創作日記&作品集

作品集は左のブックマークから入って下さい。日記には小説、俳句、映画、舞台、読書、など…。そして、枕草子。

連載小説「もう一つの風景(19)」

2016-02-29 07:29:27 | 創作日記
もう一つの風景

19

 光雄は次の日も帰ってこなかった。そろそろ隣のスパイが多武峰に連絡するだろう。家の前で顔を合わせても房子を避けていた人が、半年程前からなんやかやと家の事を聞くようになった。
 隣が留守だから預かって欲しいと運送屋が持ってきた荷物の送り主が光雄の実家だったのを見て、今から出掛けるところだからと断った。夕食の時、光雄とその話をしている途中、隣の人が田舎から送ってきたのでと、盆一杯の柿を持ってきた。馬鹿丁寧に礼を言い、その人が消えると、隣に聞こえるのも忘れて、光雄とおなかが痛くなる程大笑いした。
 良一が二つか三つで、光雄の膝の上が彼の夕食時の指定席だった。
 結婚から七年、その時の生活が夢のように思える。それから五年の日々。教師を辞め、暇つぶしに通いだしたパチンコから競馬、競輪、競艇へとてあたりしだいにのめりこんでいった。最初のうちは小遣い程度の金ですんでいたが、夜に出歩くようになって、それが2倍にも3倍にもなった。
 多武峰から、豊美が義母の代理でやってきて、光雄が勝手に山を売ってしまった伝えた。義母はもともと光雄に財産分けするつもりだったから、その時期が早くなったと思えば諦めもつくと言っているという。それに息子や嫁を縄つきにするわけにもいかないとつけくわえた。
「なんでも、うちが絡んでる思うてはんねんなあ」
「私はそんなこと思てへん」
 豊美は殺風景な居間を見渡しながら言った。
「あれも血やと、村の者は言うてる。光雄さんのお父さんは相場に手を出して、殆ど財産潰さはった。昔の木村の家は凄いもんやった。今は、こんなこというたらあかんけど、母屋と僅かな土地しかあらへん。うちの月々の給金もしんどいくらいやもん。ただ格式だけが幽霊みたいに住みついてるだけや」
「それで、お義母さんはうちにどうせえ言うたはりますの?」
 その時、光雄が帰ってきた。豊美をチラッと見て、「ようおこし」とだけ言って、居間の隅に座りこんだ。
「ちょうどええわ、光雄さんも一緒に聞いて。田舎の分校やけど、棒原(はいばら)の奥の小学校に欠員ができたんやて、そこへ行く気があるんやったら、頼めるらしい」
「もう教師する気はあらしませんわ」
 光雄は人ごとのように言った。
 光雄は溺死した生徒の顔をいつの間にか忘れている自分を責めていた。房子のいうように自分は教師をやめたい一心からあの事故を利用したのかもしれない。罪の意識のかけらもないのに、そのふりをして、他人や自分さえも騙し続けているのだろう。自分が教壇に立つと、死んだ生徒が教室の全ての机についており、光雄の顔を眺めている夢もこのごろみなくなった。そのかわりにサイコロが夢のなかを駆け回っている夢が増えた。そんな自分が許せない。たまらなく嫌だ。房子に言葉たらずにそのことを言うと、自分が可愛いのは人の常だが、自分で自分が好きだと言う人は嘘つきだと言った。To be continued 

連載小説「もう一つの風景(18)」

2016-02-28 08:49:38 | 創作日記
もう一つの風景

18

 スロープを上がり外に出た。太陽の光が眩しい。外気に触れると別世界に出た気がする。あのじめじめした場所と時間を共有しながらこんな外の場所があるのが信じられない。ここには時計の時間ではなしに、一日の中の昼間という時間が流れている。太陽も風も空気も晩秋の昼間だ。
 房子は大きく深呼吸をした。あの女にも、私の知らない生活がある。そこにある掃いても掃いてもなくならないゴミを私に向けているのかもしれない。しかし、そんなのは迷惑だ。あいつのゴミを自分が被らなければならない理由も義理もないんだから。だが、何故かかわいそうな気がする。自分と同じように哀れに思う。狭い場所で、湯気に濡れながら他人の飯を炊き、食べ残しに手を汚し、米粒のこびりついた食器を洗っているのはあの女も私も同じなのだ。
「もう、寒いなあ」
 いつの間にかKが横にいた。
「急に寒うなって」
 房子が話を合わせる。
 別に話すこともないので、房子は黙って、職員がバトミントンをしているのを見ていた。Kは煙草に火をつけた。
「なんか、元気ないなあ」
「ええ、今朝お財布落としてしもて」
 すんなりと嘘が出た。ぼんやりと考えていた事がこの嘘だと後で気がついた。
「そら、こまったやろ。警察には届けたんか」
「ええ、せやけどあかんと思いますわ」
 語尾が消えるように小さく言う。
「まあな、せちがらい世の中やからな」
 男は根元まで煙草を吸い足元に落とし、丹念に踏みつけた。頭を下げて、Kから離れた。Kは何かを考えるように踏みつけた吸い殻を靴先で地面ににじりつけていた。
 その日、スロープをあがると、Kが待っていた。
「困った時はお互いや」
 そう言って、房子の手に茶色の封筒を握らせ、足早に姿を消した。
 外に出て、中を見ると、二万円入っていた。当時の房子の給料より多い金額だった。その金が意味することを知りながらも、房子には必要な金だった。To be continued 

