の取り継ぎや救急車の応対に走り回っていても、彼は、無視し続けた、それは彼の仕事であり、自分には無関係なことだった。
「Kはん、もう、ねてもうてもかまへんで」
 やっと、夕刊にありつけた木田が言った。
「ちょっと、電話してみいや、病室にいるようやったら、お役御免や。帰るで」
「いまからかいな、電車あらへんで」
 その時、電話が鳴った。
「やっぱりきた、Kはん、今晩もや」
「なにをさらしとんのや看護婦は。三晩続けてやでほんまに」
 Kは大儀そうに立ち上がり、大きな欠伸をした。
 午前一時、真夜中のかくれんぼ。
 どちらが、鬼なのか?
 捕まえられたくて、逃げ回っている鬼もいる。
「とにかく、屋上を見てくるわ。看護婦がくるよって、電話番頼んで、あんたは、地下から上がってや。エレベーターのとこでガッチンコしょうや」
 鍵の束をKに投げてよこして、自分も鍵の束をガチャガチャ鳴らすながら、エレベーターに向かってかけだした。
 エレベーターから降りてきた看護婦と木田は二三言言葉を交わし、木田はドアに吸い込まれるように姿を消した。
「なにしとったんや、気いつけいわれとったんやろ」
 看護婦はゆっくりと歩いてくる。
「そんなこといわれても、しゃないわ。お産が二つもあったんやから。じっと見張ってるわけにいかへん」
「いつごろや、おらへんようになったんは」
「分からへん。部屋の患者さんは、布団がふくれてたよって、気つかへんかったいうてるし。ほんま、迷惑や、死産はしゃなかったんやし、いつまでも、くよくよしてもしゃないのに。それに、病院中走り回ったり、隠れたり、遊んでんのちゃうか」
 看護婦は馴れたしぐさで電話の前に腰を下ろした。
「今日は、何時になるやろ、仮眠の時間やのに」
 Kは鍵の束を、ガチャガチャいわしながら地下に降りた。
 階段を降りながら、闇の中に落ちていくような気がした。
 必要最小限の明かり。十時に、木田が、明かりを消して回った通路は、ひんやりとした空気のなかに沈んでいた。
 ここは何処なんだろう、ふと、Kは思った。彼の馴れ親しんだものが全て昼間とは違った顔を見せている。不連続な影が、壁を嘗め、ドァのノブがやけに目立つ。
 ノブを一つ一つ回す。
 冷ややかな感触は、彼の行為を拒否し、その無意味を囁くようだ。
 木田が降りてきて、女が飛び降りた事を知らせれば、それは終わる筈だった。その方が彼には都合のいいことだった。こんな真夜中まで、いやな職場にいる必要もなくなるわけだ。
 小さな声で呼んでみた。
「もう、出てこいよ。風邪ひくで」
 声が途切れると、自分の息と、微かなモーターの音の中にいる。やはり、ここは土の中なのだ。女は死産したと聞いた。それで男と別れたらしい。どんな事情があるのか詳しい事は知らない。ただ、死と生との同居した建物の中を女は気の狂ったように真夜中にやみくもに走りだす。
 Kは、女を捜しているのか、女に自分が捜されているのか分からない奇妙な気分になった。物かげに隠れて女は彼を見ているのかも知れない。または、彼を、病院中捜しているのかもしれない。どちらが鬼か分からない。
 もういいかい、もういいよ、と声を掛け合いながら、互いに見えない相手を捜し始める。
「一体お前は誰なんや」
 Kは言った。
「あんたは誰なんや。誰を捜してるんや? なんのために」
 女が言った。
「なんで隠れてるんや?」
 Kが言った。
「捜してもらいたいからや」
 女が答えた。
 壁を手で撫でながら、時々、思い出したように唾を吐きながらKは進んだ。
「苦しいんはあんただけやないんや。わしもねむとうてしゃないんや、酒ものまんと、仕事しているもんの身になってえな。人に迷惑かけんと、もう、出てきてもええやろ。明日はもうすぐくるんや。人間生きられても、死ぬまでや、それまで、楽しいすんのも、苦しむんも、わがの考え一つや。死んだ子は、あんたがなんぼ思うても帰ってこうへん。そんなことで、別れてしまう男やったら、丁度ええときに本性見た思うて、あんたから、さいならしたったらええんや」
 突然足が止まった。
 ―開いてる―
  霊安室のドァが半開きになっている。
 身体は通り過ぎたのに、片目がその様子を捉えた。To be continued 

