烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

昭和史 1926-1945

2007-09-20 22:51:43 | 本:歴史

 『昭和史 1926-1945』(半藤一利著、平凡社刊)を読む。
 半藤節による昭和史連続講義をまとめた本である。本の帯には「決定版!!語り下ろし」とある。本を手に取ったとき、この「語り下ろす」という言葉が何となく気になった。「書き下ろす」という言葉は知っていたが、この言葉にはあまり馴染みがなく違和感を覚える。最近インタヴューをして語った内容を専門のライターが筆記してまとめたものを出版したものが「語り下ろし」と銘打って本になるようだ。「下ろす」という意味には「製版、印刷に回す」というのが辞書に載っているので、基本的には原稿として新たに書かれたものが「下ろされる」のであろうが、「語り下ろす」という場合は、「語る」→「聞き取る」→「書きつける」→「出版」という手順を踏むのをまとめて「語り下ろす」というようだ。この場合「書き下ろし」という時に意味される「新たに」というニュアンスが含まれるのかどうか私にはよくわからない。その人の主張などはしばしば随所で表明されるものであるから、それをわざわざ「語り下ろす」として「新しさ」を強調することができるのかと思うのだが、どうやら新鮮さを売りにしようという出版社側の意図なのであろう。何を売るにつけ、この国では新鮮さが重要なのである。
 本の内容に入る前からずいぶん瑣末なことに拘るようであるが、本を手にしたときに買うかどうかを決める材料として意外とこうした瑣末なことが大事なことがある。私は書店でこの本を見たときに、どうもこの「語り下ろし」という言葉がひっかかって買うのを躊躇ってしまったのである。
 それはともかくそんなことは気にせず読んでみると、名講義録であり臨場感をもって読める。帯に気にせず買ってよかったという感想である。著者は昭和五年生まれであり、まさに少年時代を太平洋戦争下の空気を吸って成長している。この時代の空気を吸っていたというのが、「語り」には必要なのである。それにしても史実ではわかっていながら、この開戦から終戦までの過程の詳細を改めて聞かされると、著者の慨嘆ではないがまさに「なんというバカなことを」という思いがため息とともに出てくるのを抑えることができない。この読後感がずっしりと重くのしかかるのは、当時の軍部の重鎮たちの思考と決断が実は今の政治状況においても(皮肉なことに)脈脈と受け継がれているという思いを新たにさせられるからに他ならない。視野が狭くなっている時には、目先の人参にしか思いが至らないものである。これが避けられない人の短所であるならば、その視野狭窄を正すためには、その競争を客観視できる忠告者が欠かせないのであるが、人参に夢中になっている競争者にとって、一番腹立たしいのがこうした客観の存在であるというのも歴史は語ってくれる。それがときに峻烈な権力闘争のうねりとなるのだが、歴史を読む者にとっては、忘れがたき教訓の標となるのである。
 翻って現在の日本の指導者(と自負している)たちの権力闘争は、はなはだ茶番に近く、これでは「バカであることの」教訓にもなりがたいものではなかろうかと感じられる。職を賭するという気概の表明がこの本の時代と現在ではあまりにも違いすぎる。これはもう悲しいくらいのことで、今度の事件のために最早「職を賭して」という表現で、決死の覚悟を表明することはできなくなった。「安倍政権以降、職を賭することは茶番である」と誰かの名句をもじって言えるかもしれない。後世の歴史家がこのときの歴史を振り返って、あまりのバカさ加減のために執筆欲を失うようなことにならなければいいがと思う。