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創作日記&作品集

作品集は左のブックマークから入って下さい。日記には小説、俳句、映画、舞台、読書、など…。そして、枕草子。

連載小説「もう一つの風景(6)」

2016-02-16 07:26:32 | 創作日記
もう一つの風景


                                
 笑い声の絶えなかった居間はひっそりと静まり、敏子の気配だけが微かに漂っている。
 弘之が、佐知子とその両親を送って行って、敏子と後片付けの済んでいない食卓だけが残された。
 何もする気がしない。何時もは少しでも散らかっていると、気が落ち着かない性分なのに、食卓を片付けるのも億劫だった。
―これでよかったんだ―
何度も自分に言ってきかせるが、すぐに何故か空しさが身体の中を通り抜ける。
 二階に弘之夫婦が住む。トイレと小さな台所を造った。敏子は居間の片隅に寝床をこしらえることになる。
 そんな生活があと一月もすれば始まるのだ。佐知子がどのような人か分からない。今は何もかもを隠しているのかもしれない。私だってそうだ。よく思われたいとばかり考え、計算し、一つの言葉にも気をつかっている。
 今日は、三人の他人に自分が試されているような気がした。
 あの両親は何故、父母の事を執拗に聞いたのだろう。死んだ病気がなんであっても、今、降ってわいたような他人がとやかくいう事ではない。
 父が死んだのは敏子が小学校の三年の冬だった。三才の弘之は、葬儀の客の間を、はしやぎまわっていた。
 お父さん? 弘之は全く覚えていない。私も僅かな記憶しかない。
 一人二人と通夜の客が去り、居間は何時の間にか母と私だけになった。
「そんな黒っぽい服、はよ着替え。弘之は?」
「二階で寝てる。さっき、おかあちゃんが抱いて上がったやん」
 ふと、目を食卓の下の畳に落とす。母が座っていたのはその辺りだったように思う。
「ちょっと、こっちへおいで」
 母は膝の前を指で差した。言われるままに私はチョコンと座った。無言で母は私を抱き竦めた。
 母の乳房が私を包み込むようだった。息苦しい程甘い匂いがした。私の項にあったかいものが一つ二つと落ちてきた。その母も、七年も経たないうちに膵臓癌であっという間に亡くなった。私達のために先を急いだような死に方だった。長患いにならなかったので、お金は残っていた。通帳が二冊。私と友之の名義だった。
 なにかをふっきるように敏子は食卓を片付けはじめた。
―あの料理で良かっただろうか、満足して貰えただろうか?―
―お酒が結構減ったから、いやな思いはさせていないだろう―
―それよりも、この家にびっくりしたかもしれない。腰を落ち着けるなり、部屋の隅々を細かく見ていた。佐知子さんも、そんな二人の様子が気にかかるようだった―
―まあいい、そんなことを気にすることはない。高校を一年で中退して、なにも贅沢せずに、それどころか、爪に火をとぼすような生活をして、ここまでやってきたのだから― 
―三十才か……―
 ふと、手が止まる。
―弘之の重荷になるのはいやだ。しかし、三人とも働きにでるからすこしはましだろう―
―だがそんな状態が長く続くだろうか。いや、長く続けば続く程私には取りかえしのつかないことになる―
―美人でもないし、なんの取り柄も私にない。仕事だって、高卒の女の子が一月で出来る種類のものだ。この前結婚でやめて行った子が言ったもんだ―
「奥野さんほんとに偉いと思う。十年以上もこんな仕事ようしてはる」
 もともと気にくわない子だったから、気にはならなかったけれど、
「ええねえ、そんなふうにお仕事考えられるんは、それだけでも幸せや」
と、本心から言った。
「なんやおったんかいな、只今いうても返事あらへんから、どっか行ったんかおもた。水、頂戴」
 弘之が何時の間にか玄関に立っていた。
「行くとこなんかあらへん。それよりも、えらいええ機嫌になって」
「ほんま、ちょっと呑みすぎたわ」
「お父さん、お母さん、機嫌よう帰らはった」
「機嫌よすぎるわ。ほんまあのおっさん、ものごつう呑みよる。さっきも駅前で、もうちよっとやろかやて、お母さんに睨まれとったわ」
「おっさんやてよう言うわ。さっきまで、お父さん、お父さん言うて、猫撫で声だしてたんは、どこのどなたやろ」
「まあ、まあ、深くは詮索しない」
 弘之は旨そうに一気に水を飲み干した。
「お父さんか、よう分からんわ。よう覚えてへん」
 居間の真ん中でひっくりかえって天井を見ながら、弘之は言った。
「せやけど、その分ねえちゃんが苦労したんは知ってる」
 不意に涙が出た。今まで何処かで堪えていたものが滴となって流しの水に紛れた。

