烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

水の話

2005-11-13 20:37:50 | 随想
 水は、おそらく最も単純な食べもの・・といって悪ければ口にするものである。人間の体は約65%が水である。すなわち体重50kg の人間を乾燥してミイラにすると17kgになってしまうということである。そこまで極端ではなくとも、年齢を重ねるにしたがって、体内で水が占める割合は減少してくる。循環する血液としての水分も生命維持のために必要で、出血で血液量の約25%が失われると命が危なくなる(50kgの成人では約1リットルである)。まさに「命の水」であり、私たちは炎天下のミミズのように干物にならないよう毎日水分を摂っているわけだが、純粋なH20としての水(無色無臭透明の水)はほとんど摂ってはいない(蒸留水を日頃飲んでいる人あるいは飲んだことのある人は稀だろう。付け加えると人間の体液、血液は海水の成分に似ていて、何も溶かしていない蒸留水を体に直接点滴したりすると溶血を起こして大変なことになってしまう。だから脱水を起こして死にそうな人がいたら、まずは生理食塩水という「生理」的な水を与える)。生まれる以前から人間は、胎内で羊水という水を飲んでいる。生まれてからはまず母乳という形で水分を摂る。何も口にしていなくても私たちは一日1.5リットルの唾液という消化酵素を含有する水を飲み込んでいる。水として摂っている中にも様々なミネラルや栄養分が含有されているのが私たちが摂っている「水」の本来の姿である。したがって私たちが摂取する水は何らかの形で何かを溶かし込んでいる「溶媒」としてであることになる。

 「媒体」というものは、何かを運ぶためには欠かすことのできないものでありながら、それとして意識されにくいものである。それは役目をはたせば本来消えゆくものであるからである。たとえば毎日社会情勢を伝えてくれる新聞がその役目を果たすと新聞紙となり捨てられていくように。新聞は情報源としての価値を認められている間は媒体である「紙」は意識されないが、次の日になるととたんにその媒体としての紙が前面に存在しだし、新聞「紙」となるのである。その意味で水は私たちに必要なものを溶かしている媒体である。乳児は(言葉はしゃべれないけど)母親の乳房から水をのんでいるという意識はなく、母乳を飲んでいるのであり、家族は水を補給しているという意識なしに食後のお茶をのみくつろいでいる。そしておじさんは水で乾杯するという意識なしにワインを飲んでいる(これは後で水が欲しくなるから水分の補給ではないね)。だから日常生活でも媒体としての水があんまり前面に出がちになると、私たちはなんとなく「水くさく」感じてしまうのであり、それを避けたくて「水いらず」を求めるといえる。

 
 では媒体としての水の存在が強く意識される状況とはどういう時か? 生物学的には、生命の維持のために水の補給が喫緊の課題になったときであろう。たとえば砂漠で水を求めるときのように。この水の場合は、媒体としての水が主体に変わる。だからそこで現れる水は、外見はどんなに濁った「泥水」や「汚水」であろうと、求めるものにとってはまさに「水」である。極限の状態では、本当に大事なものが見えてくる。砂漠と水で私が思い出す場面は、サン=テグジュペリの『星の王子様』の中での場面である。「ぼく」と王子さまに言われ、砂漠で水を手に入れるため井戸を探しにいく。「ぼく」は、王子さまに付き添いながら月光の下を歩いていく。

  王子さまが眠りそうだったので、両腕でかかえ、また歩きはじめました。感激で胸がいっぱいでした。なんだか壊れやすい宝物を運んでいるように思われました。地球の上で、これ以上壊れやすいものはないようにさえ思われまし た。ぼくは月光をたよりに、王子さまのあの蒼白い額、あの閉じた眼、風になびいているあの髪の房を見つめていました。そして心のなかで思ったものです。いまここに見えているものは、外見にすぎない。いちばん大切なものは、眼に見えないんだ・・・と。

そしてついに井戸を見つけた「ぼく」はつるべを使って水を汲み上げ、王子さまに水を飲ませる。

  ぼくは、つるべを、王子さまのくちびるに持ちあげました。すると、王子さまは、目をつぶったまま、ごくごくとのみました。お祝いの日のごちそうでもたべるように、うまかったのです。その水はたべものとは、べつなものでした。星空の下を歩いたあとで、車がきしるのをききながら、ぼくの腕に力を入れて、汲みあげた水だったのです。だから、なにかおくりものでも受けるように、しみじみとうれしい水だったのです。(内藤 濯訳)

 砂漠の真ん中で汲み上げられた水が、果たして飲料水として耐えられるものだったかどうかは、ここには描かれていないが、そんなことは全く重要ではないのだ。「ぼく」が王子さまのために「腕に力を入れて、汲み上げた水」こそが大切なのだ。ここで私たちは再び転回を経験する。媒体としての水が主体としての水として現れ出て、再び媒体として背景に退いているのが分かる。それは「たべものとは、べつなもの」としての「水」である。なにかとても大切な「もの」を溶かし込んだ媒体としての「水」、水以上の「水」の存在を経験するのだ。作者のサン=テグジュペリは、実際に飛行機を操縦中北アフリカのリビア砂漠に不時着し、死に瀕した経験があり、それをもとにして『人間の大地』という著作を書いている。救出された際に水を飲んだときの経験が次の叫びにも似た次の言葉に封じ込められている。

  水よ!
  水、おまえは、味も、色も、香りもない。おまえを定義することはできない。おまえがなんたるかを知らずに、ただ飲むだけだ。おまえが生命に必要なのではない。おまえは生命そのものだ。おまえは、感覚によってはけっして説明されない歓びをわたしたちのうちに滲みこませる。おまえとともに、わたしたちが諦めたすべての力が立ち帰ってくる。おまえのおかげで、わたしたちの内部に、心情の涸れた泉のすべてがふたたび湧き出すのだ。                                         (『人間の大地』)

 ここでは水=生命の次元まで高められた水が描かれている。精神の「渇き」を癒すことばも、このような「水」になることがある。だから砂漠を彷徨って悪魔と戦ったナザレの救世主は、こう伝える。

  人もし渇かば我に来たりて飲め。我を信ずる者は聖書に云えるごとく、その腹より活ける水、川となりて流れ出づべし。(ヨハネ7:37-38)

 渇きを癒す精神のことばは糧となるだけでなく、やがて力強い信仰のことばとなって活きた水となって奔流となり迸り出る。映画『ベン・ハー』では、奴隷となって砂漠を行軍していく主人公が倒れた際に、柄杓の水を彼に差しだした人物がそのことばの主だったのが思い出される。
 
 生命としての水が結晶するとそれは氷となり雪となる。宮沢賢治の次の詩では、生命の源としての水が、「みぞれ」となり「ゆき」となり、宇宙的な次元まで高められた「もの」となり、作者の思いとともに遙か彼方へと上っていくのが感じられる。

  銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの
  そらからおちた雪のさいごのひとわんを・・・・
  ・・・ふたきれのみかげせきざいに
  みぞれはさびしくたまつてゐる
  ・・・・
  おまへがたべるこのふたわんのゆきに
  わたくしはいまこころからいのる
  どうかこれが天上のアイスクリームになつて
  おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに
  わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ
               (『永訣の朝』)

やはり水は単純な存在だが、定義できないほど難しい。