連載小説「もう一つの風景(17)」

2016-02-27 09:55:19 | 創作日記
もう一つの風景

17

 残飯をポリバケツに捨て、次々に食器を湯の中に沈めていく。これらを食べた人間の事など頭の隅にも浮かばない。彼らとて食事をつくり、自分の汚した皿を洗っている房子のような存在を考えたことがないだろう。それが社会というものかもしれない。意識することなしにつながり、お金という性格のないものが唯一の通路になっている。
 箸をつけたあともない盆もある。それを残飯のバケツにほうりこむ時、ふと、悲しい気持になる。
 それぞれの生活がなんのつながりもないのが、どうしょうもない事なのに悲しく感じられる。
 時々、何階の何々さん食事取り消し、と事務的な電話が入る。死亡したのか、急に退院が決まったのか、この部屋にいるかぎり分からないし、分かる必要もない。
 個人にとっての一大事も、この部屋の中では日常の些事にすぎない。箸をつけなかった食事も、箸をつける筈の人間が永遠に不在になったためかもしれない。あまった飯を握っている時はそこまで考えなかった。死人の為の飯を握っていたかもしれないと思うと全身に悪寒が走った。そして、明日からでもその行為が必要な自分にやりきれなさを感じた。
 12時前に、職員のおかずを棚に並べる。飯と汁は、二人がかりで運び、中央のテーブルに置く。地下の職員食堂は、この季節になっても蒸し暑い。病室へ行くボイラーの配管の具合で空気が澱み湿気が高い。
 盛りの多いおかずを選び、味噌汁の具を出来るだけ沢山すくいとる。その様子が、高級取りの医者から、臨時の掃除夫まであまり変わらないのが不思議だ。
 Kはそのような職員の中でもとくに念入りに皿を選ぶ。いつも棚に顔を突っ込むように物色している。
 職員の昼食が一段落すると房子はまた床に水を流した。昼食をとる厨房の片隅の小さなテーブルのまわりを少しでもきれいにしておこうと思ったからだった。
「またや、うちへのあてつけやわ」
 古参の女がヒステリックな声をあげた。
「なんとか言うてなあ。床洗いは最後でええいうてんのに、ああしてあてこすりしよんねん」
 調理師に味方を求めるように叫ぶ。
「まあ、ええやんか、きれいにすんの悪いことやないし」
 調理師が言うと、女は顔を覆って泣く仕草をする、
「ちょつときれいな女やったら、あんたら甘いねんから」
 困った顔をして調理師が房子に近づく。
「あんまり気そこねさせんといて、傷つきやすい年ごろなんやから」
 爆笑が起こった。房子も思わず笑った。女が食器を床に叩きつけた。笑い声は一瞬に止まり、気まずい空気が流れた。房子は上っ張りを脱ぎ戸口に向かった。
「どこ行くんや、まだ休憩やないで」
 背中に女の声があびせられた。房子は踵を返し女の目を見た。
「お手洗いに行きますね。一々あんたの許可もらわなあきませんのんか。あんたにお給料もろてるわけやないんや」
 房子は平然と透き通った声で歌うように言い放った。To be continued 