連載小説「もう一つの風景(5)」

2016-02-15 07:05:29 | 創作日記
もう一つの風景



気をとりなおして、先程から考え始めたことを思い出した。三十過ぎで独身の男、その条件を満足させる者さえ思い浮かばない。
 だれもいてへんな。これから気にかけといてみつけるようにしょ。
 その時、急に房子の言葉を思い出した。
―そうですね、そのほうは、ほんまにねんねで、三十過ぎてもその気がないんかどうか。庄三さんええ人いてしませんやろか―
 何時だったか忘れたが、確かにそう言っていた。
 帰りに憩いの家に寄ってみよう。
 歳をとるとなにかとせっかちなる。だが、善は急げということもある。
 房子の姿はなかった。中に入ると顔知りが3、4組将棋をさしていた。
「どうしたんや、えらい息きらさはって」
「房子さん、もう帰らはったんか」
「帰らはったで、なんか用あったん」
「いや、別にたいした用やない」
「おかあちゃんに言うで、おかあちゃんに。息きらして、これはあやしい、恋の芽生えかあああと、王手」
 自転車を車庫の横に置いて、肩の雨を拭った。粟粒程の水滴が掌をそっと濡らした。
「えらい遅かったんやね。心配してたんや」
 居間でテレビを見ていた妻が画面から目を離さないで言った。
 庄三は答えるのも億劫だった。
 伸子は庄三に気が付かないかのようにテレビに見入っている。
 何か月も毎日続くテレビドラマの何が面白いのかと思う。彼女等のあの真剣な目は俺には理解出来ないと思った。伸子の手は時々食卓の煎餅に伸び、そして、凄まじい音をたて始める。
 コマーシャルになると、伸子はやっと庄三の方を見た。
「敏子さん元気にしたはった」
「ああ」
「敏子さんって誰」
 知らない名前に妻が不安な顔で聞く。
 伸子が説明すると、直ぐに何くわん顔をしてテレビに目を移した。
「弟さんが結婚しはるらしい」
「敏子さんは?」
 ドラマが始まった。伸子はテレビに顔を向けた。
「まだ一人や」
 伸子の横顔に喜色が浮かんで、流れた。
 庄三は居間を出て、階段を上がり、娘夫婦の住む三階のべランダに出た。
 洗濯物が乾く場所がここしかないのは、ここに立って周りを見ればよく分かる。隣の家の屋根瓦がすぐ目の下にある。
 雨に洗われた漆黒の瓦に、低く垂れた曇天の間から差し込む数条の物憂い光が落ちていた。
 高層のマンションや建物も見えるが、数は小さな家が圧倒的に多い。それらは、流れ、淀む生活の海を感じさせる。目を凝らすとそこに動く人々がぼんやりと見えてくる。やがて、彼等の動作は明確になり、一人一人の生活が鮮やかに海の粒子となる。
「こんなとこにいたはりましたん」
 妻の芳江が背後から声をかけた。
「みんなお茶にしょいうてまっせ」
「子供らは?」
「塾や、ピアノやいうて、忙しいこっちや、休みのうちなとゆっくりしたらええのに」
「生駒山見えんなあ」
「そらあ、こんな天気やったら」
 いつの間にか庄三と肩を並べて芳江は言った。
 新緑の頃には山全体が輝く緑になり、いつもは遠く離れているのに、すぐ近くまで迫ってくる。今、山は、まだ、春の霞のなかにあった。
「ああ、あとなんぼ生きても二十年か」
 ふと、呟いて、二十年前、同じように倍の年数を数えていたように思う。死ぬ間際まで生きる時間を数えて、次に来る死の瞬間なんかをてんで信じていないのが人間かもしれない。また、そうありたいと庄三は思う。