連載小説「もう一つの風景(22)」

2016-03-03 07:49:42 | 創作日記
もう一つの風景

22

「厨房で、木村さんまだ仕事しとるで」
 戸締まりを見てまわったきた守衛の木田がKに言った。
 Kは夕刊に落としていた目をふと上げた。木田の口元がまだなにか言いたそうに、ヒクヒクと動いている。六十才の木田が相手のまだ知らない噂や卑猥な話をする時に決まって見せる仕草だった。
「ええ、尻しとるであの女。皿洗しとる後ろから見とったんやが、ほんまに男誘うように動きよるんや。後ろからむしゃぶりついたろか思うで」
「むしゃぶりついてなにするんやな」
 夕刊を机に投げて、Kは煙草をくわえた 「あほにすんな、わしはまだ現役や」
 あほにすんなか、それもその通りや、Kは自嘲の笑いを浮かべた。あと二十年経って、木田のかわりができたら御の字だ。
「嘘やおもとるんやろ」
 木田が幼児じみた執拗な目でKを覗き込む。Kは木田を無視して煙草を吹かした。
「まだはじまらへんな」
「看護婦も気をつけてるんやろ」
「あと一時間したら、帰るで。救急車も今日は少ないしもうええやろ」
「課長には一晩中の約束や」
「そりゃ、おんどれがせへねやから、なんぼでもええかっこいえるわ」
 突然血が逆流するような怒りがKを襲った。何時もの酒屋で一杯と帰りを急いでいたKに、年が五つも若いあいつは、ニヤニヤした笑いをつくって近づいてきた。木田のじいさんが困っとるんや、一人やったら身体がもたんいうて、つきあったてえな。その言葉に少しは反感する態度を取ったものの、結局は応じてしまった自分の立場の弱さへの苛立ちも彼の怒りの中に含まれていた。また、その分だけあの男に対する憎しみが相乗的に増加したともいえる。しかし、想像の中で彼を痛めつけるしかない。裏で罵声を浴びせるしかない。
「まあまあ、ここ二日三日のことや。あいつもよその病院に移す話はついたというてたし、もし変なことになったら世間体悪いと一番心配してるんはあいつやから」
 院長をあいつと木田は言う。一般職の仲間うちでは医者をよびすてにする。彼らは医者を自分たちと同じ視線に置いてなんやかやと論評した。出身校から家族、医者の派閥にい
たるまで彼等の知識は豊富だった。
*                 
 廊下を走る足音は房子の背後を通り抜け、霊安室の角を曲がったように思ったとたん、急に、中途半端に消えた。
 空耳かもしれない。コンクリートの廊下をを裸足で歩くような、奇妙な音だった。死体を運ぶ騒がしいストレッチャーの音を聞き馴れた耳には、余りにも微かで、子供が楽しそうに駆けていくような音だった。

