幸福維新の志士となれ <幸福の科学>

国難打破から、いざ、未来創造へ

アテルイと胆沢ダムの不思議な関係

2010年01月21日 | 日記
小沢一郎はなぜ、「胆沢ダム」に固執したのか?
今日、仕事で全然違う資料を調べていて、偶然、その謎が少し解けました。

胆沢(いさわ)は、アテルイの出生地なのですね。
アテルイが日本の史料に登場するのは2回。

1.巣伏の戦い(『続日本紀』)
2.アテルイの降伏に関する記述(『日本紀略』)



■巣伏の戦い
…奈良時代に東北地方(後の陸中国)で発生した、朝廷軍と蝦夷による戦闘である。
(Wikipedia)

延暦8(789)年6月、征東将軍の紀古佐美は兵5万余を率いて、
蝦夷(えみし)征討のため水沢に攻め入りました。
迎え撃つ蝦夷軍の指導者が、アテルイです。

アテルイは、どんな戦法をとって朝廷軍を壊滅させたと思いますか?

なんと、胆沢川にダムを築き、朝廷軍が北上川を進軍してくるのを見計らって
その胆沢のダムを決壊させ、鉄砲水を起こして、朝廷軍を溺死させ大勝利をおさめたと言われています。
(アテルイは、小沢一郎より1200年も前に、既に胆沢ダムを造っていたのでした!)

古戦場の位置、政府軍が溺死した地点(本流の北上川)と胆沢川の位置関係、
そして現在の胆沢ダムの位置関係を、地図で確認してみました。

小沢一郎がダムを建設しようとしている胆沢川は、
アテルイがせき止めた胆沢川と、同じ川でした。



アテルイが政府軍を待ち伏せしていたのは、羽黒山。
そこに立つと、北上川が眼下に見下ろせるそうです。
政府軍は北上川ぞいに北上して渡河しようとした。
それを見て、アテルイ軍800が羽黒山から駆け下りて、挟み撃ちにしたのです。

アテルイたちは羽黒山から北上川に駆け下り、
北上川でちょうど政府軍と対峙します。
それに合わせて、胆沢川をせきとめたダムを決壊させ、政府軍1000人が溺死したと言います。

不思議な因縁ですね。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。