「お茶、いまええは。あとでよばれるいうといて」
「ほんなら、あとで一諸にしましょ」
 芳江もベランダの柵に身を預けて言った。
「毎日毎日やったらそう変わらんけど、ひょいと、昔のこと思い出したら、なんか別の所にいる気がして」
「おれは反対に思うわ。これで変わるぞ、これで変わるぞ思うても、なんにもかわらへんだ気がする。歳とってから伸子ができた時も、信也さんが養子に来た時も、なにもかもが明日から変わると思うたけど、自分の寝所にはいったら、なあんや前と同じや、しようもないと思うた」
「男の人って、なんやかや理屈つけな生きていかれへんのやろか。うちは、今お父さんが言わはった時、なんもかも変わってしもた」
 芳江は真白になった髪を指ですいた。
「伸子は段々お前に似てきたなあ。顔や形と違うて、仕草や、考えてることが」
「ほんまに、なんかいやになりますわ」
 庄三も伸子や孫の仕草や心の動きに自分を見ることがある。その時、決まって複雑な気持になる。
 実体のない自分が、その種の途切れる迄続いて行く。ふり返ればその延長に自分も入る。自分の身体の中にも様々な人間が生息していると思うとますます自分が何物なのか分からなくなる。庄三が今、考えている事は、彼の中の誰かが考えている事かもしれない。
 不安になって、ふと、隣の妻を見た。そして、芳江を他人として受け入れると、安らぎに似た気持になった。
 今、自分のなかに居る人間も、これから続いていくであろう自分も、妻という他人との営みの中でのみ存続出来るのだ。
「黙ってなに考えたはりますの」
「しょもないことや。お茶よばれよか」
 居間にいるのは伸子だけだった。
「なにしてんのお茶冷めてしもた」
「信也さんは?」
「配達にいかはった」
「よっこらしょ」と、庄三は声をかけて座った。
「おじいちゃんも、何か趣味もたなあかんな」
 伸子は冷めた茶を注ぎながら言った。
「わしだけやない、ばあさんもや」
「なにいうてはりまんの、私はまだ現役の主婦や」
「そうや、おかあちゃんは」
「なんや、女どものの集中攻撃かいな」
「ゲート・ボールはどうなりましたん」
「あんなもんしんきくそうてあかん、まあ、そのお陰で面白いもん見たけど」
「なんですのそれ」
「川口の後家はんまた男代えたらしい」
「ゲート・ボールしながらそんなん見たはりましたん。悪い趣味や」
 伸子は話に興味がないというふうに子供の服にアイロンをあてている。
「伸子も人事や思うっとらあかんで、気つけな」
「うちの人にそんな果斐性があったら」
 くすぐるんはこなへんにしとこ、一応忠告はしたんはしたんやから。
「今日は何曜日や?」
「土曜日」
 お茶の片付けと夕食の準備に台所にたった芳江が答えた。この時間になると少しは客も多くなる。伸子は店に出ずっぱりになり、庄三だけが居間に取り残されたた。
 一日の終わりが近づいていた。今日もなんもなかったな。それが一番やと納得しながら煙草を取り出す。信也は煙草を吸わない。孫の前では煙草を吸うのも遠慮するから今のうちにと火をつける。
「おとうさん、洗濯物取り入れてくれはります」
 妻の声に「よっしゃ」と、立ち上がった。 その時、何か忘れ物をしたような気がした。今日何か考えていた。もう一度、灰皿の中の吸い殻の火が消えているのを指先で確認しながら、物忘れの激しくなった自分が恥づかしいような、そして、情けないような気持になった。To be continued 