 Kは四畳半の守衛室の畳に寝そべり、頬杖をつきながらテレビを見ている。可笑しくもなんともない画面だ。何が映っているのかも知らないように、只、人が動き、しゃべり、笑う、小さな動く写真を眺めている。Kは何も考えない。考えたところで、何も変わるものではない。食べる為にのみ働き、いつも腹一杯に不満を膨らませ、何時かは周りをみかしてやると呟きながら、小心故に何も出来ず、井戸を覗いて底に映る自分の顔に思わず唾を落としたくなるような劣等感を、四六時中抱いている。
 背後で守衛室の窓を開ける音がして、木田と房子の紋きり型の会話を聞いた。
「おそうまで、ご苦労さん」
「おさきに、おつかれさんです」
 木田のじいさん、お茶でもというたらんかい、と、くちごもりながら、Kの身体は少しも動かない。
 僅かな金をすこしずつ貯めて、酒の力を借りて女を買いに行く。行き当たりばったりの女との、泥酔のなかでの性交は、なんの目的もない遊戯に似ていた。結婚なんて一回限りで十分だ。女は金で買える。そう言えば二万円は3回分だなあ。無駄遣いをしたもんだ。財布を落としたか。残りの飯を握る女の財布の中身を見てみたいもんだ。また、そんな女にしている男の顔も見たいもんだ。房子が男に抱かれている姿を想像した。房子の身体の細部を覗き込むようにして思い浮かべた。何もない、泥酔のなかでの、性交のように、何も映っていないテレビの画面のように、只、白く、眩しく光っているだけだ。To be continued 

連載小説「もう一つの風景(21)」

2016-03-02 08:57:01 | 創作日記
もう一つの風景

21

 調理師が二人休んだ。朝から目の回るような忙しさだった。やっとのことで四時半のいつもの時間に配膳車につみこむことが出来た。 ほっと一息ついて上っ張りを取ろうとしたとき、
「今日、誰か二人残ってくれへんか?」
と、調理師が言った。
「職員の洗いが残ってるんや」
 誰もがそれを知っていた。言い出せばやらされると、そしらぬ顔をしていた。手当てもつかない残業を喜ぶものはいない。
「うちはあかんで、金にもならへん仕事、なんでせなあかんね」
 古参の女が言った。
「明日、先生に言うてみるがな」
「いつもそうや、あの女が残業つけてくれたことあるんかいな。まあ、つけてくれても、あのけちな院長が飯たきがなんの仕事の残業や言うたそうやさかい」
 女が文句を言っている間にもう一人の女の姿が消えている。結局、房子とUが残ってしまった。
 一時間程並んで仕事をしていると、Uが思い切ったように言い出した。
「かんにんや、子供が今朝から熱だしてるんや。悪いけど、ほんま悪いけど」
 房子に手を合わした。
「なんではよういわへんの。帰ったげ、うちがなんとかするよって。Uさん言いたいことがまんしてたらあかん。みんなあんたをええようにつこてんねんから」
「うちはあほやからしやないや」
「そんないうてたらあかん」
 房子は大きな声を出した。 
「とにかく、帰り。聞かれたら二人でやってた言うとく」
 Uが扉を締める音がして、房子の周囲が一変した。誰もいなくなった。しかし、人の気配が周りの全ての物に残っている。厨房の真ん中に位置する巨大なステンレスの台。そこで、四人の女が皿におかずを盛りつけた。鍋や釜を運んだワゴン。飯の碗、汁の碗、湯呑み。それらは同色の薄い緑のプラスチックで、重ねて横にされ、飯の碗や汁の碗の種類別に黄色い格子のプラスチックの箱に収められている。大小の碗の縁が蛇腹のように見える。調理した人間、盛り付けた人間、洗った人間、それぞれの息、それらの微かな気配までが生々しく残っている気がする。周りの物が動き始め、飯が盛られ、汁が湯気を立て始めてもなんの不思議もない。
 だが、現実には誰もいない。いや、あるのは気配であって、人ではない。それが房子には奇妙な違和感だ。明日がくる。いやでも、やってきて、人が動きだす。たった一日の出来事に重ねる事のできそうな時間が流れ出す。
 今日一日ここにいた。それは確かなことなのだが、今、こうして周りを眺めている自分とその事実の距離があやふやなものに感じられる。ひとコマひとコマの場所に自分の姿を投射しても、それは時間の影のようにそぐわない。いや、この場所が昼間の影、時間の影のようだ。人の気配をのみこみながら、実体とは無縁に存在している。俊徳道の居間、今朝通った歩道、電車のなか、それらの場所も今は、私の気配を残し、私の時間の影のように存在しているのだろうか。
 皿を洗う房子の手が流しのステンレスに薄い影を結び揺れ動いている。自分の動作を正確に映しながら、血の通わない別の房子がそこにいる。
 房子は急に不安になった。この場所が昼間の影ではなくて、私の方が影なのではないか? 私がいなくてもこの場所は生きている。
 突然大きな音がした。その音は房子の四肢から入り、身体の中を震えさせた。沈黙が突然声にならない声をあげたような気がした。業務用冷蔵庫のモーターの回る音だと気づくまで、少し間があった。自分は怖いのかもしれない。病院という非日常の場所に詰め込まれ、置き去りにされたような恐怖を感じているのかもしれない。今、息をひきとった人間も、誕生の瞬間の赤ん坊も、薬液を身体に流し込みベットに縛られている男や女も、痛みにのたうっている人間も、小さな一つの建物の中に共存している。そして、それはいくら近くに存在していても、気配でしかない。私がここでその人たちの汚した皿を洗っているように。To be continued 

