諸葛菜草叢記

 "窓前の草を除かず“ 草深き(草叢)中で過ごす日々の記

『 飛行機王の里 』 異聞

2008-07-28 16:05:18 | 日記・エッセイ・コラム

Ca390666  ♪ エンジンの音 轟々と  隼は征く雲の果て  翼に輝く日の丸と  胸に描きし赤鷲の   印はわれらが 戦闘隊~#

 ♪  寒風酷暑  ものかわと   艱難辛苦  打ち耐えて  整備に当たる 強兵が  しっかりやって  来てくれと  愛機に祈る  親ごころ ~#    ( 作詞  田中 林平 )

★  「 飛行機王の里 」 宙に  ( 00.09.04  JOM新聞の見出し )  中島飛行機製作所の創始者 中島 知久平が、両親の為に建てた邸宅( 昭和6年 中島御殿 )は、敷地10000平方、床面積1000平方の豪邸である。これを、町が、買い上げて、「 飛行機王の里 」つくりを計画した。 ところが、この計画に参与した中島源太郎代議士が、平4年に、急逝する。さらに、邸宅には、30年間もの間、甥夫婦が住み込み管理していて、立ち退きを拒否いる。したがって、計画は、中断のままである。新聞記事は、そう伝えている。 ▼  「○*☆◇の里」づくりは。ふるさと創生資金の大盤振る舞いの結果、流行ったものだ。O 町役場入り口の大看板 「 大和芋の里 」が、揚がっている。むしろ、町の主力産業の一つである「 芋 」を、もっと前面に押し出して、資金投入をして、地場産業振興策を更に進めることの方が、地域にとっては、大切な事だろう。突然に、降って湧いた資金で、見世物興業的な趣向の「 里 」づくりを計画するのは、如何にも無理で、想像力貧困の発想と言うしかない。「 宙 」に浮いている事の方が、むしろ、正解ではないだろうか。(注;1)

★  以下は、08年7月27日現在までに、知りえた事を、付記して書きしるす。

▼  中島飛行機製作所の主な生産機種と機数は、凡そ次の通りである。

 ○ 零式艦上機(海軍) 約 6、570機  昭和15年7月正式採用。

 ○ 一式戦闘機 「 隼 」(陸軍)  3、187機  昭和16年7月制式採用。

 その他、九七式艦上攻撃機、゜870機。 二式戦闘機 「鐘輝 」 1、227機。 四式戦闘機 「 疾風 」  2、700機。(昭和19年4月採用。零戦・隼に次ぐいで3番目の量産機種)

★ 第二次大戦中の航空機生産大拠点であれば、当然、アメリカの空爆の対象となる。昭和20年2月10日 爆撃機 「 B29 」(89機)の大編隊に襲われる。飛行機工場、飛行場、駅、公共施設は、もちろんのことだが、市内の一般民家などが、大きな被害を受け、多数の死傷者を出している。こうした諸般の事情を考えれば、08年現在、「 飛行機王の里 」は、実現しなくて、良かっただろう。平成の大合併で、「 大和芋の里 」は、O 市になったから、尚更である。「 核廃絶 平和都市宣言 」も、名前負けしなくて良かった。

★ 例年の事であるが、8月が近ずくと、弟二次大戦(太平洋戦争)の話題が、新聞紙面を飾る。さる通販大手は、商品広告特集を、別刷りタブロイド版3ページを、新聞折込する。「 A 新聞題字付き 」で折り込む念の入れようである。(「題字」を、どの位の料金で使わせるのか知りたいところだ。『 B・ C  』紙も、これと同様のことをしているのだから、けっこうな金額が、動く事は、事実だろう。新聞社も広告営業局サイドでは、儲け主義そのものである。) ▼ 「 開戦から終戦まで、3年8ヶ月の記録を集大成 」ーその時、戦場で何が起きていたのかー。その時代を生きて来た人には、刺激的な誘いのコピーである。「陸。海・空の攻防を徹底記録ーー若き将兵たちの素顔から、激戦地での詳細な作戦まで・・。etc 」  更に、殺し文句は、続くが、問題がある。緒戦には、訓練を重ねた精兵が活躍したかもしれないが、戦史に残る多くの悲惨な戦場での悲劇の主は、、赤紙一枚で召集された促成の兵隊たちである。▼ 総合監修者インタビュー 。昭和史研究家・作家の半藤 一利氏  曰く、「 なぜこんなことが、起きたのか・・。歴史的事実としての太平洋戦争を一度見ておいて欲しい。歴史を知らないと、歴史から学ぶ事はできない。」 言葉では その通りだと思う。しかし、【 歴 史 的 事 実 】!! そこには、問題が常に潜むのだ。もし、ある事実を誇張する意図をもとに、裏側に隠蔽された事実があるとすれば、それは、作られた【 歴 史 的 事 実 】という「 事実 」があるということである。「 歴 史 か ら 学 ぶ 」とは、こうした事実を解析することである。Mr. 半藤が、それを怠っている、と言って居る訳ではない。氏は、こうした事実究明を、総て引き受けねばなら無いだろう。 ▼ さらに、続く  紙面では、「 陸軍戦闘隊 隼 」の写真が掲載されている。圧倒的強さを誇ったと、絵解きされている。開戦から、東南アジアでの想定外の快進撃万歳歓呼と共に広がる戦域。こうした物語は、戦後も、マンガの世界には、いくつも登場していた。私の子供時代には、隣組の宴会などでは、「 軍歌 」は、よく歌われていた。武勇、愛国、殉教物語は、それとなく刷り込まれるものだ。意識しない限り、抵抗なく受け入れてしまう。『 加藤隼戦闘隊 』は、英雄譚の歌として、子供心の深層に焼きついる。『 0戦 』・『 大和 』となれば、殺し文句である。これは、かなり、恐ろしいことである。