連載小説「もう一つの風景(4)」

2016-02-14 09:33:32 | 創作日記
もう一つの風景



「濡らしてもうて、すんません」
 傘を揺らしながら、駆けてくる。
 小柄な平凡な顔だちの三十過ぎの女性が、本当に済まなさそうに自転車を停めた庄三を見上げていた。
「今、降ってきたさかい、そんな濡れてまへん」
 荷物を下ろす庄三の動きに合わせて敏子の持つ傘が移動する。その動きに導かれるように庄三は敷居を跨いでいた。
 庄三の目に最初に飛び込んできたのは居間の花嫁道具だった。長持と鏡台、小さなミシン、どれもが華やかで、そして、初々しい恥じらいを含んでいた。
「敏子さん、おめでとう、やっと」
「やっと、そのあとはなんやろ」
 いたずらっぽい目で庄三を見る。庄三は言葉に詰まって、目を逸らした。
「もういじめんとこ。せやけど、残念ながらうちのとは違うねん」
「あんたと違う?」
「弘之にお嫁さんが来ますねん」
 敏子は軽るやかに居間に上がり、タオルを持ってきた。
「不断はなんにも買わへんのに、得手かってばっかり」
 十数年前も単に客としての付き合いだった。しかし、奥野という名から敏子を連想したのはそれだけの理由がある。
「まあ、かけて下さい。お茶をいれますから」
 上り框に座布団を置いて敏子は言った。
「気いつかわんといて、もう、帰りますよって」
「まだ、えらい降りや」
 雨音は一段と激しくなっている。
「それやったら、一寸だけ雨宿りさしてもらいまっさ」
 庄三は花嫁道具に隠れた仏壇の方をみた。敏子の両親を彼は知らない。しかし、ふと、仏壇の前で手を合わせたい気になった。
 そして、赤の他人がすることではないと思いとどまった。
 敏子はお茶を庄三にすすめた。
「用事しといて、わしはお茶よばれてますから」
「用事はあらしませんね。お客さんを待ってましたんやけど、さっき電話で遅れる言うてきました」
 しかし、二人にとりたてて話すことはない。暫くして、敏子は台所へ立っていった。
 あの日も細かい雨が落ちていた。肌寒い頃だった。晩秋か春の初めか、まだ季節が行きつ戻りつしていた。
 雨合羽に一日の御用聞きと配達に疲れた身体を包み、自転車から降りた庄三は、店から出てくる少女に出会った。
「毎度おおきに」
 買い物袋を脇に挟んで庄三に会釈を返した。庄三には中学生にみえた。
「お嬢ちゃん、運びますわ」
「大丈夫です。そんなに重いことないし」
 庄三は店の中に向かって叫んだ。
「傘や、傘もってきて」
「おじさん、ほんまにいけますよって」
「あんたはお客さんや、気つかうことあらへん」
「家、遠いし」
「かまへん、かまへん。おっちゃんも商売や」
 無理矢理に瓶を取り上げて荷台に積んだ。妻が男物の黒い大きな傘を差し出すのを一寸睨んで受け取った。
「きらくに電話してもろたら何時でも配達しまっせ」 
「うちは、そんなによう買わへんし」
「商売は牛のよだれや。ぼちぼちと、ちょっとずつ、とぎれんようにやっていかな。せやから、そんなこと気にせんといて。口(こう)銭(せん)もうてんのはこっちやから。それに醤油を一升瓶で買うてくれはんのやから上得意さんや」
「ちょとずつ小さな瓶に移して使こたらこの方が得やから」
 三丁目の路地を大きな傘にスッポリと包まれて少女は下を向きながら歩いた。