連載小説「もう一つの風景(20)」

2016-03-01 06:24:34 | 創作日記
もう一つの風景

20

 光雄が家に帰らなくなって二週間程経った頃、房子は多武峰に電話をかけた。義母がでれば受話器を置くつもりだった。運よく豊美が電話に出た。光雄がそちらに行っていないかを確かめ、二週間家に帰らないこと、これから警察に届けようと思っていること、そちらに寄れば病院に電話をして欲しい、と手短に用件を伝えた。光雄が帰らないのを、豊美は知っていた。奥さんも心配していると、ポロリと言ってしまい、それを繕うように、こちらに来たら奥さんに内緒で知らせると、約束してくれた。
 朝食を済ませて、急いで家を出る。後かたづけは良一がしてくれた。夕方の六時に帰り、良一と二人貧しい食事をとる。その時間は房子のほっと息をつぐ時間になった。勉強は出来ないが、家の用事には結構役に立った。
 良一は、時々、父のことを尋ねた。
「もう、帰ってきやらへんかもしれへん。いいや、良がこんなにいい子にしているやから、ええお父さんになってかえってきはるよ、きっと」
 良一は悲しそうな顔をした。光雄はいつも良一に優しかった。手をあげたこともなければ、言葉を荒げたこともなかった。小学校三年生の良一には父を罵る母のほうが憎かったのかもしれない。
 良一との夕食は房子に一時の安らぎをあたえた。もう、この居間には光雄の座る場所がなくなっているのかもしれない。
 布団に入ると、決まって光雄のことが頭に浮かんだ。死んでいるのかもしれないと思うと、外の闇に向かって走りだしたくなる自分を必死になって押しとどめた。どういう生活をしているのだろう? 男一人ぐらいは生きていける隙間が広い都会にはあるのかもしれない。かっては、自分はどうなろうとも、この人のそばにいたいと思った男を、赤の他人の事のように考えている自分が恐ろしい。
 夜が明ければ、その日の生活に追われはじめ、光雄の事などどうでもいいように思えてくる。To be continued 

