烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

芸術と生政治

2006-05-01 23:34:37 | 本:芸術

 『芸術(アルス)と生政治(ビオス)』(岡田温司著、平凡社刊)を読み始める。
 第一章では、ベンサムのいうパノプティコンという一望監視装置の思考が、美術品を一般市民に広く公開するという近代的な美術館でも実は無縁ではないどころかしっかりと根付いているということを示している。美術品を「鑑賞する」目をもつ観衆をできない観衆から分かつ装置としての美術館という考え方は非常に刺激的である。それは何よりも感性的なものに訴えるが故に、逆らいがたい力を発揮するからである。美術品を眼差す観衆を眼差す視線が、内面化されればされるほどそこには無言でありながら強力な力が生まれることになる。大勢の群集に混じって「有名とされる」美術品を見るときに感じる一種の居心地の悪さというものは、なるほどそういう視線によって突き刺されているからなのかもしれない。


第二章の絵画の「衛生学」では、時間の経過とともに蒙る絵画の汚れについての考え方を紹介しながら、啓蒙の精神と汚れなき絵画という存在にいかに親和性をもっていたかを示している。1838年に開設されたナショナル・ギャラリーでは、英国民の趣味と教養を培うために貴重な教材たる絵画が黄ばんで汚れていることはタブーとされたのである。ここには、汚れた肌をもつ絵画は、病んだ病人であり、それをきちんとした元の状態に戻す修復作業は病を癒す医術にあたるという隠喩関係が成り立っている。
 イタリアでは汚れは真性な存在をかき乱す体系への侵犯であるという立場と時間の経過も名画を名画たらしめる重要な要素であるする主張がなされていたが、イギリスでは修復派が優勢であった。
  この過程で上に述べたように科学的立場に立つとする「衛生学的」思想が説得力を発揮したということは、美術という分野でもこうした言説の権力がものをいうということを知らされ非常に興味深いことである。さらに「ミアスム(瘴気)」理論という一見科学的な言説の装いをとりながら全くの憶説が、高貴な美術品とそれに群がる群衆という貴と賤という対立軸を導入していく過程は、似非科学的言説が容易に差別的権力と結びつくことを教えてくれる。
 また、時間の経過をある真正な存在からの堕落と解釈し、時間による腐敗を除去することがひとつの「救済」であると解釈されるのは、キリスト教的思想が基盤にあるためであろうか。
 それにしても作品をある時点で完成させた芸術家自身もその作品がどのような時間的経過で変容を遂げいくかが知りようもないことであるのだから、「真正」な存在ということ自体がありえない存在であるということは間違いない。高貴な芸術は不滅、すなわち時間とは無縁であって欲しいという欲望が、汚れを取り除いた向こう側にあるほんとうの芸術という幻想を抱かせるのだろう。そしてその幻想から権力が芽生えていくということだろうか。


 フーコーが『監獄の誕生』で示した内在化させる権力装置という概念の美術史への応用編といった感じの書物であるが、一見まったく個人的に思える審美的判断と権力という眼差しの密やかな結合関係を明確にして論じている点は、非常に重要な点だと思う。


 本書でも引用されている『知覚の宙吊り』(ジョナサン・クレーリー著、岡田温司監訳、平凡社刊)も平行して読書中だが、眼差しというものが一つの歴史的制度の産物であることを示していてこれも興味深く読める(ただ門外漢からみると、ここまで深読みするかなあというところはあるのだが)。
 *視線がすでにつねにある汚染を蒙っているものだということ、自然な時間経過という物言いの中にも特定の(欲望の)視点から述べられたものであるということ。