「すんません。助かりました」
 少女は家の前で大人びた口調で言った。
 それから、月に一、二度、少女から注文があった。僅かな品物でも庄三は気軽に届けた。
 そのうち、少女は中学生ではなく、働いていることが分かった。五つ違いの小学五年生の弟との二人きりの生活だった。
 近くまで御用聞きに来たついでに寄ったことがある。「毎度おおきに」と言って、引き戸を開けると、姉弟は小さな卓袱台に向かい合って昼食をとっていた。おかずは二人の中程に置かれた小さな一皿の鰹節だけだった。箸を持ったまま、庄三を見た敏子の目に驚きの表情が流れ、瞬時に憎悪の色がよぎった。彼女の目の色は怒り狂った動物の目とよく似ていた。次の瞬間、彼女は体で食卓を隠した。
 雨の音が聞こえなくなった。
 腰を上げ引き戸を少し開けると、霧のような細い雨の粒が風に弄ばれながら、路地に落ちていた。
「ほんなら、おおきに、雨も小降りになったし、帰ります」
 奥から急いで敏子が出てきた。そして、上がり框に正座して頭を下げた。
「ほんまにすみませんでした」
 おじぎを返し、背を向け一歩進み、庄三は急に振り返った。
 顔を上げた敏子と視線が合った。
「他人が余計な事言うと思わはるやろけど」
 庄三は踵を返し、少しの間言葉に詰まった。
「ほんまによう頑張らはった。親御さんもきっと喜んだはるやろ。家も立派に続く、みんなあんたの力や」
「そんなたいそうなことうちはしてしません」
「これからは自分の幸せを考えな」
「そうですね。せやけど、なんか今は、肩が軽うなった」
「弘之はんにおめでとう言うといて」
「ええ、あの子おじさんにようなついてたから、喜ぶと思います」
「あのころは小学生やったもんなあ。大きいならはったやろ。それはそうと、敏子さんはええ人いたはんの」
「そんな人いてしません」
 目を伏せて恥ずかしそうに肩を窄めた。  
庄三は自転車に乗り路地の光景を懐かしむようにゆっくりと走った。ここ十年以上自分の中から抜け落ちていた風景だった。そして、この路地と同じように、幼い姉弟の生活も自分の中から抜け落ちていた。
 家の前で、一人でボールを弄んでいる弘之を公園に誘った。
「ぼんと公園でキャッチボールしてきまっさ」
「うちもつれて行って」
 急いで外へ出てきた敏子は、
「こんなええ天気に家にいるのもったいないわ。おじさんまぜてもうてもかまへん?」
「ええよ、三人のほうがおもろい」
「弘之は?」
「姉ちゃんドンやけどまあええわ」
 そう言って、一目散に走り出した。
 後を敏子が追いかける。
 追憶の姿は消えた。
 四人連れが前方から歩いてくる。若い男女と年配の夫婦らしい組み合わせだった。
 顔が見える処まで近づいた時、若い男が弘之だと分かった。
 子供の時の面影を残しながら立派な若者に成長していた。彼の隣の現在風な顔だちの赤いワンピースの女性が婚約者で、後ろの夫婦は彼女の御両親かもしれない。
 若い二人は華やかな雰囲気をかもし出している。女性の笑みは、世の中の幸せを一人占めているように見える。
 擦れ違う時、庄三は弘之に会釈をした。彼は視線を外して庄三を無視して通り過ぎた。
 思い出したくない過去かもしれない。
 懐かしさと淋しさの入り交じった気持ちになった。 To be continued 