連載小説「もう一つの風景(19)」

2016-02-29 07:29:27 | 創作日記
もう一つの風景

19

 光雄は次の日も帰ってこなかった。そろそろ隣のスパイが多武峰に連絡するだろう。家の前で顔を合わせても房子を避けていた人が、半年程前からなんやかやと家の事を聞くようになった。
 隣が留守だから預かって欲しいと運送屋が持ってきた荷物の送り主が光雄の実家だったのを見て、今から出掛けるところだからと断った。夕食の時、光雄とその話をしている途中、隣の人が田舎から送ってきたのでと、盆一杯の柿を持ってきた。馬鹿丁寧に礼を言い、その人が消えると、隣に聞こえるのも忘れて、光雄とおなかが痛くなる程大笑いした。
 良一が二つか三つで、光雄の膝の上が彼の夕食時の指定席だった。
 結婚から七年、その時の生活が夢のように思える。それから五年の日々。教師を辞め、暇つぶしに通いだしたパチンコから競馬、競輪、競艇へとてあたりしだいにのめりこんでいった。最初のうちは小遣い程度の金ですんでいたが、夜に出歩くようになって、それが2倍にも3倍にもなった。
 多武峰から、豊美が義母の代理でやってきて、光雄が勝手に山を売ってしまった伝えた。義母はもともと光雄に財産分けするつもりだったから、その時期が早くなったと思えば諦めもつくと言っているという。それに息子や嫁を縄つきにするわけにもいかないとつけくわえた。
「なんでも、うちが絡んでる思うてはんねんなあ」
「私はそんなこと思てへん」
 豊美は殺風景な居間を見渡しながら言った。
「あれも血やと、村の者は言うてる。光雄さんのお父さんは相場に手を出して、殆ど財産潰さはった。昔の木村の家は凄いもんやった。今は、こんなこというたらあかんけど、母屋と僅かな土地しかあらへん。うちの月々の給金もしんどいくらいやもん。ただ格式だけが幽霊みたいに住みついてるだけや」
「それで、お義母さんはうちにどうせえ言うたはりますの?」
 その時、光雄が帰ってきた。豊美をチラッと見て、「ようおこし」とだけ言って、居間の隅に座りこんだ。
「ちょうどええわ、光雄さんも一緒に聞いて。田舎の分校やけど、棒原(はいばら)の奥の小学校に欠員ができたんやて、そこへ行く気があるんやったら、頼めるらしい」
「もう教師する気はあらしませんわ」
 光雄は人ごとのように言った。
 光雄は溺死した生徒の顔をいつの間にか忘れている自分を責めていた。房子のいうように自分は教師をやめたい一心からあの事故を利用したのかもしれない。罪の意識のかけらもないのに、そのふりをして、他人や自分さえも騙し続けているのだろう。自分が教壇に立つと、死んだ生徒が教室の全ての机についており、光雄の顔を眺めている夢もこのごろみなくなった。そのかわりにサイコロが夢のなかを駆け回っている夢が増えた。そんな自分が許せない。たまらなく嫌だ。房子に言葉たらずにそのことを言うと、自分が可愛いのは人の常だが、自分で自分が好きだと言う人は嘘つきだと言った。To be continued 

連載小説「もう一つの風景(18)」

2016-02-28 08:49:38 | 創作日記
もう一つの風景

18

 スロープを上がり外に出た。太陽の光が眩しい。外気に触れると別世界に出た気がする。あのじめじめした場所と時間を共有しながらこんな外の場所があるのが信じられない。ここには時計の時間ではなしに、一日の中の昼間という時間が流れている。太陽も風も空気も晩秋の昼間だ。
 房子は大きく深呼吸をした。あの女にも、私の知らない生活がある。そこにある掃いても掃いてもなくならないゴミを私に向けているのかもしれない。しかし、そんなのは迷惑だ。あいつのゴミを自分が被らなければならない理由も義理もないんだから。だが、何故かかわいそうな気がする。自分と同じように哀れに思う。狭い場所で、湯気に濡れながら他人の飯を炊き、食べ残しに手を汚し、米粒のこびりついた食器を洗っているのはあの女も私も同じなのだ。
「もう、寒いなあ」
 いつの間にかKが横にいた。
「急に寒うなって」
 房子が話を合わせる。
 別に話すこともないので、房子は黙って、職員がバトミントンをしているのを見ていた。Kは煙草に火をつけた。
「なんか、元気ないなあ」
「ええ、今朝お財布落としてしもて」
 すんなりと嘘が出た。ぼんやりと考えていた事がこの嘘だと後で気がついた。
「そら、こまったやろ。警察には届けたんか」
「ええ、せやけどあかんと思いますわ」
 語尾が消えるように小さく言う。
「まあな、せちがらい世の中やからな」
 男は根元まで煙草を吸い足元に落とし、丹念に踏みつけた。頭を下げて、Kから離れた。Kは何かを考えるように踏みつけた吸い殻を靴先で地面ににじりつけていた。
 その日、スロープをあがると、Kが待っていた。
「困った時はお互いや」
 そう言って、房子の手に茶色の封筒を握らせ、足早に姿を消した。
 外に出て、中を見ると、二万円入っていた。当時の房子の給料より多い金額だった。その金が意味することを知りながらも、房子には必要な金だった。To be continued 

