烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

都市の詩学

2008-01-15 23:12:09 | 本:芸術

 『都市の詩学』(田中純著、東京大学出版会刊)を読む。
 私たちの先人たちが住まい、そして今私たちが住まっている都市という生き物の無意識への階段を降りていくような試論集成である。本書の人名索引を見ると、ベンヤミンそして中井久夫、ギンズブルグが随所に引用されていることがわかる。これらの著作が重要であることが一目瞭然である。事実本書の跋に曰く、「ベンヤミンの都市論は、わたしにとって、つねにそこに立ち返りながら旅を続けるための母港のような場所で」あり、「海図もない航海を終始導いてくれたのが、中井久夫氏のテクストだった」と。そして第1章で登場する建築家アルド・ロッシの都市分析は、「類型を求めて自分の生を逆行しながら狩りをする狩人の知、カルロ・ギンスブルグの言う「徴候的な知」であり、いわゆる「セレンディピティ」による知であろう」と述べている。
 都市を解読するために私たちは徴候を敏感に嗅ぎ取る狩人であることが要求されている。そしてここでテクストとしての都市を解読するために地霊(ゲニウス・ロキ)が召還されるのだ(第3章)。土地(という無意識)は言語として構造化されており、ここで使われる言葉は修辞学的なトポスと不可分である。



場所は、空間的なものであるにとどまらず、意味を産出し分節化する修辞学的な性格をもつ。ゲニウス・ロキとは、歴史的な経過によってさまざまな記憶が包蔵された、重層的な意味を産出する場にほかならない。


・・・響きにおいて感覚的なものを残す土地の名は、おのずと無意識の詩学に従う。無意識は修辞学を駆使する。そして無意識がなかでも愛好するのは人名や地名といた固有名の操作なのだ。


ここでフロイトのヘルツェコヴィナへの道中での有名なエピソードが引用されている。なるほどと思わず頷く。


そしてゲニウス・ロキが関わる「パトス的な記憶」(中村友二郎)が「徴候的な知」であると述べ、中井久夫が「観念は匂いに似ている」という洞察を引く。「都市に陶酔する遊歩者とは、そんな獣的官能を備えた巧みな発見者である」ならば、ベンヤミンが指摘しているようにパサージュを歩く遊歩者は、蜜の匂いに陶然となりつつ花の奥へと吸い込まれていく昆虫のように、都市の無意識の深奥へと誘惑され下降していく者たちに違いない。だから「遊歩者にとってはどんな街路も急な下り坂なのだ」。
 彼らが歩くパサージュが一つの「ヴンダーカンマー」(=クンストカンマー;驚異の部屋)と見なしていたということが第12章で書かれていた。これはつい先日ヴンダーカンマーの本を見たばかりであったので、たいへん興味をそそられた。



 陶酔状態で町を彷徨う遊歩者は、珍品奇物のような「驚異」としての街路風景や街路名との遭遇に驚き、その「驚異」に酔う術を知っていた。ベンヤミンがアジェの都市写真やシュルレアリスムに見ていたものも、「痙攣的」な美としての驚異だった。そのとき都市とは、驚きの対象を透明な記号に変換することで既知のものしか発見することのできない「驚異的占有」にいたる知ではない、別の知、別の経験の場でなければならなかった。


類稀なる嗅覚を備えた著者による都市の胎内への旅行記はとても刺激的である。


少し気になったのは、こうした都市というものが、現在人間の行動特性を先読みして設計したような建造物によって変貌しつつあるのではないかという点である。第14章では都市とアフォーダンスの関連が述べられているが、そうした人間のアフォーダンス特性を利用して、まったくごく自然な形である場所での滞留時間を短くしたり、人の流れをある場所へ誘導したりすることが可能である。そこでは陶酔して迷うことすら設計された想定範囲の行動となるはずだ。そうして設計された都市にはいったいどのような無意識が宿ることができるのだろうか。

それと以前読んだ『ベンヤミンの迷宮都市』(近森高明著)はもう一度読み返してみなければと感じた。