連載小説「もう一つの風景(2)」

2016-02-12 11:06:45 | 創作日記
もう一つの風景
                  
2                                    

 目の前の電話機のベルがなった。
 不意打ちをくらったようにドキリとした。
「毎度おおきに、早見商店でございます」
 相手が一瞬ためらう気配がした。
「すんません、配達おねがいできますか」
「へえ、すぐに行かしてもらいます。どちらさんで?」
「奥野です。三丁目の……」
「敏子さんかいな」
 自分でも不思議な程咄差に名前が口に出た。相手も驚いたのか少し沈黙した。
「そうです。名前までよう覚えてくれはって」
「歳とると古いことはよう覚えてるんや。元気にしたはるかいな」
「ええ、おかげさんで」
「それはそうと注文聞かなあかん」
「お酒一本だけですねん。買いに寄せてもろたらええやけど、お客さんがいつ来はるやわからへんよって」
「銘柄はなにがええんや」
「特級で一升たのみます」
「特級でもいろいろあるさかい」
「うちようわからへんよって、おじさんに任します。なんしか特級たのみます」
 それ以上話すことがなかった。
「ほんなら、配達させてもらいます」
 受話器を置くと庄三の背後に娘婿の信也が口をもぐもぐさせながら立っていた。
「配達ですか? 僕が行きますわ」
「ええわ、近くやしわしが行く」
「そうですか。車多いよって気いつけて」
「一升瓶一本ぐらいまだまだ運べるわ」
「何処ですの」
「三丁目の奥野さんや」
「ようしらんなあ」
―川口の後家さんやったらよう知っとるやろに―。そう思って庄三は含み笑いをした。ゲート・ボールの始まる頃宝幸マンションの前に停めてあった早見酒店の車が、帰る時にまだあった。それと後家さんと結びつけるのは早計だろうし突拍子もないことだが、婿がよくできた人だと言われてばかりいると、つい意地悪に考えてしまう。
「ご飯途中やろ、食べといで、ピンポンパーンのスウィッチ入れとくよって、お客さんがきても奥まで聞こえるやろ」
「ほんまに、店売りはあきまへんなあ」
「こんなけスーパーやなんやかができたらあかんわ。なんとかやっていけるんもあんたが御用聞きと配達をこまめにやってくれるからや」 
 お世辞を言って外に出ると、風の中に春の気配が確実に宿っているのが分かった。湿気の高い空気、曇天の空にある雲は生暖かい水を含んだ綿のように落ちてきている。
 降るかもしれへんなあ、まあ、その時はその時のことや。家や小さなビルの立て込んだあたりの様子を見渡すと、軒下やテントの下を渡り歩けば濡れずにすみそうに思う。
 たった一本の酒を、自転車の篭に入れると何故か複雑な気持になった。大きな自転車の前に布袋を二股に掛け、荷台には自分の頭が隠れる程品物を積んだ昔を思い出したわけではないが、たった一本の酒の重みは、娘夫婦が気を遣って家の建て直しに何度も相談にきた時、「あんたらの好きにしたらええ」とだけしか言わなかった時に、ふと感じた気持に似ている。もうお前等にみんな任したと開放された気になり、これからは自分の好きなことをして暮らそうと勇み立った時、何をしていいのか途方に暮れ、新しい店の隅で人目を避けるように酒瓶を磨いていた時にも感じた。いや、今は四六時中庄三を捉えている気持かもしれない。
「おとうちゃん、雨ふるかもしれへん。傘もっていくか? 自転車で傘はあぶないし、信也さんに行ってもろたら」
 娘の伸子が店先に出て来て言った。
「ええわ、ええわ、着くまでふらんやろ。帰りに降ったら喫茶店でも入って時間つぶすよって」
「奥野さんいうたら、敏子さんとこ」
「そうや」
「うちと中学の同級生やね。あんまり親しいなかったけど」
「そうやったなあ」
 庄三はぺダルをぐいと踏んだ。  To be continued 