連載小説「もう一つの風景(17)」

2016-02-27 09:55:19 | 創作日記
もう一つの風景

17

 残飯をポリバケツに捨て、次々に食器を湯の中に沈めていく。これらを食べた人間の事など頭の隅にも浮かばない。彼らとて食事をつくり、自分の汚した皿を洗っている房子のような存在を考えたことがないだろう。それが社会というものかもしれない。意識することなしにつながり、お金という性格のないものが唯一の通路になっている。
 箸をつけたあともない盆もある。それを残飯のバケツにほうりこむ時、ふと、悲しい気持になる。
 それぞれの生活がなんのつながりもないのが、どうしょうもない事なのに悲しく感じられる。
 時々、何階の何々さん食事取り消し、と事務的な電話が入る。死亡したのか、急に退院が決まったのか、この部屋にいるかぎり分からないし、分かる必要もない。
 個人にとっての一大事も、この部屋の中では日常の些事にすぎない。箸をつけなかった食事も、箸をつける筈の人間が永遠に不在になったためかもしれない。あまった飯を握っている時はそこまで考えなかった。死人の為の飯を握っていたかもしれないと思うと全身に悪寒が走った。そして、明日からでもその行為が必要な自分にやりきれなさを感じた。
 12時前に、職員のおかずを棚に並べる。飯と汁は、二人がかりで運び、中央のテーブルに置く。地下の職員食堂は、この季節になっても蒸し暑い。病室へ行くボイラーの配管の具合で空気が澱み湿気が高い。
 盛りの多いおかずを選び、味噌汁の具を出来るだけ沢山すくいとる。その様子が、高級取りの医者から、臨時の掃除夫まであまり変わらないのが不思議だ。
 Kはそのような職員の中でもとくに念入りに皿を選ぶ。いつも棚に顔を突っ込むように物色している。
 職員の昼食が一段落すると房子はまた床に水を流した。昼食をとる厨房の片隅の小さなテーブルのまわりを少しでもきれいにしておこうと思ったからだった。
「またや、うちへのあてつけやわ」
 古参の女がヒステリックな声をあげた。
「なんとか言うてなあ。床洗いは最後でええいうてんのに、ああしてあてこすりしよんねん」
 調理師に味方を求めるように叫ぶ。
「まあ、ええやんか、きれいにすんの悪いことやないし」
 調理師が言うと、女は顔を覆って泣く仕草をする、
「ちょつときれいな女やったら、あんたら甘いねんから」
 困った顔をして調理師が房子に近づく。
「あんまり気そこねさせんといて、傷つきやすい年ごろなんやから」
 爆笑が起こった。房子も思わず笑った。女が食器を床に叩きつけた。笑い声は一瞬に止まり、気まずい空気が流れた。房子は上っ張りを脱ぎ戸口に向かった。
「どこ行くんや、まだ休憩やないで」
 背中に女の声があびせられた。房子は踵を返し女の目を見た。
「お手洗いに行きますね。一々あんたの許可もらわなあきませんのんか。あんたにお給料もろてるわけやないんや」
 房子は平然と透き通った声で歌うように言い放った。To be continued