★ 私は、故山本七平の著書を、かなり読んでいるが、中でも、「 私の中の日本軍 」で、は「百人切り」と言う、武勇伝の虚報を、分析し証明して見せた。「 戦争を単に戦闘行為の累積としてのみ捕らえる、いわゆるジャーナリステイックな刺激的、煽動的な見方への偏向 」への反論である。▼ 「 日本はなぜ敗れるのか 」ー敗因21ヶ条ー(角川書店)は、故小松真一の「虜人日記」を、もとに「 日本の戦争 」を、自分の体験をふまえて、解析したものである。「 バシー海峡 」について書かれた部分がある。▼ 「バシー海峡」とは、台湾の南側、フィリピンとの間の海峡である。今次大戦中、アメリカの潜水艦隊は、此処で、日本の兵員・物資満載居の輸送船団を待ち伏せして、攻撃して、沈めた。一隻約3000名の兵員は、一瞬にして、海の底である。日本は、敗戦まで、この船団輸送を繰り返す。そして、数十万の命が、失われた。この事実は、全く、公表されなかった。、戦後も、戦史には、登場しない。そして、七平氏は、以下に言う。

《  『 われわれが、「 バシー海峡 」と言った場合、それは単に海峡で海没した何十万の同胞を思うだけではなく、このバシー海峡を出現させた一つの行き方が、否応なく、頭に浮かんでくるのである。・・・(略)・・・ 太平洋戦争自体が、「 バシー海峡 」的行き方、一方法を一方向へ拡大しつつ繰り返し、あらゆる犠牲を無視して極限まできて自ら倒壊したその行き方そのままであった。だがしかし、わずか30年で、すべての人がこの名を忘れてしまった。なぜであろうか。おそらくそれは、いまでも基本的には全く同じ行き方をつづけているため、この問題に触れることを、無意識に避けてきたからであろう。従ってバシー海峡の悲劇はまだ終わっておらず、従って今それを克服しておかなければ、将来、別の形で墳出してくるであろう。 』 》

★ 「 わずか30年・・・ 」 ! 「 日本はなぜ敗れるか 」は、1975~76年に、書かれている。今日は、更にプラス30年である。【 憲法9条 】 【 靖国 】 【 自衛隊海外派遣 】が、象徴するように、 いま、時代は、過去を美化しながら、非反省的に進みつつある。地方の少さい町が、「飛行機王の里 」を企画したのも、この町に、飛行機製作所の創立者の関係する屋敷があったという偶然の所産であろう。だが、時代の空気が、これを簡単に許している事は、否めないだろう。

  

  私の愛犬との散歩コースに、戦没者の墓がある。墓石には、次のように刻まれている。

  『 故・・・・ハ・・・・ノ長男ニ生ル 大東亜戦争ニ参加ニューブリテン島アガリバチス2粁ノ戦闘ニ於いて昭和19年2月25日戦死ス行年24才  陸軍兵長 ・・・・・・・ 之墓』

  彼は、この近在の農家の生まれである。「 国を守るため 」とは、後から付けた美辞麗句にしか過ぎないものである。

  【 遺骨なき 墓荒っぽく  洗いけり 】 (ASAH歌壇  東京 N・I さんの句)

 

※ (注;1)  2000年の8月17日 私は、不覚にも、プールのロッカー・ルームで、転倒して、『大腿骨転支部』を骨折し、そのまま救急病院に搬送された。結果、チタン製の金具を大腿骨に入れ、折れた部分を固定する手術を受けて、40日間入院していた。このコラムは、病床の連れずれに、記したものである。


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