連載小説「もう一つの風景(1)」

2016-02-11 14:11:02 | 創作日記
 
久しぶりの連載です。

もう一つの風景
                    
1                                    
 季節の移ろいに年の流れが重なる。
 店の奥にある小さな事務机の椅子に坐り、早見庄造はぼんやりと店内を見ていた。左側の棚には、日本酒と焼酎が並び、右側には洋酒棚とビールの保冷庫がある。中央の棚には、雑多な商品が置いてある。酒のつまみ、インスタントラーメン、お菓子。醤油、みりん、味噌や塩もある。まるで近頃増えてきたコンビニの一角を覗いている気がする。コンクリートの通路には、客は誰もいない。三十年前の店の面影は何処にもない。あのころは店の奥の小さなカウンターに、安い酒を求めて常連が集まったものだ。
 机に両肘をおき、両手の甲に顎をのせ、目を細めると、彼らの愚痴や溜息や沈黙が蘇ってくる。
 一升瓶を抱えてコップに盛り上がるまで酒をいれる。客は口で酒を迎えにいく。少し啜り、コップを引きよせ、受皿に零れた酒を丁寧に戻す。
 長居する客がいると妻の出番だ。
「えらいすんまへんなあ」そう言って煤けたはり紙を指差す。そこには庄三の下手な字で、
「立呑は10分以内でお願いしマス」とある。
 人の気配に目を開けると、店の前に置いてある酒の自動販売機にサラリーマン風の男が小銭を入れているのが見えた。しゃがんで酒のカップを取り出す。馴れた手つきでアルミの蓋を外すと一気に流しこんだ。昼間から彼のような男を見るのは稀ではない。三十年前の人々と異質なのか、同質なのか庄三には分からない。只、彼は、「毎度」の言葉もかけられない処にいる。
 彼だけではない。庄三を取り巻く全ての人や物が、庄三から遠ざかって行くような気がする。
 七十年間の歳月が掌の一握りの空気のように思える。季節が移ろうように自分は七十才の老人になった。To be continued



もう一つの風景

2016-02-10 17:06:18 | 創作日記
前日、こんな文章を書きました。
ハードディスクの中をうろうろしていると、「もう一つの風景」という小説に出会った。
140枚ほどの分量がある。何年前に書いた小説だろう。20年以上前だろう。
ご丁寧に「未完」のフォルダーに入っている。とても懐かしい。
この小説は未完だが、後に書いた小説の源流になっている気がする。
いくつにも枝分かれして、いくつもの小説が出来た。
それは私の人生とよく似ている。そして、いつの間にか70才の老人になった。
人生も未完なものかも知れない。―
と書いて、最初の部分を紹介しています。
それからずっとこの小説を考えています。
早見庄造と言う人物のモデルは父かも知れない。
父が70才なら、昭和58年(1983年)。私は、37才。父の70才と今の自分の70才がダブります。
今からこの小説を書き直すなら、テーマは「昭和」になる。等々です。
ここで一句。
「忘れ物いくつもありし昭和の日」。この小説もその一つ。
そして、その到着点で、「そもそもこの小説は未完なのか」と思うようになりました。
未完が完結と言うことです。
とにかく近々連載を始めます。

もう一つの風景

2016-01-28 16:48:51 | 創作日記
ハードディスクの中をうろうろしていると「もう一つの風景」という小説に出会った。
140枚ほどの分量がある。何年前に書いた小説だろう。20年以上前だろう。ご丁寧に「未完」のフォルダーに入っている。
とても懐かしい。この小説は未完だが、後に書いた小説の源流になっている気がする。
いくつにも枝分かれして、いくつもの小説が出来た。それは私の人生とよく似ている。
そして、いつの間にか70才の老人になった。
人生もまた未完なものかも知れない。
最初の部分を紹介します。
 
