狂気は、一生を通じてわれわれについてくる。もし何人かが、おとなしそうに見えたら、それはただ、その人の狂気沙汰が、その年齢と運命とにたいして釣合を取っているからだ。
狂気なしに生活する人は、自分の信じているほど賢くはない。
世には、伝染病めいた狂気沙汰がある。
年とった狂人は、若い狂人より、もっと狂人だ。
『箴言集』 ラ・ロシュフコオ
狂気は、一生を通じてわれわれについてくる。もし何人かが、おとなしそうに見えたら、それはただ、その人の狂気沙汰が、その年齢と運命とにたいして釣合を取っているからだ。
狂気なしに生活する人は、自分の信じているほど賢くはない。
世には、伝染病めいた狂気沙汰がある。
年とった狂人は、若い狂人より、もっと狂人だ。
『箴言集』 ラ・ロシュフコオ
ああ このおほきな都会の夜にねむれるものは
ただ一匹の青い猫のかげだ
かなしい人類の歴史を語る猫のかげだ
われの求めてやまざる幸福の青い影だ。
『青猫』 萩原朔太郎
人類は全体として愛されうる存在なのか、それとも不快の念をもって見なければならない対象であるのか、われわれは人間に(人間嫌いにならないために)あらゆる善を願うが、しかし人間にそれをけっして期待してはならず、人間からはむしろ眼を背けなければならないのであろうか。この問いは、別の問いに対する答えにかかっている。それは、人間の本性には、人類がより善い状態にむかって前進し、現在と過去の時代の悪を未来における善によって解消するであろうという素質が備わっているか、という問いである。
『理論では正しいかもしれないが、実践には役立たないという俗言について』(イマヌエル・カント)
慣習や伝統は、人々がそれに習熟し実践することができるようになって初めて知識となりうる性格のものである。「慣習」という言葉は英語ではふつうconventionやpracticeであるが、前者は約束事が次第に慣例化して慣習となったというニュアンスをもつのに対し、後者は人々があることを実行し実践していくうちに慣例化していったという意味を含んでいる。だから知識としての慣習を指示するのは、コンヴェンションよりはむしろプラクティスのほうだと言っていいかもしれない。
『ケインズとハイエク』(間宮陽介著、ちくま学芸文庫)
「不真面目」とは、何よりも、人生の本質(真実)を解っているからこそ、私の人生には価値がある、とか、幸福を手に入れたからこそ、俺はそこらの奴らと違って輝いている、とか思うのをやめる生き方だ。人間の人生、および彼(彼女)自身は、たとえ本質であれ、幸福であれ、またどんなに見事な意味づけであれ、他の何物かによって価値を保証されるものでは断じてない。それぞれの個人とその人生は、全くそれだけで、絶対的な価値を持つのである。
『極太!! 思想家列伝』(石川忠司著、ちくま文庫)
行為知はつねにすでになされている。
道具の特質は、「できる」という体験的行為の相関項であって、観察者の知覚対象ではない。
行為を継続することが、同時に制作物の形成である。
身体が住まうということは、時間・空間のなかに住まうのではなく、ほんとうは時間・空間との関係を変えることである。
『システム現象学』(河本英夫著、新曜社刊)
根無し草的状態におかれることは、他の人々によって認識され、保証される場所を、世界のどこにももたないことを意味し、余計ものであるということは、世界のどこにも帰属していないことを意味している。孤立が孤独の予備的条件でありうる(絶対にそうだとは限らないが)のと同様に、根無し草的であることは余計ものであるという意識の予備的な条件でありうる。
『全体主義の起源』(ハンナ・アーレント著、みすず書房刊)
退屈とどうつきあうかで、ひとの人生の感じかたは、はっきり二つに分かれる。退屈を最悪の患いとして、猫の手も借りたい忙しい人生をねがう人と、退屈を最良の機会として、「想像の尻尾」を生やした人生をねがう人と。
猫の手か、猫の尻尾か、それが問題だ。ひとの人生の問題は、もしかしたら、ただそれだけにつきるのかもしれない。
『感受性の領分』(長田弘著、岩波書店刊)