連載小説「もう一つの風景(16)」

2016-02-26 07:27:11 | 創作日記
もう一つの風景

16

 一人分ずつプラスチックの盆に飯や汁をのせ配膳のストレッチャーに入れる。配膳係りが重いストレッチャーを押して消えると、朝の一段落がつく。男たちは煙草を吸いに出て行き、鍋や釜を洗う女たちが、つまらない冗談や、噂を始める。房子は床に水を流す。
「そんなんは、昼からでええやろ」
 頭に白いものの目立つ一番古参の女が刺すような目付きで言う。汚れに気がついたら、こまめに水を流せと昨日言ったのは誰だ。房子は黙って女を睨む。
「なんやその目は」
 房子の視線をそらして、女は言い、顔を反転させて、両隣の女に同意を求めるように交互に顔を窺う。二人の女は黙って鍋を洗っているふりをしている。手が止まり、これからどんなやりとりがあるのかと身体中を耳にしている。その時、ふらっと栄養士が入ってきた。病的なほど細い身体と青白い顔が、この病院の栄養士という名にふさわしい。年下の調理師と関係があるという噂があった。秋になって一週間休んだのは、その男との間に出来た子をおろしたのだという噂があとに続いた。
「みんな手洗いだけはちゃんとしてや、いつもいうてるように、ここまで石けんでようあろて、そのあと消毒液で洗う、そして、水でよう流す。手ぬかんといてな」
 ほそい腕を肘までまくって言った。眼鏡の奥の糸のように細い目を見るとどんな顔をして男とやるのだろうと、つまらないことを考えてしまう。
 九時に配膳車が汚れた食器と食べ残しを積んで帰ってくる。
 女二人は調理師と昼の支度を手伝い、房子とUは、洗い場にうずたかく積まれた汚れた食器を洗う。
 Uは殆ど喋らない。黙々と洗い続ける。子供のように小さな身体が何かに耐えるように動いている。二人の女はUを馬鹿にしていて、嫌な仕事を押し付ける。「ゴミやゴミ」「残飯、残飯」女がそう叫ぶと、Uは走って行く。古参は煙草を買いに行かせ、つり銭が違っているとからかう。Uがどぎまぎして、計算をやり直すのが面白いのだ。房子は二人に組しないし、かといってUを庇いもしない。下手な正義感なんてつまらないし、気にいらなければUが女たちに噛みつけばいいのだ。同じ所で働いているだけで、それぞれが他人なんだから。To be continued 

連載小説「もう一つの風景(15)」

2016-02-25 09:13:21 | 創作日記
もう一つの風景

15

 私立の中規模の病院、厨房に続く細い地下へのスロープを下りる。重い戸を引いて中に入ると、早出の調理師が働いている。男の調理師が三人、房子と同じ臨時のまかないの女が四人、その他に滅多に厨房に顔を出さないハイミスの栄養士が一人。調理師のSが鍋にぶつぎりの葱をほうりこみながら、栄養士の悪口を隣の若いNに何度も同意を促しながら喋っている。
 ここには、些細な不満がいつも澱のように沈んでいる。自分の中にある形のない苛立ちが、他人の一寸した言葉や仕草に直結して吹き出してくる。噂もよく似た性質を持っている。誰と誰があやしいと一人が言うと、二人がつれこみホテルから出てくるのを見たと出所の分からない話がまことしやかに動き出す。噂のほうは、房子の知らない人の場合が多い。一日中、この厨房にいて、よく知っていると感心する。
 房子が厨房から見るのは、職員の昼飯を並べる棚の間から、医者や看護婦や事務員らの職員が同一の昼飯を食べている光景だけだ。医師の名前も看護婦の名前も、職種さえ分からない職員も数多くいる。彼らも、おかずの並ぶ棚の向こうにいる房子の存在を一瞬たりとも考えたことがないだろう。病院にいながら、ここが病院だという気が全くしない。お粥や、減塩食、低カロリー食、肝の1、膵の1、患者の様々な食事を配膳しながらも、それらを食べる患者が自分とは全く無縁な人々に思える。それは、巨大な鍋で炊かれた汁やおかずが、人の食べ物と程遠く感じられ、それを食べる巨大な姿のない動物の胃袋を想像するのに似ている。
 厨房の壁ごしに、狂ったように号泣する女の声とその声の背景のようにカラカラと小気味のいい音をたてて通りすぎるストレッチァーの音が聞こえる。食堂の横を通り、右に折れる、迷っても誰も足を踏み入れないであろうその通路の奥に霊安室がある。不思議な通路だ。普段はあることさえ気づかずに見過ごすことが多い。気づいても、何処にも抜けられないのが無意識に分かる。
 今朝も誰かが死んだ。その時、ここが病院であることを突然意識する。患者の数病気があり、苦痛があり、そのなかには、忍び寄る死の跫音もあるのだろう。だが、房子の働く周りの光景はあまりにもそれらと無縁だ。そして、ここで働いている自分にも関係のないことだ。To be continued