もう一つの風景
季節の移ろいに年の流れが重なる。
早見庄造はぼんやりと店内を見ていた。まるでスーパーマーケットの一角を覗いている気がする。
中央の背の低いアルミの棚。壁を背にした網棚。コンクリートの通路。客は誰もいない。                
三十年前の店の面影は何処にもない。あのころは店の奥の小さなカウンターに、安い酒を求めて常連が集まったものだ。
レジの机に両肘をおき、両手の甲に顎をのせ、目を細めると、彼らの愚痴や溜息や沈黙が蘇ってくる。
一升瓶を抱えてコップに盛り上がるまで酒をいれる。客は口で酒を迎えにいく。
少し啜り、コップを引きよせ、受皿に零れた酒を丁寧に戻す。
長居する客がいると妻の出番だ。
「えらいすんまへんなあ」そう言って煤けたはり紙を指差す。
そこには庄三の下手な字で、「立呑は10分以内でお願いしマス」とある。
人の気配に目を開けると、店の前に置いてある自動販売機にサラリーマン風の男が小銭を入れているのが見えた。
しゃがんで酒のカップを取り出す。馴れた手つきでアルミの蓋を外すと一気に流しこんだ。
昼間から彼のような男を見るのは稀ではない。
三十年前の人々と異質なのか、同質なのか庄三には分からない。
只、彼は、「毎度」の言葉もかけられない処にいる。
彼だけではない。庄三を取り巻く全ての人や物が、庄三から遠ざかって行くような気がする。
七十年間の歳月が掌の一握りの空気のように思える。季節が移ろうように自分は七十才の老人になった。


今年の創作日記と三種の神器

2014-12-30 15:03:22 | 創作日記
ご無沙汰しています。
ブログも長い間更新せずに、ぺんぺん草が生えてます。
今年もあと一日。
今年は可もなく不可もなくと言うところですが、
一番のお仕事は「おくのほそ道」の現代語訳です。
来年は「原文」「語釈・語り」「現代語訳」の三位一体を書いています。
こんなのです(象潟の段です)。
それと小説を一つ書いています。
長い作品になりそうです。
次に今年の三種の神器です。URLはブログの記事です。
1 バックアップSDカード(sony SN-BA16)
何故だか分からないけれど起動しない問題も解消しました。
とても便利で安心です。

2 ラジオレコーダー YVR-R410L
録音にとても便利です。


3 ネットラジオレコーダー4
2と併用しています。プログラムを立てておかなければならないので、よく忘れます。ラジオレコーダーはFMが入らなかったので、
FM番組の録音に重宝しています。

大晦日さだめなき世の定哉 西鶴

それでは、みなさんよいお年を!








水の記憶

2014-10-27 20:04:42 | 創作日記
水の記憶を一つ一つ蘇らせる。
プールの記憶。
川の記憶。
海の記憶。
そこからさまざまな日々が蘇る。
そして、思い出したくても絶対に思い出せない水の記憶に気づく。
母の胎内の水の記憶だ。
それは、目を閉じて感じる。



入り口と出口

2014-10-24 20:49:35 | 創作日記
眠れぬ夜、ふと、「ダンス・ダンス・ダンス」村上春樹著を書棚から引き抜いた。いつの間にか26年の年月が流れている。本は、第5版である。初版が1988年10月で三ヶ月足らずで5版。やはり当時も凄い人気だ。内容はきれいに忘れている。ドルフィンホテルに記憶がある。少しずつ思い出していくだろう。ふと、目がとまった。頁22。
『僕の部屋には二つドアがついている。一つが入り口で、一つは出口だ。互換性はない。入り口からは出られないし、出口からは入れない。それは決まっているのだ。人々は入り口から入ってきて、出口から出ていく。いろんな入り方があり、いろんな出方がある。しかしいずれにせよ、みんな出て行く。(略)。残った人間は一人もいない。部屋の中には誰もいない。僕がいるだけだ』。
26年前の私は今の私のように感じなかっただろう。この比喩に目も止めなかったかも知れない。確かに私の部屋にも沢山の人が入ってきた。そうして、みんな出て行った。やがてドアは閉ざされるだろう。もし、誰かがノックすれば、無名の作家が書いたささやかな物語だけが部屋に残っている。